眠り姫2
 頬を撫でられ名前は微睡みへ引き上げられた。何度も何度も何度も遠くから名前を呼ばれ、段々とその声が近付いてくる。瞳を開くと、泣きそうに歪められた零の顔を捉えた。
「名前...!」
 零は震える声を発し、名前の肩口に顔を埋めた。鼻をすする音がして名前は戸惑うが、昨日の両親を思い出し重い腕を動かすとその頭を撫でた。
「零、ごめんね、心配かけて」
「名前は何も悪くない。俺が、俺が...」
 思うことがあったのか、零は自分が悪いのだと泣きながら繰り返す。そんな零に名前は笑って問い掛けた。
「ねえ零、ずっと待ってくれてたの?わたしが瞳を覚ますの」
「当たり前だろう...!」
 顔を突き合わせると、零の垂れ目がちの瞳が眉毛と一緒に普段よりも下がっている。名前はそれが愛しくて堪らない。
「えっと、そうなんだけ、どそうじゃなくて...。だって四年だよ?零モテるから、その...」
「俺がお前以外の女好きになるわけないだろ。馬鹿なこと考えないで早く元気になってくれ」
 零は悲痛に顔を歪め、すっかり細くなった手首を握る。
「うん、ありがとう。リハビリ頑張るね」
「出来るだけ顔出すから」
「無理はしないでね?仕事忙しいんだから。零が体調崩しちゃったら元も子も無いよ」
「ああ、気を付ける」
 今日も零はピシリとグレーのスーツを着こなしている。警察官になる夢を叶えた零は、少し特殊な部署に配属されたとだけ名前に伝えていた。守秘義務も多く詳しくは教えられないが、厳しい任務に赴く事もあると。そんな中で零は名前のを四年も待ち続けた。忘れずに入院施設を訪れ、瞳を覚ました事を泣いて喜んでくれた。いつだって貰うばかりで、何も返せていないことを名前はもどかしく思う。
「零」
「ん?」
 微笑む零に頭を撫でられる。優しい手つきに以前─名前の脳内では最近のはずなのに体感的には以前─もよく撫でてくれていたことを思い出し、名前は懐かしい気持ちになる。
「あのね、いつもありがとう」
「どういたしまして。俺からも、いつもありがとう」
「...わたし零に貰ってばかりだよ?」
「そんなことない。俺はお前がいるから仕事だって頑張れてるんだ」
「そうなの?」
「ああ、確かに名前が眠っている間は辛かった。俺を見てくれないし、声も聞けない、凄く悲しくて寂しかった。でも次会うときは起きてるかもしれない、だから...っ、頑張ろうって...」
 段々と零の声が震え、傾いた身体が名前を強く抱き込む。
「名前、名前」
 何度も何度も名を呼ぶ零に名前も零の名を繰り返し呼んだ。
「零、ここにいるよ。零」
「っ...。ああ」
 零は一瞬息を止めた後で短く返事をし、幾度となく感じた後悔に唇を噛み締めた。
 名前は事件の日の事を覚えていない。零が言って後悔した言葉も、追い掛けなかった事実も。それなら無かったことにしてしまえばいい。先程会った主治医は専門外ですが、と前置いた後で、思い出す可能性は低いでしょうと告げ、その言葉が零の背中を押した。
 そうして零は自分が言った言葉をなかったことにした。事件の前日までの二人でいればいい。それが名前を危険に晒すことになっても、愛する名前を手放すことが、もう零には出来なかった。
「名前、事件のことを思い出せなくて辛いかもしれないけど、無理しなくていい。幸い他の事は覚えているんだ」
「うん、そうだよね。とりあえず今は早く動けるようにならなきゃ」
 苦笑して名前はしっかりと握ることが出来ない手を震わせていた。その手をぎゅっと握り零は強い意志を孕んだ瞳を名前に向けた。
「名前、何があっても俺はお前を離さない。俺が護る」
「...なに?急に」
 唐突な言葉に名前はぽかんとしてしまう。
「決意表明だよ。俺が仕事を頑張るための」
 零は最後ににっと笑うと、ぽすり、と名前の肩口に顔を埋めそのまま寝息を立て始めた。
「...え?」
 驚く名前が視線をずらせば濃い隈がある。忙しい時間の合間に疲れた身体を動かし、見舞いに来てくれているのが伝わり、名前は零の髪に口付けを落とす。
「零。会いに来てくれてありがとう。愛してるよ」
 言葉は眠った零に届かずとも、その身体に溶け込んでいく。その証拠に零は少し口元を緩めた。身動きの取れない名前は真っ白な天井を見つめる。
 事故の日、わたしは何をしていたのだろうか。季節さえも思い出すことが出来ないくらいに遠い過去であることに、嫌でも月日の経過を突き付けられる。無理に思い出す必要は無いと言われたが、無くなったものを探すのは当然の事だ。零が起きたら聞いてみよう、と欠伸を零せば名前の意識は一瞬のうちに飛んだ。次に瞳が覚めた時もう零はいなかった。胸元に一つ残された痕の存在に気付いたのは次の日のことだった。

 零が再び姿を見せたのは三日後の事だった。ベッドと背中の間に柔らかなクッションを置いて、どうにか身体を起こせるようになった名前は母の手からチョコを食べさせてもらっていた。
「お義母さん、ご無沙汰しています。ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません」
「何言ってるの、降谷くんには感謝しかないわ。会えなかったけど忙しいのにお見舞いにも来てくれて...本当にありがとうね」
 嬉しそうに笑う母に零も笑った。それから母が座るのと反対のベッドサイドに椅子を引っ張り出し腰掛ける。気を利かせたようで、今日は帰るわね、と病室を母が出ていくと零は問い掛けた。
「体調は?」
「身体起こせるようになったのは大きいね。飲み込むのが楽になったの。あと、チョコが身体に染みてく感じがする!このままシミコーンになるかも!」
「ははっ、お前相変わらずだな」
 普通の人なら思い付かないような事を口にして、名前が零を笑わせるのはいつもの事だ。母から食べさせてあげて、と渡された高級チョコレートの箱から一つ取り名前の口元へ運ぶ。触れた唇が柔らかくて、零は名前の口にチョコを押し込むと堪らずそれを塞いだ。
「んんっ!?」
 捩じ込んだ舌に溶けたチョコと名前の唾液が混ざったものが絡みつく。反応の返ってくる口付けの喜びに酔いしれ、零は深く舌を入れる。くたりと名前の身体から力が抜け、慌てて零は解放した。
「...悪い。大丈夫か?」
「ん...。っは、ぁ」
 病み上がりという事を忘れて貪った唇の汚れを一舐めして、零は今度こそ離れた。上気した頬を撫でると、細められた瞳で見つめられ零は欲がむくむくと膨らんでいくのを感じる。名前がこんなことになってからその手のことはご無沙汰だった。どうにか意識を別の事に逸らそうとして、零は口を開く。
「それにしても、いいチョコ食べてるな」
「お父さんが買ってきてくれたの。あと友達も」
「友達もか。よく連絡がついたな」
 零が素直に驚くと名前も同調し頷いた。
「友達がお見舞いに来る時、何か必要なものはあるかって、お母さんに確認とるために連絡先交換してたみたいなの。それでわたしの携帯にお母さんの連絡先登録したら友達のアプリにわたしのが表示された?とかですぐにメッセージくれたの。スマホって凄いんだねえ、使いこなせる気がしない。それで欲しいもの聞かれて全部にチョコって返してたらこんなことになっちゃった」
 名前が視線をやったサイドチェストには様々なチョコの箱が積み重ねられ、床に置かれる紙袋の中にもチョコ菓子がいくつも入っていた。
「そうか...。じゃあ、これもその中に埋もれるなあ」
「わあっ!買ってきてくれたの!?」
 零が名前の前に掲げたのは、いただきもののチョコの中でも最高額と言って間違いないだろう有名チョコメーカー(大)の袋だった。
「嬉しい。ただでさえ零が買ってくれたものは、他の人と同じものでも特別なのに...」
 本当に幸せそうに笑う名前に零は買ってきて正解だったと嬉しくなる。
「でもこんなに食べて大丈夫か?鼻血出そう...」
「先生にもちょっと多いかな、って苦い顔で言われたよ。でも捨てる訳にもいかないから、毎日一箱ずつで我慢する!」
「一箱でも十分多いだろ...」
「チョコはいくらでも食べられるよ!」
「お前将来糖尿病になりたいのか?」
 真剣に心配する零を名前は笑って誤魔化す。こら、と肉の無い頬を摘めば小さな手が重なった。
「わたしが将来は零の料理の腕にかかってるから」
「!」
 へらっと笑った名前を零は思いっきり抱き締め誓う。もう二度と離さないと。そのためには名前の記憶が戻るようなことがあってはならない。戻らない確率の方が高いとはいえ、戻る可能性は十分にある。そして起きる事件を未然に防ぐのとは訳が違って、記憶の操作は不可能だ。思い出してしまったら、離れていかないように縛らないといけない。
「名前、例え何があっても俺の傍を離れるな」
「知ってるでしょ。わたし零がいないと死んじゃうの」
 擦り寄ってくる名前を愛しく思う一方で、自分の深い闇に閉じ込めてしまう前に離してやらねばとも思う。
「俺だってもうお前がいないと生きていけない。だから二度とこんな心配掛けるなよ」
「それについてはもう謝るしかないや」
 怒った表情をして見せた零に名前は笑う。
 距離は近いのに重なることのなかった心は、零を不安定にさせるには十分だった。件の組織に潜入し死と隣り合わせの生活を送り、情報収集のためにしている喫茶店でのアルバイト、そして本職の仕事。トリプルフェイスで熟す仕事量は凄まじく毎日疲弊し、唯一癒しとなるべき存在は眠り続けている。いつ零のバランスは崩れてもおかしくなかった。それを零は持ち前の精神力と、いつか名前が目覚め笑顔を向けてくれることを信じて駆け抜けて、漸く愛しい日々を取り戻した。
「名前...」
 やっと脚を止め息を吐くことが出来た。零は名前の項に鼻をぴたりとくっつけ大きく息を吸う。懐かしく安心する香りに零の肩から力は抜けていく。
「なんか、今やっと名前が起きてること実感出来た...」
「この間も会ったのに?やっぱり疲れてるよね、無理させてごめんなさい」
「言っただろ。お前に会うほうが元気になるんだよ。それにこの間は名前が起きたのはやっぱり夢だったんじゃないかって、家に帰ってから思ったよ」
「わたしもう寝飽きたから夢にしないで。寝てる間に歳とってるとか怖すぎる」
午前中に仲の良かった友人が揃って会いに来た。中には子供を連れている友人もいて、名前とは大切な青春時代を失ってしまったのだと落胆した。自分だけが歳をとったことに気付かずに、四年前に取り残されている。ひとりぼっちで。
「そうか。お前はあの日のままだもんな」
「!」
 零だけがそんな名前の寂しさや葛藤に気付いた。まるでタイムスリップしたような恐ろしさを優しい温もりで包んでくれる。
「れ、ぃ...っ、ううっ」
 泣き出した名前を零は優しくあやす。零は名前を苦しめる原因となった自分が許せなかった。しかし、あの時はあれが最善だと思ってしたのだ。
「名前、ごめんな」
 零は名前が泣き疲れ眠った後も痩せた身体を抱き締め続けた。

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