眠り姫8
 ベンチの前に置き去りにされた零は、暫く動くことが出来なかった。足の裏に根が張っているような、どころではなく、もはや脚が地面と同化しているような感覚。ぐるぐると名前の発した、ばいばい、という言葉が零の脳内を巡る。離れるのが最善だと思って起こした行動が最悪だったと思わざるを得ない。叶うのならば四年前のあの日に戻って、別れなんか告げず、絶対に護ると誓ってやりたい。ぐっと拳を握り締めると、ポケットの携帯が震える。表示された電話番号に深呼吸して気を引き締めると零は応答した。
「どうしました、ベルモット」
「下っ端がやらかしたわ。FBIが動き出した。幹部は一度集まって身を潜める。あなたも直ぐに来なさい」
「嫌ですよ、そんなとこ。叩かれたらまとめてしょっぴかれるじゃないですか。それとも場所がバレない確信でも?」
「ボス直々の命令よ。命が惜しければ来なさい」
 場所を告げるとベルモットは電話を切った。ベンチに腰を下ろし零は思考を巡らせる。
 ベルモットと組むことは組織の中でも多く、信用されているほうとは言えるだろうが、未だNOCの疑いは完全に晴れていない。そんな自分に幹部が集まる場所を果たして教えるだろうか。罠かもしれない、失敗すれば蜂の巣で、名前に会うことはもう叶わない。それだけはどうにか避けなければならない。許されるのは瀕死まで。最低ラインが瀕死という絶望的状況だが、もし本当に幹部が一堂に会しているのならば、またと無い一斉捕縛の機会だ。組織もFBIが動いたことで少々荒が出ているのだとすれば、可能性はある。
 零は打ちなれた番号に電話を掛けた。ワンコール待たずにした声に命令を下す。
「精鋭を組織しろ。組織の幹部が集結する。FBIも来るようだ」
「実は今しがたFBIより合同突入の依頼がありました。アジトの場所を吐かせたようです」
「...そうか。アジトとは別の場所に集合する手筈になっているが、きっとボスは来ないだろう。二手に別れて公安はお前が指揮をとれ。俺は幹部と合流する」
 場所は、と続ける零の言葉を風見が遮る。
「降谷さん!100%罠じゃないと言いきれないのに合流するなんて!」
「そうするしかないだろう。もしこの突入が失敗した時、そこにいなければ俺は裏切り者だ。潜入は失敗、見つかり次第殺される。だから、これが罠だったとしても必ず成功させろ」
「しかし降谷さん!」
「みすみすやられるつもりはない。やり残してることもあるからな。頼んだぞ、風見」
 電話を切ると零は名前の家まで走り出した。時間は無いが声を掛けない訳にもいかず、庭先の母に声を掛ける。
「呼び出されました。落ち着いたら、また改めて来ます」
「そう...、気を付けてね」
「ありがとうございます」
 気を遣わせてばかりで申し訳ないと思いながら、零は軽く頭を下げて車を発進させた。大きなエンジン音が離れていって、母は腰に手を当て息を吐き出す。
「今日もダメだったのね。いつ仲直りするのかしら」
 誰にも届かない言葉が寂しく零され、風に攫われた。
 零が指定された港の倉庫に着くと、そこには錚々たる幹部が集まっていた。流石にボスとラムは来ないようで、二台のノートパソコンが背の低いコンテナの上に置かれている。最後のバーボンが揃ったところでベルモットが口を開いた。
「詳しく話してる暇は無いわ。構成員が捕まって、複数の薬がFBIに流れた。直接ジンに繋がる部下だったから、もし喋ったら逃げる時間はそう稼げないはずよ」
「ちっ」
 舌打ちしたジンをウォッカが不安そうに見つめる。
「そう簡単に吐きはしないでしょうけど、吐かない保証もないわ。取引で使った事のある場所、知られている可能性のあるセーフハウスの使用は避けなさい」
 返事こそ誰もしないがしっかりと聞き入れていた。組織が脅かされる機会はそう多くない。今回はアメリカと日本が共同戦線を張っている、組織最大の危機と言えるだろう。パソコンの中のボスは何も言わない。
「武器弾薬は好きに持って行って。十日以内にわたしかジンからの接触がなければ、持つデータは全て削除しなさい」
 ベルモットはノートパソコン二台を閉じ持ち上げると、その下のコンテナの蓋を開けた。スナイパー組が銃弾を次々ジャケットの中へ収めていく。それを眺めていたジンが一つ息を吐き、瞳を閉じた。待ち望んでいた瞬間に、零は奥歯に仕込んでいた発信機のボタンを歯で押す。それが取り決めた突入開始の合図だった。
 数秒後には後方の出入口二箇所が開き催涙ガスが放出される。前方の出入口へと向かう幹部から離れ、零は後方の出入口から外へと出る。前方の出入口が中から開かれ、弾丸がいくつも放たれる。
「情報が漏れてたねっ!?だから集まるのはよしたほうがいいって言ったんだ!」
「仕方ないだろ!ボスからの指示で...っ!?」
 キャンティとウォッカははっとして後ろを振り返るが、ガスに覆われたそこでは誰の姿も視認出来ない。外は包囲され、この中にも裏切り者がいる。キャンティは舌打ちすると外へと飛び出した。すぐにタオルから薬液を嗅がされ、キャンティは気を失った。同じようにウォッカも取り押さえられるが、中から他の幹部が出てくる気配が無い。ガスの煙が薄れてきたのを確認し、零は懐から銃を取り出す。
「風見、突入する」
「了解しました」
 インカムが切れると、零は後ろに続く捜査官達へ一つ頷き、倉庫内へ足を踏み入れた。
 催涙ガスで目をやられた残りの幹部達は、コンテナの影に身を隠し銃を構えていた。ガスが外へと逃げ捜査員達は辺りに目を光らせながら進む。近付く足音に幹部達は躊躇い無く弾丸を撃ち込む。繰り出される銃弾を避け進み、零はジンの背後へ回った。しかしそれを感じ取ったジンは、残弾の無い銃を零に向かって放る。見えない相手が右へと避けるのを予想していたのか、ジンはそこに向かって拳を突き出した。右頬にジンの左ストレートを受け、零の脳が揺さぶられる。思わず後退るとジンは鼻で笑う。
「やはりお前だったか、バーボン」
「!」
 流石と評する他無かった。ジンは零がNOCだと野生の本能で感じとっていたのだ。瞳を瞑ったままニヤリ、とジンは口元を歪めた。爆発音がいくつも響き、コンテナの山が吹き飛び崩れる。
「倉庫内の者は今すぐ脱出しろ!」
 零はインカムに荒く言葉を吐くと、未だ痛む瞳で外からの明かりを頼りに走るジンを追う。しかしそれを阻むように零の目の前にコンテナが転がり落ちてきた。
  倉庫を飛び出したジンは、懐から二丁銃を手にすると、研ぎ澄まされた感覚を信じるままに発砲した。包囲しようと近付いていた捜査員達が銃弾に倒れ、ジンはそのまま逃げようとする。しかし程近いビルから狙撃手は機会を伺っていた。狙いから寸分違わずジンの脚の甲を弾丸が撃ち抜き、倒れたところを即座にFBIが取り押さえる。
「くそが...っ!」
「タオルを噛ませろ。口の中には詰めるなよ。飲み込んで自死するかもしれん。舌を押さえてタオルを噛ませろ」
 赤井からの無線に従い、部下は舌の上にタオルを乗せ頭の後ろで結び、別の者が手足を縛り上げた。
 倉庫の中では大小様々なコンテナが崩れていた。零はどうにかコンテナとコンテナの隙間へ身を捩じ込み、潰される難を逃れほっと息を吐く。それも一瞬で、鋭い痛みが腹部に走り瞳をやると、屋根に使われていた鉄材が腹を突き破っていた。認識してしまえば気を失うほどの痛みが零を襲う。コンテナの擦れる音がして、狭くなる隙間に零は立ち上がった。
 爆発で照明が破壊され薄暗い倉庫内に火薬と鉄の臭いが立ち込めている。痛む腹を意識しないように努め、零は辺りを見回す。
「ぐっ、うぅ...」
  聞こえた苦しむ声に、零は腹に痛みが走るのを気にせず脚を動かす。見つけ出した青い錆だらけのコンテナの下から血がじわりと漏れ、ベルモットの周りを彩っていた。こんな時でも魔女は赤が酷く似合う。
「ベルモット...!」
「っ、バー、ボン...」
「今助けます!」
 右腕を下敷きにされベルモットは横たわっている。コンテナの大きさから考えて持ち上げることは不可能だ。それにベルモットの腕ももう。
「っ...」
「何を、悲しんでるわけ?ほんと、あなたは馬鹿ね...。早く、殺しなさい」
「あなたも気付いていたんですね。それなのにここに僕も呼んだ。何故ですか?」
「さあ、何でかしらね...」
 低く呻きながらベルモットは力無く笑った。零はベルモットの口にタオルを突っ込むと首に左腕を回させる。
「我慢してください」
「やめなさい!あなただって怪我してるのよ!あ、嫌よ!やめてっ!ああっ!」
 嫌な音を立ててベルモットの腕が引きちぎれた。大量の血を滴らせる患部を着ていたシャツで縛り上げ、零はベルモットを担ぐと倉庫を出る。すぐに轟音が響いて二人がいた場所にコンテナが転がった。
 零の歩いた道に赤い花が咲く。時折霞む視界に悩まされながら、零は倉庫の外に漸く出た。駆け付けた捜査員にベルモットを任せ、制止を聞かぬまま本営へと向かう。
 照明が煌々と照るそこでは、FBIと公安が入り乱れて状況確認を行っている。その近くに停る護送車の中に、ジンをはじめとする集まっていた幹部全員が意識を奪われ転がっているのが確認出来た。本営の中心、風見のもとへと向かえば悲鳴のような声で名を呼ばれる。
「ふっ、降谷さん!」
「騒ぐな、響く。状況は」
「はい!っではなく!ここはわたしに任せて早く病院へ!」
「後で行く。全員捕らえたようだな。負傷者は?」
「ええ、この倉庫にいた者は全員。被害は公安で負傷者六名。全員ジンに撃たれましたが、病院に搬送済み。FBIの被害状況は不明ですが、組織幹部ではジンが負傷。撃ったのは赤井です」
「ちっ...またとられたか」
 ぎりっと思わず奥歯を噛み締め、走った痛みに呻く。それに風見は口調を早めた。
「アジトへは別働隊が向かっています!状況が分かり次第お伝えしますから降谷さんは早く病院へ!」
「ああ...さすがに仕方ないな...」
 降谷は救命士に支えられながら救急車へと乗り込む。ドアが閉まる直前、少し顔を覗かせた赤井のせいで眉間に皺が寄るが、すぐに痛みのものへと変わった。棒が突き刺さったまま座り、どうにか痛みに堪える。少しでも気を抜けばすぐに意識は無くなり、気付かぬ間に闇の深淵へと連れていかれそうだ。嫌な汗が流れ、患部が心臓であるかのように脈打つ気持ち悪さの中、脳裏で名前の笑顔が浮かんでは消えていく。
 途切れそうな意識の中で見るそれに走馬灯なのか、と考え名前であることを嬉しく思う。それほどに自分の人生は名前と共にあった。たった三十年の人生で、名前と過ごしたのはその半分にも満たないのに、自分を構成する殆どが名前なのだ。最期に想い描くものが名前の笑顔であれば、胸を張って幸せだと言える。しかし我儘を言うならば名前に会いたい。会いたい。名前に会いたい。名前、名前。
「大丈夫ですか!」
 最後に聞こえたのは救命士の声だった。飛びっきり可愛い笑顔を名前が向けてくれてたのに、その声で意識は一瞬浮かび上がって名前は消える。救命士ふざけるなよこの野郎なんて悪態を内で吐くと、今度こそ意識は堕ちた。


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