眠り姫4
 零は急いで車を走らせていた。
 一週間前に組織の取引とその後処理が終わり、監視の目が緩むのを待っていた時の事だ。携帯に名前の母親から連絡があった。疲れで死んだように眠っていたため、応答出来なかった電話の後にメッセージが届いていた。
"名前が階段から落ちました。その後から様子がおかしくて、とにかく一度来て欲しいです。忙しいのにごめんなさい"
 久しぶりに充分な睡眠を取りスッキリした頭で読み取った言葉は、防御無しで受けたストレートの様に強烈な威力だった。ばくばくと心臓が忙しなく動き、冷えていく身体に血液を送る。
 零はすぐに着替えて車のキーを掴むとセーフハウスを飛び出した。
 赤信号に行く手を阻まれる度に舌打ちをして、ハンドルを指で叩く。恐れていたことが、きっと起きてしまった。
 漸く辿り着いた名前が入院する小さな診療所の階段を駆け上がる。ばんっ、と大きな音を立てて開いたスライドドアの先のベッドには名前が身体を起こし、ベッドサイドには名前の両親が椅子に腰掛けていた。
「降谷くん...」
 母親の言葉が終わらないうちに、名前は手繰り寄せた枕を零に投げ付けた。零に届くことなく落ちた枕に両親は唖然とする。零は怒りの表情を浮かべる名前を悲しげに見返した。
「何しに来たの。帰って」
「名前...っ」
「帰ってよ!」
 乱れた息に肩を上下させる名前を母が落ち着かせようと宥める。愕然とする零の背を父が押し、病室から連れ出した。しんとした廊下で父は窓の外を眺めながら零に語り始める。
「一昨日退院する予定だったんだ。それなのに前日階段から落ちて...また暫く意識が無くなっていたらしい。瞳が覚めたら事故の日のことを思い出していて、代わりにこの間瞳が覚めてからの事を忘れていた。だからまた一から説明してたところなんだけど...」
 父が言葉を濁し、零に視線を向ける。
「母さんが降谷くんにも連絡しとくって言ったら別れたからいいって」
「っ...」
 零は頭を抱える。やはり恐れていた事態が起きてしまっていた。
 名前が忘れてしまったのだから、無かったことにしてしまおう。そう思っていた自分が発した言葉を、零はこの四年間激しく後悔していた。
「四年前、俺から言いました」
「...それを名前は事故に遭って忘れていたけど、思い出してしまってあの態度ってことか...。二人のことだから俺達は何も言わない。降谷くんの今の顔を見れば、それを後悔してるのが分かるからね。恐らく君の仕事が関係してるってことも。でもね、女性は理由を知らないと納得出来ないことが多い。全部じゃなくて、ちょっと話すだけでも違うと思うんだ」
「!」
「あの調子じゃ今日は話せないだろうから...。降谷くんも疲れているだろうし」
「いえ、必ず連絡します」
 父が飲み込んだ後日連絡してくれ、という言葉を零ははっきりと自分で言った。このまま別れるつもりなら強制してはいけないと、口にしなかったが杞憂だったようだ。
「失礼します」
「気を付けて。わさわざ来てくれてありがとう」
 凛とした姿に戻った零を見送ると父は病室に戻った。そこには困り顔の母と、顔を歪めた娘がいて小さく息を吐く。
「降谷くん今日は帰ったから。後日連絡するそうだよ」
「......」
「母さん、俺達も今日は帰ろう。名前歩き回って転ぶなよ」
「...わかってるよ」
 両親と視線を合わせることなく、名前はベッドに寝転んだ。
 名前には意味の分からないことが多すぎた。歩道橋から落ちて四年も意識がなかったこと。瞳が覚め暫く普通に過ごしていたのに、再び診療所の階段から落ちて意識が戻ると、今度は瞳覚めてからの記憶が無くなっていたこと。
 確かにひったくり犯にぶつかられ歩道橋から落ち、想像を絶する痛みに死ぬかもしれないと思った。しかし傷は全く見当たらないし、ただの夢だったんじゃないかとも思った。
 それなのに直前に会っていた零の口から発せられた言葉だけは、生々しい真実として脳に刻み込まれていた。記憶の戻った名前にとってはつい先程の事で心を黒く蝕んでいる。それなのに零は姿を現した。
「別れたんでしょ、わたしたち」
 名前は瞳の上に腕を置いて照明の光を遮る。瞼の裏に浮かぶのは悲痛な零の顔。あれはいったい何を思ってされた表情だったのか。会えない間に思い浮かべる零は、いつだって自信たっぷりに笑っていた。それなのにその表情が今は思い出せない。眠った四年の年月の間に名前の心は零から完全に離れていた。

 昇降口の傘立てに座る後ろ姿。入り込んだ風に髪が靡いて、小さな可愛い耳が覗く。
「名前」
 振り返った名前がはにかむ。照れくささと嬉しさが入り交じったその表情に、これでもかと愛しさが溢れた。
「零?」
 名前の呼び掛けに零ははっとした。こちらを覗き込んでくる瞳は、初めて逢った高校生の時から変わらない。いつだって真っ直ぐで、穢れをしらない純粋な美しい瞳。
「疲れてるみたいだけど大丈夫?帰る?」
「いや、大丈夫。久しぶりに会えたんだ、もっと一緒にいたい」
 テーブルの上の温くなったコーヒーを一口零は啜る。名前が最近見つけてよく通っているらしい喫茶店のコーヒーは確かに美味しかった。
「......ふふ」
 数度瞬きした後名前は記憶の中と同じはにかみを見せた。それが今の零には眩しい。
 最近零は気を抜くと、楽しかった昔に想い耽ることが増えた。今が楽しくないわけではない。変わらず名前のことを愛している。しかし零の心には人に打ち明けられない不安があった。例え恋人でも己の特殊な職業に関することとなれば。
 名前と離れなければならない。
 零は今まで以上に名前との時間を大切にした。会える日はもとから少なく、それが今までの非ではない程に少なく、そして難しくなる。
 件の組織への潜入が決まったのだ。望んでいたことだった。己の技量が認められた証明であり、公にされることが無くとも、日本国を影ながら支え国民を護れることが誇らしかった。
 それなのに素直に喜べない己に零は頭を抱える。全てはこの愛おしい存在である名前が唯一の気掛かりであったからだ。
 離れたくない。でも離れなければならない。組織に自分の素性が露顕した時、名前も危険に晒され、最悪の場合殺される。名前の日常には不釣合な"死"も自身にとっては身近なものだ。そんな危険に名前を巻き込むわけにはいかない。理解していた。別れることが名前の命を護ることになり、自身が心置き無くこの身を国に捧げられると。それでも離れたくない気持ちは余りに大きすぎた。再び思考の海に深く沈もうとしている零の頬を名前が摘み引っ張った。
「キュートなお顔が台無し。久しぶりに会えて嬉しいなら笑ってよ」
 肉のない頬はあまり伸びないのに、名前は何が面白いのか両頬を引っ張り続ける。
「わあ。何か初めて見る零の顔で新鮮」
「いひゃいふぁふぁひゃめりょ」
「可愛い。何言ってるか分かんないけど。可愛い」
 笑った名前が手を離して、赤くなった頬を撫でる。つられて笑えば、名前は目に見えてほっとした。
「やっと笑った。今日会ってから一度も笑ってなかったの気付いてた?」
「え」
「心ここに在らずって感じ。仕事、やっぱり大変なんだね」
「...」
「暫く会うのやめとこうか。わたしと会う前に、零には身体休めて欲しい」
「...名前...」
 女の勘なのだろうか。何かを察して泣きそうに顔を歪めた名前に、零も腹を決める。深く息を吸い深く吐き出すと、重い口をゆっくりと開いた。
「名前...、別れて欲しいんだ」
「......わたしのこと、嫌いになった?」
 か細い悲痛な声に零の胸が痛む。息が苦しい。何故こんなことを言わなければならないのか。
「名前のことを嫌いになるわけない。これからだって愛してる」
「それなら何で...?」
「愛してるから、別れて欲しいんだ」
「...言ってる意味が分かんないよ」
 首を振り困惑する名前に手を伸ばそうとして、零は思い止まる。
 今触れてしまえば、きっともう離れられない。ずるずると名前を傍に置いて、危険に晒し護り切れず二人死ぬかもしれない。
 零はズボンを固く握りしめ、腕が無意識のうちに動かないようにとどうに堪える。
「いつになるか分からないが、必ず迎えに行く」
「...それなら別れなくてもいいじゃん。たまに電話して、たまに会う、それでいいじゃん。忙しいなら我儘言わない」
 名前の瞳が涙で潤むのを、零も悲痛な面持ちで見つめる。
「名前。それじゃダメなんだ」
「そんなの納得出来るわけないじゃん。理由も教えてくれないのに別れろって。零ならそう言われて納得するの?」
「っ」
 もし立場が逆だったらと考えるよりも早く、零は納得出来るわけないと結論付く。それを無理矢理名前に納得するよう強いている。しかし話すことはやはり出来ない。
「......ごめんな」
「っ...」
 辛そうに謝る零に名前は自分が悪いように思えてきた。いつだって零は正しかった。その零が別れてくれと言うのなら、それが正しいことなのかもしれない。しかし到底割り切って受け入れられる内容ではなかった。
 戸惑いと悲しみに苛まれながらも、名前の頭ははっきりしていた。寄せられる視線に気付き、人の前で別れ話をされたことへの苛立ちが募る。この場に居たくなくて、名前は席を立った。
「...送る」
 せめて家に送り届けるまでは共にいたい。零はそんな想いで申し出るが名前は鋭い言葉で断った。
「結構です。恋人でもない人に送ってもらう謂れはありませんから」
「っ!......せめて、帰り着いたら連絡してくれ」
 名前は何も言わなかった。一人残された零は完全なる拒絶に動けなくなる。名前を護るためにと、望んで別れることを決めたのに、もう後悔している。迎えに行くとは言ったが、名前はもう待っていてはくれないだろう。話しかけてくれることも、笑いかけてくれることも、愛を囁いてくれることも二度と無い。
 俺以外の誰かが、名前の隣に立つ。
 恋焦がれ、傍にいて欲しくて告白をしたのは零だった。恋は愛へと成長し、零の気持ちは大きくなるばかりで留まることを知らない。それなのに、愛してやまない恋人に断腸の思いで別れを告げた。
 名前、名前。土壇場では何度も心の中で呼び掛けた。名前は零なら出来ると、誇らしげに笑顔で言ってくれて、無理だと思っていた逆境も死地も乗り越えることが出来た。今は呼び掛けても名前は振り向かない。立ち止まったままこちらに背中を向けている。
 一人でに振り上がった手がテーブルを叩こうとした時、近くの席から小さな悲鳴が聞こえた。こちらの様子を伺っていたらしい女性二人組の怯えた瞳に、零は口元だけ笑ってみせる。
「失礼。お騒がせしましたね」
 零は立ち上がると会計を済ませて喫茶店を出る。勿論店員にも謝ることは忘れずに。
 パーキングへと歩いている最中、救急車が通り過ぎて行った。けたたましいサイレンを鳴らすそれを一瞥して零は溜息を吐く。
 安全とされる日本でも事故や犯罪事件は堪えない。それを未然に防ぐために自分たちはいる。自分と関わったことで犠牲者を増やすなんてことは、一番あってはならない事だ。
「名前。こうするしかないんだ」
 こちらに向けられた小さな背中に声を掛け、零は反対方向へと歩き出す。もう止まることは許されない。歩きながら振り返ると、名前そこに留まったままだった。まるで時が止まったかのように。
 その日、帰宅した旨を知らせる連絡はやはり来なかった。


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