眠り姫1
 深く深く沈んでいた意識が浮上する。夢を見ていたような、見ていなかったような。寝すぎたのか頭も瞼も重い。名前は瞳を開けるのが億劫で数度瞬きをして再び瞳を閉じる。漸く瞼が軽くなってきたところで真っ白な天井をじっと見つめた。
 ここは何処だろう。見慣れた家の天井ではないことにすぐ気付き身体を起こそうとするが力が入らないのか動くことが出来ない。辛うじて少し動かせる頭を動かせば左腕に点滴が刺さっていることに気付く。枕元には何やら昔の刑事ドラマでよく見る爆弾のスイッチのようなものがあり、一瞬びっくりするが掌で握って親指に当たる部分の赤いボタンにナースコールだと思い直す。何故自分が病院にいるのかは皆目検討もつかないが動かないこの身体ではこれに頼るしかなさそうだ。重い腕をどうにか動かしナースコールのボタンを押す。ふと横にずらした窓の外では風が吹く度気持ち良さそうに木々が揺れている。それをぼうっと見つめいてると慌ただしく走る音が聞こえてきた。
 バンッ、と大きな音を立ててスライド式のドアが限界まで開かれたた。そこには白衣を着た医師と看護師がおり、一様に瞳を見開いている。
「バイタルとって」
「はい、苗字さん、触りますからね」
「あ、はい...」
 掠れた声が出て名前は驚く。看護師の手によって水差しから水を飲ませてもらうと、少しマシになった声で礼を伝えた。水差しをサイドチェストに置くと看護師は布団と病院着の袖を捲った。そのまま脇に体温計を差し込まれ、指先をクリップのようなもので挟まれ、腕を血圧計に圧迫される。
「痛い所や何か違和感は?」
「いえ、ありません。ただ身体が重くて...動けません」
 医師からの返事が無く、途端に名前は不安になる。何故自分がこうなっているのか分からないだけでもおかしいのは明白だった。
 ドクドクと大きな鼓動が耳元で聞こえる。看護師が体温と酸素量、血圧を伝え医師は頷いた。
「体調に問題はなさそうですね、安心してください。すぐにご家族に連絡をするので到着を待ってから、これからのことについてお話をしましょう」
 看護師に布団を掛け直され、二人の背中が遠ざかって行く。
「あの!」
振り返った二人に恐る恐る口を開く。
「わたし...何故病院に?」
 家族が来るまでにどれくらいかかるかは知らないがそれだけは聞いておかなければならない。一体何が起きているのか。
「あ...すみません。わたしたちも少し動揺してしまっていました。ご家族に連絡を」
 医師は看護師に伝えると、ベッド脇の椅子を移動させて腰掛けた。努めて穏やかな口調で医師は話す。
「苗字さん。あなたは四年間眠り続けていたんですよ」
「...四年間...?」
 口の中で噛み締めるようにして呟いた言葉。再び大きな鼓動が近付いてきて頭がクラクラする。
「先程から呼び掛けには応答頂いていますが、ご自分のお名前などはわかりますね?」
「は、い...#苗字名前#です」
「年齢は?」
「......25歳です...」
「そうですね、事件が起きた時あなたは25歳でした。しかし今はそれから四年が経ち、あなたは29歳です」
 事件、という言葉がひっかかるがそれよりも年齢だ。知らない間に四つも歳をとり、30目前とは女として洒落にならない話だ。29、29と恐ろしい数字が頭の中をぐるぐると巡る。
「覚えている最後のことはなんですか?」
「最後...?」
 思い出そうとするが何も思い出せない。最後とは一体いつの事だろう。
「事件のことは全く覚えていないようですね」
「事件って一体...」
「職場の最寄り駅、近くに歩道橋があったのを覚えていますか?」
「...はい...」
「その歩道橋の階段からあなたは落ちたんです。強く頭を打ったために四年もの長い間、瞳が覚めず当時のことも覚えてないのだと思います。身体が重く動かないのは、ずっと眠ったままで身体を動かすのに必要な筋肉が落ちてしまっているからです」
「そう、なんですね...」
 言われたことは辻褄が合い、理解することが出来た。しかし、受け入れるかどうかは別の話だ。

 その後、30分と経たず名前の母は到着した。きつく抱き締められ、ぼろぼろと涙を流す母を見て、こんなにも泣く人だったのかと思ったし何より増えた皺に四年の歳月を確かに感じた。
 点滴を増やし、食べられるなら流動食をと、野菜と少量のお肉が小さく切られたスープを食べたがすぐにお腹がいっぱいになり、余ったものは母の胃へと吸い込まれていった。その間も本当によかったと一向に泣き止む気配の無い母にほとほと困っていると、父が到着しじっと見つめられる。それは小さい頃に幾度も見た叱る時の表情に似ていて心配をかけて、と怒られるのかと身構えれば父は顔を両手で覆いその場に膝をついた。
「よかった、瞳が覚めて、本当によかった」
「っ...」
 父までもが大粒の涙を零す姿に名前は後悔した。覚えていないからと受け入れようともせずにいたことを。こんなにも自分を心配してくれる存在がいたのに。
「ごめんなさい」
 涙と共に零した言葉に母が再び名前を抱き締め、更にその上から大きな父の腕も回される。久しぶりに感じる暖かな家族の温度に名前は安堵した。
 それぞれが落ち着きを取り戻した時、実は最近プラセンタを始めたという衝撃事実をカミングアウトした母に名前と父が驚きの声を上げる。
「今なら...黙ってたこと怒られないかなと思って」
 案の定父から怒られることの無かった母は上機嫌に笑って見せた。父が重い溜息を吐いたところで、病室のドアが開き医師が入ってくる。
「落ち着かれましたか?」
 母のカミングアウトによってすっかり緊張も解けた家族を見て、医師も安心したように笑うがすぐに表情を引き締めた。
「これからのことですが、かなり筋肉が落ちているので暫くは入院しながらリハビリを行いましょう」
 名前は総合病院で手術しその経過が落ち着くも瞳が覚めないまま一年が経っていた。その後、家の近くの診療所へと身を移し三年が経ち漸く目が覚めたのだ。
「そうですか...」
 表情を暗くした母の顔に名前は笑いかける。
「もう少し洗濯物とかよろしくね」
「......ええ、任せて」
「俺も会社の帰りに寄るよ」
「お菓子の差し入れはいつでも待ってるよ」
「そんなこと言ってるとすぐ太るぞ」
 笑い合う家族に医師は眩しいものを見るように目を細めた。この家族ならこれから長く続くリハビリ生活も乗り越えられると。
「捕まりながら歩けるようになるまでは、入院していた方がお母様も安心かと思います。ご本人とご自宅の準備が整い次第、退院していただいて構いません。脚元に置いているものなど、念入りに確認をしてあげてください」
 優しい医師を見送ると、名前はあれが食べたい、これが食べたいと言い連ねる。苦笑する父の隣で母は声を上げた。
「そうだ!彼にも連絡しなきゃ!」
「ああ、降谷くんか」
 両親の言葉に名前は恋人の顔を思い浮かべる。
「零...」
「降谷くん来てくれてたのよ。忙しいみたいで時間もまちまちだけど、月に一度は必ず」
 母の口ぶりからしてそれは今も続いているようだ。四年間もの長い月日をずっと。その間、彼は他に恋人はつくらなかったのかと思うと申し訳ない気持ちと、それを遥かに上回る嬉しい気持ちが綯交ぜになる。
「名前の携帯は解約してあるから、降谷くんにはわたしから連絡しておくわね。携帯は明日にはまた契約してくるから。ゆっくり休んでね」
「おやすみ」
 疲れを見抜いていたらしい二人は帰っていった。急に静かな病室に一人残され寂しさに包まれる。
 四年間眠り続けていたこと、自分の身に事件が降り掛かっていたこと、その直近の出来事が思い出せないこと、それに仕事のことも。考えるべき事はたくさんあったが、久しぶりの会話や脳を働かせたことで疲れた身体は睡眠を求める。重たい瞼が被さってきて、名前は眩しい存在に気付く。
「電気消して帰ってもらえばよかった...」
 名前はそう嘆くが意識はすぐに溶けていった。


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