眠り姫9
 無機質な音が電話口から聞こえるのはもう何度目だろうか。零と最悪の別れ方をして半月以上経つ。
 赤井の言葉に背を押され次の日には連絡を入れたが、零が電話に出ることも、折り返しが来ることもなかった。その次の日、三日後、一週間後、三日毎、連絡を取っても結果は同じだった。
 呆れられてしまったのだろうか。もう零はわたしのことなんて、どうでも良くなってしまったのだろうか。
 考えると負の想像ばかりが浮かんできて名前は恐怖で押し潰されそうだった。零が名前無しでは生きていけないと言ってくれたのと、名前だって同じだった。
 零がいなければ生きていけない。それなのに零を遠ざけて後悔して。謝りたくても連絡はつかない。
 沖矢を訪ねてはみたがそれも不発に終わってしまって、名前には考えつく手段がもう無かった。すっぱりと諦めて大人しく社会復帰しろと、真っ当な自分が語り掛けてはくるが到底そんな気にはなれなかった。沈む気持ちを今日も抱え過ごすのかと、カーテンの隙間から差し込む陽射しを睨み付けた時、携帯が着信を知らせた。表示されたのは待ち望んでいた零の名前だった。
「零!」
 飛び起きて電話に応えれば、あ、と小さな声がした。
「零...?」
「申し訳ありません。わたしは降谷さんではありません」
「え、え...?」
「苗字名前さんでお間違いないですか?」
「そうですけど...」
 淡々とした声に名前は思わず答えてしまう。胸の奥で嫌なものが渦巻くのを感じた。
「今すぐ警察病院に来てください。詳しいことはお会いしてから」
「えっ、ちょっと!」
 問答無用で切られた携帯を眺めて名前は長い溜息を吐いた。何が何だか分からないが、警察病院なら変な事が起きることもないだろう。そう考えて支度をしようと立ち上がるが、はっと気付いた。零の携帯から別の人が電話をしてきて、しかも警察病院に来いと言う。
「零が怪我した...?」
 身体が急激に冷えていく。指先が冷たくなり、思考も遅くなる。恐怖が名前の全身に重く伸し掛る。
「あ、零...いやっ...」
 震える手にどうにか力を入れて、寝巻きから着替える。同じように震える脚で階段を降りてリビングへ向かうと不思議そうにこちらを見る両親の姿があった。
「あら、着替えてどうしたの?」
「零、が...早く、病院に...」
「落ち着きなさい。どこの病院?」
 気が動転している名前を落ち着かせようと背を擦り父は問い掛ける。
「警察病院...」
「車を出そう。まだ早いからそんなに混んでないはずだ」
 父に支えられたままで名前は車へと乗り込んだ。車内は静寂に包まれていた。名前の手はかたかたと小さく震えている。
 零もわたしが目覚めない間はこんな風に怖かったのだろうか。きっとそうだったんだろう。目が覚めた時は泣いて喜んでくれた。病室にいなかった時は酷く取り乱していた。そんな恐怖のなかで自分が全うすべき任務を遂行し、見舞ってくれた。今度はわたしの番だ。
 ぎゅっと強く握りしめた手が段々と熱を持つ。
 零の手が冷たいのならこの手で温めてあげたい。零の目が覚めないのなら、いつまででも待ち続ける。だからどうか、無事で。
 警察病院の駐車場に車が滑り込むと名前は飛び出しドアも閉めないままで院内へ掛けて行った。どこへ行けばいいのかくるりと首を回した時スーツを着た長身の男を発見して名前は駆け寄った。パタパタと朝方の院内に煩い音が響き、男は振り向いた。
「苗字さん、ですね」
「はいっ、零は...!」
「こちらです」
 電話口と同じ声の男は名前を伴って廊下を進む。エレベーターに乗り、6階へ着くとエレベーターを降り一つの病室の前で立ち止まった。プレートに名前は無い。
「どうぞ」
 静かにドアが開けられ中に促されるが、恐怖から脚が竦み動くことが出来ない。短い息を漏らすと、ぽんと肩を軽く叩かれた。
「心配しなくても大丈夫ですよ。容態はもう落ち着いていますから」
 男の言葉に名前の身体から力が抜けた。盛り上がったベッドへ脚を進めると、普段と特に変わらない零がそこには眠っていた。少し頬は痩けただろうか。しかしもともと細く引き締まっていたために大きな差は感じられず安心した。撫でた頬は確かに暖かい。ぽたり、と零れた涙が布団に染みて名前は慌ててそれを拭った。
「あの、どうして病院に?」
「......きっと降谷さん自ら話されたいでしょうから」
 男は首を振ると淡く笑む。零のことを深く理解しているようだ。
「そうですね。わたしも零の口から聞きたいから、いつまででも待ちます」
「...意外です。もっと取り乱されるかと思っていました」
「さっきまでは手なんかがたがたに震えてましたよ。でも、今度はわたしが零が起きるまで待ってなきゃって」
「ああ...」
「もしかしてわたしのこと知ってます?」
「ええ、降谷さんに聞いていましたから」
「そうですか。あなたは零の同僚の方ですか?」
「部下の風見といいます」
頭 を下げた風見に名前も慌てて同じ動きをする。
「あ、えっと苗字です。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」
「あなたのためではないんです」
 きょとりと瞬いた名前に風見は仏頂面をふっと緩めた。
「降谷さん救急車の中で意識を失ってから、三週間ほど眠ったままなのに時折あなたを呼ぶんです。だからあなたを連れてきたら目が覚めるんじゃないかって。あなたのためではなく、降谷さんのために、わたしはあなたを呼んだんです」
「...それでも嬉しいです。ありがとうございます。...わたしを起こしてくれたのはきっと零です。わたしも零を起こしてみせます」
「きっとあなたたちなら、そんな奇跡も起こせるはずです」
 風見は荷物を持つと病室を出て行った。名前は携帯を取り出すと、父に先に帰るよう伝え零の手に指を絡めた。普段よりは低いけれど、確かに伝わる体温に安堵して頬を寄せる。きっと零もこうしてわたしが生きていることを確かめたのだろう。そう思案して名前は零の額や頬に唇を落とした。



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