眠り姫3
 一ヶ月が経ち、名前は出される一般食を全部食べられるようになった。てってれ〜と効果音まで口にして母に報告するも、よかったね、で片付けられる。あれほど瞳が覚めて喜んでくれた両親も今ではすっかり通常モードになりチョコを食べていると、すぐぶくぶくに太るよと、脅しを掛けてくる始末だ。
「どう思います?酷くないですか?」
「でもずっと初日の態度でいられても嫌じゃないですか?」
「それはそうですけど...」
 口を尖らせる名前に年下の理学療法士が笑った時、リハビリ室の部屋が開いてスーツ姿の零が姿を見せた。荒い息を吐き、肩を上下させている。唖然とする理学療法士を置いて、名前は一歩一歩ゆっくりと入口へと向かう。少しでも気を抜くとまだ転んでしまいそうだ。
「零?」
「...よかった、いた」
 零は顔を泣きそうに歪めると名前を抱き締めた。
「え、え、ちょっと人いるから...!」
「無理。病室覗いたらいなくて死ぬかと思ったんだからな」
「ええ...」
 そうは言われてもリハビリはしなければならない。困ったように後ろを振り返れば理学療法士はまだ笑っていた。
「まだまだ初日同様の態度をしてくれる方いらっしゃるじゃないですか」
「これはやりすぎ」
「彼氏さんですか?今30分終わったところで、今日から1時間にする予定だったんです。明日からに変更するので、練習として少しお願いしてもいいですか?」
「はい」
 零は身体を離し、理学療法士にお世話になりました、と頭を下げると名前を支えてリハビリ室を出た。
「え?」
「とりあえず病室帰ろう?」
 迷子になった後の子供のように大人しく、名前から離れようとしない零は病室へと名前を連れていく。病室に着いた途端再び抱き締められて、名前は苦しいと文句を言うが零が離れることは無い。
「とりあえずこの部屋出る時は書き置きしてけ」
「零いつ来るか分からないし、そんなの毎回してられないよ。午前中に来るとは思わなかったし...」
「そこは愛の力で今日来るな、みたいな」
「非現実的なの嫌いじゃなかった?」
「名前と巡り逢えたことは奇跡だから、名前に関しての非現実的なのは信じる」
「意味分かんないよ、落ち着いて」
 声色は変わらないのに、零が不安を感じていることはひしひしと伝わる。後ろから抱き締められているだけでは寂しくて、名前は身体の向きを変えようと藻掻くが、逃げようとしてると思われたのか一層腕の力は強くなった。
「いたっ、逃げないから、顔見たいだけ」
「...ん」
 漸く腕が緩み、名前は零の顔を間近で見た。零を知る者たちが見れば大層驚く事だろう。こんなに寂しそうで、頼りなげな降谷零は普通見ることは出来ない。恋人だけに見せる特別な表情。
「零。何も不安に思うことなんかないよ。わたしはここにいる。いなくならないよ」
「もっと言って」
「甘えん坊だね。何度でも言うよ。わたしは零を置いて、いなくなったりしない、絶対に」
「名前」
「なあに?」
「好き。愛してる」
「わたしもだよ、零」
 零の頬を両手で包むと名前は柔らかな口付けを贈る。柔らかな羽毛が唇に触れ、それが全身に広がり包まれたような、そんな落ち着く感覚に零の中の不安は薄れていく。優しい笑顔で見つめられ、零はお返しとばかりに深く唇を合わせ名前の舌を口内に誘う。舌を吸われ、名前の腰が快感に抜けベッドに座り込むと、零はその背を倒し覆い被さった。名前の口内に舌を挿し入れ絡め合わせると、名前が苦しげにくぐもった声を上げる。零は熱く燃える股座に名前の手を導き擦り付けた。びくりと名前は一瞬震えるが、零が手を離してもそこを撫でることをやめない。やがて唇が解放されると、二人の舌と舌を糸が繋いだ。紅潮した名前の頬に擦り寄って、零は腰を脚の付け根に押し付ける。更に硬く張り詰めたものを感じ名前は零の頭とは反対に顔を逸らし、零は瞳の前に晒された小さな耳に舌を這わせた。ぴちゃり、とわざと音を立てれば名前は面白いくらいに身体を跳ねさせる。耳にぴったりと唇を押し付けて、零は熱い吐息と掠れた声で囁いた。
「名前が元気になったらたくさんしたい」
「っ...!」
「感じた?相変わらず耳弱いんだな」
 零は再び音を鳴らしながら舌を這わせる。縁をなぞり、穴へと固くした舌を挿し入れると、名前の頭の中でごそごそと気味の悪い音が広がっていく。
「れぇ、それ、やあっ」
 泣きながら言う名前に、やりすぎたか、と零は身体を起こすと抱き締め謝罪した。
「ごめん。名前が可愛いから意地悪したくなった。溜まってて...、ごめん」
「わたしも、ごめんなさい。その、たぶん口でなら出来るから」
 零の言葉で本当に誰とも関係を持たなかったことを知り、嬉しい反面、とにかく楽にしてやらねばと使命感が先立ち名前は言う。零は一瞬ぽかんとした後で、見る見るうちに頬だけでなく耳まで紅潮させた。
「え」
「ちょっ、見るな」
「見せて。零の顔、たくさん見たい」
 零に当てられ名前も顔を赤くし、そんな二人が見つめ合えば自然と唇は重なる。先程とは違い触れるだけのキスに酔いしれ、二人は時間を忘れ睦み合った。
 幾許が経ち、二人は言われていた歩行のリハビリを行う。名前はゆっくりと歩き、その身体が倒れそうになった時支えられるようにと、零はすぐ後ろを着いて回った。
 30分の予定だったがまだいける、と調子に乗り1時間行った結果、名前はぐったりとベッドに伏せることになった。
「だから言ったんだ。お前はいつも限界を見誤る」
「元気になってきたからいけると思ったの〜」
「ほら、カロリー補給」
「ん」
 零の手からチョコを食べさせてもらいながら、名前は零を見上げる。じっと見つめれば居心地悪そうに視線を逸らした後で零は口元を緩めた。
「なに?」
「なんでもないよ、ふふ」
 名前はにこにこと笑う。面白いことなんか何も無いのに幼児が生理的に微笑を浮かべる様に。
「ウイスキーボンボンだったか?」
「失礼だな。酔っ払いじゃないもん〜」
「じゃあ何でそんなにこにこしてるんだよ」
「ん〜。零がいるから?」
「じゃあ俺も名前がいるから見つめて幸せを噛み締める」
 零は宣言した通り名前を真正面から捉えた。垂れ目がちの甘い瞳輝く綺麗な顔に見つめられ、名前は顔が熱くなる。毛布を顔まで被り隠れると、零がそれを捲ってすぐに唇が合わさった。
「ふふ」
「零ってキス好きだよね」
 照れ隠しにむすっとした顔を作り言うが、それも零にはお見通しだ。空気で膨らんだ頬をつつかれてぷしゅっと空気を吐き出させると零は笑った。
「名前とすることならなんでも好き。ただ話すだけなのも、キスもハグも、セックスも」
「なっ...!」
「名前が元気になるの待ってるからさ、性欲溜めて」
 零が言い終わるのと同時に看護師が昼食を運んできた。中年の看護師は顔を赤くした名前の姿に二人を見比べニヤニヤと笑う。
「まあまあ、お邪魔してしまったみたいで...。ふふっ、じゃあ失礼しますね」
 看護師は食事の乗ったトレーを零に渡すとすぐに退散していった。
「もうあの看護師さんと顔合わせられない...」
 項垂れる名前に零は悪びれる様子は無い。高く積まれたチョコの箱にトレーを一度置くと、ベッドに取り外し式のテーブルを置きトレーを移動させた。
「はい、あーん」
「零くん、わたし手のリハビリもしなきゃなんだけどなあ?」
「いいだろ、今日だけだから」
「お世話好きに磨きが掛かってる」
「名前のお世話だからしたいのもあるんだけどさ、仕事で暫く来られそうにない。だから色んな名前の表情見ときたいと思って」
「そういう理由で意地悪されると断れない...」
「断られてもやるけどな。それに名前の可愛いとこ見たいと思うのは当然だろ?名前は俺のかっこいいとこ見たくない?」
「......見たい」
「じゃあお相子だろ。ほら、覚めるから」
 零は箸で摘んだサラダを名前の口へと運ぶ。少し顔を赤くしながら食べさせられる姿は雛鳥のようだ。親が餌を運んでやらねば死んでしまう。名前も俺が餌を与えなければ、そう零は錯覚して庇護欲や独占欲が満たされるのを感じていた。
 零の手によって食事を終えると名前は途端に眠気に襲われる。リハビリの疲れが現れたようだ。お見舞いに誰かが来る度にはしゃいでは疲れ、気を使わせてしまうのが悔しくて仕方ない。
 零は名前の身体を支えベッドに寝かす。前髪を緩やかに梳かれ、一層瞼は重くなる。
「帰っちゃう、の?」
 とろりとした瞳で強請るように聞かれ、零は名前が寝た後も見守り、最初におはようを言ってやりたいと思うがそうもいかない。
「ああ。仕事が落ち着いたらまた来るから」
「それって、いつ?」
「...2週間くらいかな」
「そっか...。無理しないでね。怪我もしないでね」
「ああ」
「ちゃんと、帰ってきて、ね...」
「...ああ」
 零が名前を抱き締めると、すぐに寝息が耳を擽る。額に唇を落とすと、可愛い寝顔を眺めるのも一瞬に留め零は病室を出た。
 件の組織で大きな取引が控えていた。外部に対しては勿論、組織内部への監視も厳しくなりつつある。そんな中で名前と会うのは危険だ。まだ体調のことも記憶のことも気になるが、監視の目が緩むまで会うことは出来ない。
「はあ...辛いな...」
 思わず零の口からは溜息が零れる。名前と会う時間が限られているのは今に始まったことではない。いつだって零は名前に恋焦がれている。
「名前...」
 別れたばかりなのに乗り込んだ車のハンドルに突っ伏して、愛しい彼女の名前を呟く。瞼の裏には初々しい微笑みを浮かべる名前がセーラー服を風に靡かせていた。


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