眠り姫6
 眠り続ける名前は、大切な記憶の夢を見ていた。零と出逢った初めての季節を。
 高校二年生が終わる修了式の日、名前は校舎裏へ呼ばれた。待ち構えていた二人組のうち涙目の女子生徒が名前に気付くと、何の前置きもなく手を振り上げ、それは見事に名前頬にヒットした。最初に熱さ、続いて痛みがやってきて、叩かれたと理解はしても、何故叩かれたのかは全く理解できなかった。瞳を白黒させたまま名前は頬を押さえ、自分よりも身長の高い女を見上げる。セーラー服の刺繍が同じ色なので、同級生らしいことだけしか今の名前には分からない。
「あんたのせいで降谷くんにフラれたのよ!」
「?」
 怪訝そうに首を傾げる名前に、女は更に眉を吊り上げていく。また叩かれそうだと、一歩後ろに下がり言葉を紡いだ。
「言ってる意味が分からない。まず降谷って誰。わたしそいつのせいで叩かれたの?」
「とぼけないでよ!降谷零くん!あんたが降谷くんを誑かしたんでしょ!」
「知りもしない人をどうやって誑かすわけ」
「じゃあ何で降谷くんはあんたのことずっと見てるの!?」
「だから降谷なんて人、わたし知らないから!」
 ヒートアップして肩で息をする女をもう一人が宥める。
「ほんとに知らないっぽくない...?」
「......行こっ」
 二人はそのまま立ち去った。残された名前は唖然とし、その背中を眺める。
「いや、は?わたし結局何で叩かれたわけ?めちゃくちゃ痛いんだけど」
 きっと赤く腫れているだろう頬を見るのが怖い。明日から春休みで、友達と遊びに行く約束だってしていたのに、こんな顔で外を歩きたくない。はあ、と溜息を履けば校舎の影からひょい、と男子生徒が現れた。
「ごめん、聞いちゃってさ。よかったらこれ使って」
 その手には濡れたハンカチがあり、よかったら、と言ったくせに名前の頬にそっと当てる。冷たさに名前が身体を震わせると男子生徒は我慢して、と困ったように笑った。
「...ありがとう」
「どういたしまして。派手にやられたね」
「叩かれた理由も分かんないの。通り魔だよね」
「確かに通り魔だな」
 男子生徒はからからと明るく笑った。名前がハンカチを受け取ろうとしても、いいから、とそれを押さえる。何でこんなことに、と頭を悩ませるが考えたところで叩かれたことは無くならないし、腕も疲れないからいいかと、すぐにやめた。
 段差に二人で座り、10分程して温くなったハンカチは離れていった。
「とりあえずこんなもんかな。寄り道せず真っ直ぐ家に帰って湿布を貼ること」
「まだ寒いのに湿布とか...」
「でもこれから腫れるぞきっと」
「えぇ...」
 げんなりする名前の頭に男子生徒は手を置いて緩く動かす。同世代の異性にこんなことをされたことが無くて、名前は少しどきりとし男子生徒を見つめた。
「俺、景光。次三年」
「名前。わたしも次三年」
「じゃあ、同級生だな。よろしく」
「こちらこそよろしく」
 景光はにこにこと笑う。よく笑う子だなあ、と思っていると遠くから景光を呼ぶ声があった。そこには長身の男子生徒が二人分の鞄を持って立っている。
「あ、悪い。俺行くな、また新学期!」
「ありがとうね。ばいばい!」
 走る景光に手を振り返すと、名前も鞄を取りに教室へ歩き出した。零の隣に並んだ景光はその背中を見つめる。
「名前、お前のせいで女子生徒に引っ叩かれてたぞ。真っ赤に腫れちゃって可哀想だった」
 名前の姿が校舎に入り見えなくなると、景光は苦い表情の零を見た。
「俺、分かりやすいか?」
「いんや。普通は気付かねえ。お前のこと相当好きだったんだろうな。だからお前が名前を見てるのに気付いた。結果名前は訳も分からず叩かれて、名前しか知らない降谷くんを恨んでる」
「はあ...」
「出逢い方としては最悪だな。大人気の降谷零がフラれるなんて面白すぎる」
「何でフラれるって決まってるんだよ」
「今のままでいけばな。降谷零の真骨頂見せてもらうぜ〜」
 面白いことを期待して景光は笑う。新学期、何かが起こるのは間違いないと確信していた。

 新学期をわくわくした気持ちで景光は迎えた。張り出された新しいクラス名簿を見てガッツポーズを決める。
「ゼロ!お前も名前も一緒だ!やった!何が起こるか楽しみだ!」
「別に何も起こらないだろ」
「お前せっかく名前と同じクラスになったのに、何もしないつもりか?付き合いたいとかないのかよ?」
「...それは...」
「キスしたいとかハグしたいとかセッ」
「やめろバカ!」
 慌てて景光の口を手で塞いで零は辺りを見回した。名前の姿は無いようで、ほっと息を吐く。変な事を言うのはやめろよ、と釘を刺し二人並んで四階の教室まで長い階段を登る。
「景色が良いから上の階になるのは嬉しいけど、階段が多いのは疲れるよな〜」
 三階まで来た時、景光はそう言って溜息を吐く。去年はこの階が教室だった。零は1組、景光は2組、名前5組で接点は無く、零は名前に認識すらされていなかった。そんな零が名前に想いを寄せるきっかけとなったのは、用事があって5組を訪れた時のことだ。
 古文の期末テストを作成するのが、学年で唯一教科担任が違う5組の担当教師だったため、零はノートを借りに5組を訪れた。しかし友人は運悪く忘れていたらしく、勝手に隣の机を漁りだす。
「おい」
「大丈夫だって。後で言っとくから。お、あった。ほれ」
 友人の手から渡されたノートには女子生徒の名前が書いてある。
「ほんとにいいのかよ...」
「いいの、いいの」
 躊躇うが借りない選択肢は無い。あまり得意ではない古文のテストを作るのが、嫌らしい問題を作ると有名な教師なのだから。
「すぐ返すよ」
「いいの、いいの」
「お前な...」
 呆れて溜息を吐くも、この友人には意味が無いことを知っている。零は自分の教室へと帰り席に着くと、ルーズリーフを取り出しノートを開いた。
「おお...」
 綺麗な字の見易いノートだった。多過ぎない色分けで記された内容と、しっかりまとめられた要点は、零が足踏みしていた場所を正確に理解させる。写すよりも先にそういう捉え方なのか、と納得しながらテスト範囲を全て見終わってしまった。人にノートを借りることがまず無いため、人の字を見るのも何だか新鮮で綺麗なこの字をずっと見ていたいと思う。零はノートを閉じて、持ち主の名前を指でなぞった。
「苗字名前」
 この字を書く人物はどんな人だろうか。
零は素早く内容を書き写すと席を立つ。購買部横の自販機でジュースを買うと、一度教室に寄りノートを手に5組へ向かった。友人はさっきと変わらぬ席で漫画を読んでいる。
「ジュースは苗字さんにだからな」
「分かってるって」
 再び隣の机を漁る友人を尻目に零は教室を見回す。名前しか知らない字の書き手を探して。窓から強い風が吹き込んだ。窓際で友達と笑いながら乱れた髪を整える女子生徒と、ふと視線が絡む。
「!」
 女子生徒は笑みを湛えたままで、なに?とでも聞くかのように首を傾げた。ぎゅっと胸が苦しくなり零はそこを押さえる。何となくそんな気がして零は友人に尋ねた。
「なあ、苗字さんて」
「んあ?あ〜、あそこ、あの窓の前に立ってる子」
「......そうか。お礼伝えといてくれ」
「は〜い」
 零は自分の教室へと帰るが、いつもより早足になっていることに気付いていない。高鳴る胸に戸惑い、自分が今どこを歩いているかも定かではなく、案の定通り過ぎた教室へと引き返す。
「お〜、帰ってきた」
「ヒロ」
 自分の席に座っていた景光を零はぼうっと見つめる。様子がおかしい事に気付いた景光はニヤッと笑った。
「何だよぼうっとして。恋煩いか?」
「っ」
「えっ...」
 否定されるとばかり思っていた言葉に返事は無く、変わりに赤くした顔を見てしまって景光は叫びそうになった。
「ま、ままままじか。ついに...、ついにゼロにも...!」
「違う!」
 慌てて否定する零に景光は確信した。揶揄う気でいたが路線変更だ。
「隠すな。お前にも人間味があったんだなあと感慨深く思うよ」
「何だよそれ」
「だってお前中学生の頃から告白されてたのに、誰とも付き合わなかったし、好きな子いるとも聞いたことなかったし。ああ...春だなあ」
「おっさん。今は夏だぞ」
 熱い夏の陽射しが照り付ける校庭を見ながら呟く景光に零は言う。それを照れ隠しと捉えた景光は、気にした風も無くこれからどうする、と持ち掛ける。
「どうするって、別に何もしない」
「えっ、天下の降谷零は何もしないのかよ」
「まだ好きなわけじゃないし...」
「くそっ、お前なんか一人でシコっとけ!」
 景光は汚い言葉を吐き捨てると教室を出て行く。結局何で待ち伏せていたのかも分からないままで、零は肩を竦めた。
 それから頻繁に進展は無いのか確認されるが、たまに廊下ですれ違ったり、学年や全校生徒の集まりで見掛けたりするだけで、接する機会は全くないのだから進展しているわけがない。
「ちっ、つまらん」
 最後にそう言われたのは、修了式の前日だった。
「二年ももう終わるのに、ゼロは半年以上何の行動も起こさないままで...はあ...」
「ほっとけ」
 そんな会話をした翌日、名前とファーストコンタクトを果たしたのは零ではなく景光だった。それを悔しく思うも伝えてしまえば馬鹿にされると分かっていたから零は何も言えない。
 着いた教室には既に多くの生徒がいた。見知った顔もちらほらいる中で、零は名前の姿を探す。あの日と同じように名前は窓際で友人と話し笑っていた。降谷が教室に入った事で色めき立った声が上がり、名前の視線もこちらを向いた。あ、と一瞬驚いた表情をした後で名前は近付いてくる。零の心臓がどんどん早まっていき、身体は緊張に固まるが、それには目もくれず名前は景光に話し掛けた。
「この間はありがとう。あの後、あんまり腫れないですんだよ」
「そりゃ良かった。同じクラス、よろしくな」
「こちらこそ」
 仲良く話す二人の傍で零が歯噛みしていると、名前から視線を向けられた。再び高まっていく全身の熱に零は身を固くする。
「景光くんの友達?」
「ああ。降谷零」
「......降谷零?」
 聞き覚えのある名前に名前は眉を寄せ思案する。頬に痛みが走ったような気がして声を上げた。
「あーっ!降谷零!」
「そう!あの降谷零!」
 面白くて堪らないと言った表情で景光は零を指さした。詰め寄ってくる名前に零はどんどん後退していく。胸の前に腕を出して、これ以上近付かないでくれと表現しているつもりだが全く意味が無い。
「わたし、君のせいで叩かれたの!めちゃくちゃ痛かったんだけど!」
「あ、そ、れは、謝るよ。とりあえず離れて...」
「ところで名前は何でゼロのせいで叩かれたか分かってんの?」
「ゼロ?」
 景光を振り返り名前が離れたことで、零はほっと息を吐く。たまに女子が近付いてくることはあるが、それを気にしたことはなかった。それなのに名前だと緊張して普段の対応が出来ない。
「降谷零。零だからゼロ。で、叩かれたのはゼロのせいだけど、何でゼロのせいなのかって」
「確かあの子、わたしが降谷くん誑かしたとか何とか言ってた。話したことないよね?」
「え、ああ、うん」
「......何でわたし殴られたの?いや、叩かれたのか」
「それはもうどっちでもいい。名前、レベルアップするためにはその理由を解き明かさないと」
「それ何の値が上がるの?」
「そりゃあ恋愛力だろ」
「?」
「もういい、ヒロやめろ」
「よくない。わたし意味なく叩かれたとか我慢ならない」
「だとよ」
 景光はわざと名前の肩に手を回し零に笑いかける。零のこめかみがぴくぴくと痙攣するのに気付くのは景光だけだった。
 それから景光に揶揄われながらも、零は名前と着実に距離を縮めていった。一つ一つの仕草や笑顔に堪らなく惹かれ、もっと知りたいと声を掛ける自分を、花蜜を求める蜂のようだと零は思った。
 ある日の夕暮れ、学校を出て暫くしてから体操服を忘れたことに零は気付いた。景光に明日でいいだろと本気の顔で言われたが、零からすればそれこそ本気かよ、という感じだ。汗をかいた服をそのまま放置するなど零には許せない。
 景光を一人で帰らせ零は学校へと戻る。校庭を西陽が彩り、遠くのプールの水がきらきらと光っていて綺麗だ。
 零が教室に辿り着くと、名前が机に突っ伏していた。
「...名前?」
 呼び掛けても返事は無く、近付くと背中が規則正しく上下していて、眠っているようだった。零は静かに前の席の椅子を引くと腰掛ける。西陽はこの教室にも差し込んでいて、艶やかな黒髪がそれを受けて煌めく。零は以前景光がしたと聞いて、いつか絶対にやりたいと思っていたことを行動に移す。恐る恐る伸ばした手で名前の頭に触れた。丸い頭を掌で包むと、さらさらとした柔らかな感覚が伝り、ゆっくりと撫でる。愛おしい気持ちが湧き上がってきて、零はその言葉を口にしていた。
「名前、好き」
 がたっ、と名前が椅子から立ち上がった。夕陽に照らされたせいではない赤みを頬に宿し、唇を噛み締めている。零は自分が口にした言葉と、それを名前が聞いていた事実に気付き硬直した。
「...零、くん」
「......忘れて」
「やだ」
「忘れて」
「何で忘れなきゃいけないの。わたしだって、零くんのこと好きなのに」
 より頬を紅潮させ恥じらいながら、名前は言葉を紡いだ。嘘偽りのない言葉が零の心を満たしていく。零は椅子から立つと名前の横に立ちその腕を引いた。名前も机の外へ移動すると、潤んだ瞳で零を見上げる。零は自分の顔がみるみる赤く熱を持っていくのを感じた。
「名前、好きだ。俺と付き合って」
「...うん」
 俯いた名前がとん、と頭を零の胸に預ける。ふわりとシャンプーの香りがして、#名前を#抱き寄せると零は髪に顔を埋めた。身動ぐ名前から身体を離すと、顔を見合わせ唇を重ねる。触れるだけの幼いキスに二人は満たされ、真っ赤な顔で微笑み合った。いつまでもこんな幸せな時間がつづけばいいと。
 急な浮遊感に身体がびくつき、名前は瞳を覚ました。長すぎる記憶の夢を見ていたことに気付き、深い溜息を吐く。割り切ったつもりでも、心の奥深くでは零との別れを受け入れられていないから夢を見たのだろう。窓の外は昼下がりの青空に白い雲が浮かんでいて、ゆっくりと流れていく。穏やかな光景とは裏腹に名前の頭の中はぐちゃぐちゃで、握ったシーツがそれを表すようにいくつも皺を作った。


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