眠り姫5
 零のもとに名前の母から連絡があったのは、名前と酷い別れ方をした二日後のことだった。電話に出るなり酷く狼狽した様子で捲し立てられる。
「降谷くん!名前がどこにいるか知らない!?」
「え...、どういうことですか?」
 心臓が嫌な音を立て、全身が一気に冷水を浴びせられたように冷たくなる。次の言葉が怖かった。
「昨日名前の会社から出勤してないって連絡があったの。わたしも仕事してたから、それを聞いたのがもう夜で...。今名前の部屋に来てるんだけどいなくて、それで...!」
「落ち着いてください。一昨日俺は名前と会いました。それ以降お義母さんは連絡を取りましたか?」
「とってないわ」
「分かりました。俺も探してみます。お義母さんは名前の友人に連絡をとってください。」
「降谷くん、忙しいのにごめんなさい」
「何言ってるんですか。連絡してくれてありがたいです。また何かあったらすぐに連絡してください。出れなくても必ず折り返しますから。じゃあ、失礼します」
 零は電話を切ると廊下の壁に寄り掛かり、ずるずると座り込んだ。携帯を握る手が震える。
 自分が別れを告げたせいかと脳裏を過るが、名前はそれで仕事を無断欠勤し、両親に心配を掛けるような人間ではない。きっと事故か事件に巻き込まれたのだろう。昨日なのか、一昨日なのか。俺が無理矢理にでも送っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
「名前...」
 震える手で顔を覆い深く息を吐くと、どうにか立ち上がった。管理官の元へと向かい、警視庁へ問い合わせを依頼する。私事だが働きに免じて、と快く引き受けてくれ、一時間もしないうちに返答は返ってきた。
「一昨日女性が歩道橋から落ち、意識不明の重体で警察病院に運び込まれた。ひったくり犯が持ち物を持ち去り、身元は不明だそうだ。確認して来い」
「ありがとうございます」
 零は深く頭を下げると走り出した。
 一昨日。俺が送っていれば。あの救急車は。
 零はぎりぎりと奥歯を噛み締める。気持ちばかりが急いて、車の進みの遅さに苛立つ。信号は全てに引っ掛かり、まるで行かせないと何らかの力が働いているようにさえ感じられた。
 いつもの倍近く時間を掛けて辿り着いた、警察病院の集中治療室に案内されて、零は言葉を失った。
 窓越しのベッドに横たわる身体には、無機質な音を響かせるいくつものモニタと色々な太さの管が繋がっていた。頭には包帯、頬と顎にはガーゼ、口には人工呼吸器が挿管されていて顔は殆ど見えない。それでも名前だと零には認識出来た。
 シーツから出ている両腕には包帯が巻かれていて、その僅かな境目から点滴が行われている。左手は右手よりも腫れ上がっているように見えた。シーツに隠れた場所を想像するのが堪らなく恐ろしい。
 信じ難い光景に一歩、また一歩と後退り壁にぶつかると、全てを遮断するように瞳を固く瞑り、耳を塞いだ。それでも電子音は止まない。溢れ出す涙を止めることも出来ず、零はその場に崩れ落ちた。
 ふと零が気付いた時、集中治療室を覗く名前の両親がいた。あれ、と思う間も無く、少し離れた所から上司が歩いてきてハンカチを差し出される。
「漸く落ち着いたようだな。いい加減拭け」
 どれだけこうしていたのか分からない。背中をぶつけた後からの記憶が無く、顔が涙でべちょべちょで、ひんやりと冷たいことをやっと認識する。受け取ったハンカチで顔を拭い立ち上がると、名前の両親が振り向いた。零は深く深く頭を下げる。
「名前さんが事故に遭ったのは俺と別れた後です。俺が送っていれば起きなかった事故でした。申し訳ありません」
「降谷くん。あなたのせいじゃないわ。忙しい人だもの」
 肩を叩かれ顔を上げると、赤くなった瞳を優しく緩めた母がそう言い、父も隣で静かに頷いた。忙しい零の申し出を断って、名前が一人で帰ったと両親が思っていることに零は気付く。しかし実際はそうではない。別れ話をして、名前は零を恋人ではないと言い一人帰って行った。一人で帰ったために起きた事件だったとするならば、零のせいだということに変わりは無い。
 零は唇を噛み締め、名前を見る。先程と何も変わらず、機械に生かされている愛しい人の姿を、これ以上見てはいられなかった。
「さっき主治医の先生とお話したの。見た目は酷いけど脳に異常は無いからすぐに瞳が覚めるでしょうって。だから心配しないで、お仕事頑張ってね。きっと名前は自分のせいであなたが仕事を休んだなんて知ったら、自分を責めるだろうから」
「......はい」
 両親にそれぞれ肩を叩かれ、零は頭を下げると管理官のもとへ歩み寄った。何も言わずに管理官も肩を叩いてくる。きっと気付いたのだろう。組織への潜入のため零が恋人に別れを告げ、その直後に事件に遭い自分を責めていることに。
「全を救うために一を捨てる」
 零が無意識に呟いた重い言葉は、モニタの音にも掻き消されるほどか細く震えたものだった。

 本来は避けるべきだが、組織への潜入開始まで時間が許す限り、零は名前を見舞った。
 臓器損傷は無いものの、外傷からの出血が酷く軽いショックで止まっていた自発呼吸も回復し、二週間で集中治療室から一般病棟へ移った。今は少し量の減った点滴と、布団を捲れば左手脚にボルトを埋め込む際に出来た傷と、その周辺を主として深く切れた傷をいくつも縫った痕が残っている。ただ眠っているだけに見えるのに、名前の意識が回復することは無かった。脳損傷は見られないが強く頭を打っていたのだろう、と医師は前置いて、いつ瞳が覚めるか分かりません、と以前言ったことを覆した。
 二ヶ月が経ち、傷痕も目立たなくなった。それでもやはり、名前は瞳を覚まさない。時期をずらし共に組織に潜入する景光は幼少期からの付き合いで、名前とも高校からの付き合いだ。最初は動揺していたものの、いつまでも暗いままでいる零を茶化しては元気付けようとする。
「眠り姫はまだ起きないのか。長い冬眠だな〜。名前が起きた時、浦島太郎みたいにお前じいさんになってるんじゃないか」
「童話がありすぎてめちゃくちゃだな」
「ロマンがあるだろ?」
 にっと笑う景光に零は救われる。幼少期から太陽のようだと思ってきたがやはり間違いではない。周りと馴染めなかった零を輪の中に率いれ、その本質を認めさせた。景光が太陽なら名前は月だ。優しく隣に寄り添い荒んだ心身を癒してくれる。零にはどちらが欠けても堪えられない。
「俺が潜入するまでには起きて欲しいよな〜。ゼロのことは任せろって言ってやらなきゃだし」
「いや、きっとあいつは...もう俺の事を心配なんかしない。酷い別れ方をして、それであいつは大怪我をした。恨むことはしても心配なんかしない」
「お前、本当にそう思ってんのか。あいつがそれくらいのことでお前を嫌いになって、心配しないと思うのかよ。思ってもいねえこと口にすんな」
 眉間に深い皺を刻んだ怒りの表情で叱りつけられ、零は一つ息を吐く。
「...潜入が終わったら名前のこと迎えに行く。それで二度と顔見せるなって言われたら、お前の奢りで高い物たらふく食ってやるからな」
「絶対無いから乗ってやるよ」
 そんなやり取りを数度繰り返し、景光は先に組織に潜入した。
 零自身の潜入を二日後に控えた夜、名前の病室を訪れた。そこには名前の母がいて、零を出迎えた。
「いつもありがとうね」
「いえ。これくらいしか出来ませんから」
 零は促されて名前の近くに椅子を引き座る。伏せられた瞼はぴくりとも動かない。少し開いた唇から息を吐く音が聞こえる。
「病状も落ち着いてるから、来週家の近くの診療所に転院になったの」
 娘の髪を梳く母の姿に零は胸が締め付けられる。慈しみの中に大きな悲しみが見え隠れしているのが分かった。
「家に連れ帰ろうかとも思ったけど、わたしたちじゃきちんとしたケアが出来ないでしょ?マッサージとかそういうのしないと身体が固まってしまうんですって。相談したら近くの整形外科の先生がどうぞって言ってくれたの。そこなら瞳が覚めたらそのままリハビリも出来るし」
 目尻に深い皺を刻み母は笑った。話している時に疲れは見せないようにしているが、機微に聡い零の前でそれは意味が無い。名前に視線を移せば、輸液だけの名前も随分痩せていた。
「俺はあまり見舞いに来れなくなりそうです」
「気にしなくていいのよ。仕方の無いことだもの。それじゃあ、わたしは帰るわね。降谷くんも身体には気を付けてね」
 それだけ言うと母は病室を出て行った。零は薄くなった名前の頬を撫でる。自分よりも低い体温が身に染みた。
 二日後、零は死地に赴く。殺すか、殺されるか。生きるか、死ぬか。そんな日々に身を投じ、名前のことを考える余裕が無い日もきっと出てくる。それでも眠る前の一瞬は名前のことを想いたい。
 名前に告げた言葉を無かったことにしてしまいたい。離れたって危険が無いわけではないし、現に名前は事件に遭った。それなら俺が傍にいて、全ての危険から名前を護ればいい。
 名前が瞳覚めたなら謝り倒そうと零は決めた。ふざけるなと罵られても、床に醜く額を擦り付けて、名前が許すまで謝り続ける。愛してる、二度と離さないと衆人の前で宣言してやりたい。
「だから早く瞳を覚ましてくれよ...」
 瞳が熱い涙で潤む。閉じた瞼の裏で名前は背を向けたまま立ち止まっている。名前の時間も止まってしまった。
 道を違えた俺は背を向け、後ろを気にしながら歩く。どんどん開く距離に焦りながらも、引き返すことはもう出来ない。名前の瞳が覚めて、俺を許してくれた時、やっと振り向いた笑顔に走り寄る事が出来る。
 覚悟は決めた。生き延びてやる。どんなに絶望的な状況で、生よりも死が近くにあったとしても、それでも諦めないで足掻いてみせる。
 再び名前と笑い合うために。


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