眠り姫10
 触れるだけの口付けを顔や手に幾度も落としては、増す愛しさに涙が零れそうになる。
 優しいく全てを包む大らかな穹の瞳に自分を映して欲しい。愛していると微笑みかけて欲しい。
「零。わたしはここにいるよ。起きて」
 乾いた唇を食み小さな音を立て離れる。右手を握ったまま頬を撫でると瞼が微かに動いた。
「零...?」
「っ、ん」
「!」
「...名前...?」
 溢れる涙に顔を歪め名前は零に縋り付いた。漏れ出る嗚咽を抑えようともせず、何度も愛する人の名を呼んだ。
「零、零...零!」
 力が入らないのか緩く回された腕に応えようと、名前は更に擦り寄った。背を優しく撫でられて不安と恐怖で一杯だった心が喜びで満たされていく。名前は頬にキスを数度落とすと身体を起こし涙を拭い笑った。
「よかった。目が覚めて、よかった」
「俺、どれくらい...?」
「三週間だって。実はわたしもさっき連絡貰って来たばかりで詳しくは知らないの。風見さんはさっき出て行った」
「そうか、三週間...」
 零の脳裏にベルモットを始めとする幹部の顔が浮かぶ。恐らく誰一人として口を割ってはいないだろう。捜査はまだまだこれからという時に戦線を離脱したことが悔やまれる。零は未だにはらはらと涙を流す名前を見て柔らかく笑んだ。
「名前、心配掛けたな」
「ほんとだよ。全然連絡つかないし...」
「連絡してくれてたのか」
「そりゃあ...伝えたいこととかあったし...」
 俯く名前の頭を緩く撫でて零は優しい声音で呼んだ。
「名前、もっと顔見せて」
「っ、零...、凄く怖かった。このまま起きなかったらどうしようって。零もこんな風に怖かったのかなって」
 頬を流れる涙を拭ってやるがそれも間に合わず、零の手をどんどん濡らしていく。零は名前が目覚めるのを待った、気が遠くなるほど辛く苦しく長い時間を一人で過ごしたことを思い出した。
「怖かったよ。でも名前も俺も瞳が覚めたんだ。恐怖を思い出すんじゃなくて喜びを共有したい」
「うん。でも、これだけは言いたい。...ごめんなさい。たくさん酷いこと言って零を傷付けた。零がわたしを景光くんの変わりにしてるなんて本当は思ってないよ。でも悔しかったの。二人にはわたしが入れない二人の時間があったから」
「親友だったからな。でも殆ど俺が惚気話してただけだから、お前が気にする必要なんてなかった。俺もごめんな。...名前」
 零は苦しそうに腹を押さえながら身体を起こした。名前が立ち上がり支えようと近付くと大きな腕ですっぽりと抱き込まれた。
「名前。全部終わったんだ。もうお前から離れなくていいんだ。俺とずっと一緒にいてくれるか?名前と二人で幸せになりたい」
「っ、っ!」
 二回名前の身体が小さく震えた。離れず傍に、二人で幸せに。それぞれの言葉が名前に大きな喜びを齎した。
「一緒に、いてもいいの?」
「名前と一緒にいたいんだ」
「四年も眠ってたんだよ?」
「必ず迎えに行くって言ったんだから、何年だって待ったさ。名前だって俺にそう言っただろ」
「...れ、い」
「名前、こんなところで悪いけど、」
 零は言葉を一旦切り身体を離すと名前の濡れた頬を両手で包んだ。見詰めた瞳は涙で潤み零を暖かな気持ちにさせる。
 愛しい存在を護りたい。二度と離さない。そう誓った。
「結婚しよう」
 してください、してくれますか、の言葉は選ばなかった。名前に委ねるのではなく己の意志を伝えたかったからだ。名前は泣きそうに顔を歪めたのを堪えて不格好な笑みを浮かべた。
「はい...っ」
 震える声さえも飲み込むように唇を合わせる。かさついた唇に小さな痛みを感じても衝動を抑えることはできない。
 名前が俺の嫁になるんだ。止めどなく湧き上がる喜びを体現するように唇を貪り、頼りない身体をきつく抱く。零が動きを止めたのは何も知らない名前が背中側の傷に触れた時だった。
「ぐっ!」
 思わず身体を離した零に名前ははっとした。
「そうだ!傷!わたし今触っちゃった!?」
「大丈夫だから気にするな...」
「その反応で気にしないとか無理だから!看護師さん呼ぶ!?風見さん!?」
「何でそこで風見なんだ」
「零も状況把握したいかなと思って」
「ああ...」
 零は少し思案した後で名前に椅子に座る様促した。言われた通り名前が腰を落ちつけると零は腹を撫でた。
「俺が特殊な任務に就いてることは知っているな?」
「...うん...」
「その任務中にこの怪我をしたんだ。爆発で飛んできた鉄の棒が腹から背中に貫通してた」
「え...」
 名前は日常会話からは聞くはずもない言葉を耳にして、思考が停止するどころか目眩さえする。特殊な任務とは聞いていたがそこまで危険な事をしているとは思っていなかったのだ。
「上手く臓器を避けていたんだろうな。生きてるのが不思議だ」
「っ、やめてよ。そんな風に言わないで」
 蘇る恐怖に涙が浮かび零は慌てる。怖がらすつもりは無く、名前に話しながら状況を整理しようとしたのが良くなかったようだ。
「名前、もう大丈夫だから。何も怖がる必要は無い。俺は絶対にいなくならない」
「ほんと?」
 泣きじゃくる幼子のように問い掛けられ零は堪らない気持ちになる。
 ああ、俺の彼女が可愛い。違う、もう嫁だ。泣かせるのは嫌だけど俺がいなくなることを考えて泣いちゃう嫁好き。
 零の頭の収拾がつかなくなった時、病室のドアがノックされる。顔を覗かせた風見は目覚めた降谷を見て表情を明るくする。
「降谷さん...!お目覚めになられましたか!」
「ああ、風見。心配と面倒を掛けたな」
「そんなことはありません!ああ、よかった...!」
 風見は突入の日からずっと重いままだった胸がふっと軽くなるのを感じた。名前に視線を移し思わず笑む。彼女を連れてきたのは正解だったようだ、と。しかし零はそんなことを思っているとは知りもせず目を吊り上げる。
「おい、風見...」
「はい?」
「お前、何で名前を見て笑ったんだ?今まで見たことも無いような柔らかい顔だったぞ。まさかお前...!名前、風見にここまで連れてこられたのか!?何もされてないか!?」
「ふ、降谷さん!?」
「ちょっ、零!落ち着いて!」
 早く捜査本部へ連れて行けと暴れるかも、と予想はしていたが彼女を取られたのでは、と暴れるとは思いもしなかった。風見は乱暴に掴まれて寄れたスーツをなおしながら嫌な汗を流す。宥めるために触れた腕をそのまま引き、妻を抱き締めながら睨み上げてくる上司に参ったな、と心の内で深い溜息を吐いた。
「零、そんなんじゃないって分かってるでしょ。風見さんが呼んでくれなかったらわたしここにいないし、零もまだ起きてなかったかもしれないよ」
「...起きてなかった?どういうことだ?」
「あ...それはまた今度で...。か、風見さん!お話があって来られたんじゃないですか?ねえ!?わたしは外に出ておくので!」
「あ、こら!」
 零の余り力の入らない腕から抜け出し名前は病室を出て、そこに二人の警察官が控えていることを確認して固まる。あまり防音がしっかりしているとは思えない病室だ。会話を思い出すと名前は恥ずかしさにその場を逃げ出した。
「名前...」
 妻が出て行ったドアを寂しく見つめる上司の姿に風見は驚くが、この調子ではまともな話が出来る回数はそう多くないと咳払いをして話を始めた。
「捕らえた組織幹部ですが未だ誰一人口を割りません。アジトにボスはおらずFBIと共に捜索中です」
「そうか。捕まえた奴らは舌を噛み切らないように注意しておけ」
「はいっ」
「それと俺の怪我についてだが」
「医師を呼びましょうか」
「いや、いい。お前は詳しく聞いているか?」
「奇跡的に臓器を避けて刺さっていたようです。あと数ミリずれていれば身動き取れずそのままだったろう、と」
「どうやら死は間近だったらしいな」
「よくそんな冗談を言えるものです。こちらはどれだけ肝が冷えたか...。苗字さんも可哀想です。これからは我先にと死地に赴かないでくださいよ」
「この件が終われば俺は潜入から引退さ」
 漸く終わると清々しい笑みを浮かべる零を風見は複雑な表情で見詰める。
 犠牲にしてきたものがあまりに多かった。人並みの生活、幸せ、捜査を妨げる不必要な感情。己の手を汚し、唯一無二の親友を喪った。
 命懸けの任務のために張り詰めていた糸が呆気なく千切れてしまえば、零の命も消えてしまうのではないかと風見は恐れていた。
「これからは少し歩調を緩める。死に急ぐなんてことはしない」
 穏やか過ぎるその表情は以前なら死ぬ気だと焦っただろうが今は違った。
 隣に寄り添う存在とこれからの人生をゆっくり進みたい。
 日本を守るためだけに産まれてきたようだ、と思っていた上司の男としての幸せを初めて目にして風見は安堵した。
 風見が病室を出ると廊下の向こうから歩いてくる名前がいた。
「苗字さん」
 呼び掛ければ弾かれたように名前は顔を上げ歩く速度を速めた。
 こうやってこの二人は速度を速めたり、緩めたりして自分たちのペースで楽しく人生を歩んで行くのだろう。
「降谷さんが無理しないように見張っていてくださいね。それから、あの人と一緒に幸せになってください」
 きょとり、と大きな瞳で見上げられ風見はたじろぐ。少し上からだったろうか、と慌てて言葉を重ねようとしたところで名前は笑った。
「ありがとうございます。今はこれくらいしかありませんが、どうぞ」
 名前から差し出された缶コーヒーを思わず受け取る。名前の穏やかな表情は零のものとやはり似ていた。
「風見さんもたくさん振り回されたんですね。お疲れ様です。これからはわたしも零が無理しないように見張ります。景光くんの分も彼を支えるつもりです」
 風見の胸に言い知れぬ感情が広がった。
 この二人なら今までの苦しみなど軽々と乗り越え、幸せを掴み取るのだろうと。自己犠牲の過ぎる上司の幸せをいつだって願ってきたが、やっと報われるようだ。小さな背中が病室に消えると風見は病院を後にした。
「飲み物買ってきたよ。何がいい?」
「ありがとう」
 名前は自販機でいくつかの飲み物を買ってきていた。コーヒーだろうなと思いながらも、意外に甘いものを飲みたがるかもとフルーツジュースやココアなども買ってみたがやはり選ばれたのはコーヒーだった。痛みがあるだろうと零が手にしたコーヒーを手に取りプルタブを開けてから手渡す。
「逆ならまだしも、俺が開けられる側になるとは...」
 嫌そうに眉根を寄せ零は口を突き出した。高校生の時よく見た仕草に名前は笑ってしまう。
「笑うなよ」
「だって、昔焼き餅焼いてた時と同じ顔してるんだもん」
「どっちも気に入らないから同じ顔になるんだよ。そうだ、お前さっきはぐらかした、俺が起きてないってやつ何だったのか話してもらうぞ」
「えっ」
 忘れたと思っていたのに自分の言葉で思い出させてしまったことを名前は悔やむ。言葉を探すが上手い言い訳は見つからない。
「ほら、早く」
「えっと、だからさ、きっと零はわたしが来たから目が覚めたんじゃないかって、それだけ!」
「...ほんとにそれだけか?お前なんか隠してるだろ」
「隠してません!」
「嘘つく時はよく敬語になるよな」
「!」
 知らなかった癖を暴露されてしまえば隠し事は出来ない。名前は観念すると、頬が熱を持ち始めるのを感じながら口を開いた。
「ただの偶然だと思うんですけど...零にキスしたら起きた、みたいだったから...」
「へえ、俺の寝込みを襲ったのか」
「違う!言い方!」
「ふはっ」
 零は名前の腕を引くとベッドに座らせ抱き締めた。
 どうやら魔法を解いたのはお互いだったらしい。
「名前、俺が起きたのはお前のキスのおかげだよ。お前が寝てる時に俺がキスしたら次の日に起きたって連絡があったんだ。俺達はお互いに眠り姫の魔法を解いたんだよ。こうやって」
 零は薄い唇を名前に押し付けた。くぐもった声が漏れ、胸を押されるが零は離れてやらない。熱い舌を吸い上げる度に震える瞼を愛おしげに見詰めた。離してやれば名前は乱れた息で批難しようとするが、瞳を優しく細めて微笑む零に何も言えなくなる。真っ赤な顔を見られないように零に抱きつけば、すぐに逞しい腕が背へと回された。あまり力が入っていなくとも安心する腕は変わらない。
「...何で零も眠り姫なの。眠り王子じゃないの」
「王子が姫に起こしてもらうなんて格好悪いだろ」
「助け合ってるみたいでいいじゃん」
「...それもそうか。じゃあ俺は眠り王子」
「いや。もう眠り王子にはならないで」
「もうならないさ。名前も眠り姫なんかに二度とさせない」
 互いの存在を確かめるように熱い抱擁を交わす。静かに鼓動が伝わるのが嬉しい。永遠に共に。零は愛の誓いを立て白い空間の中で名前にキスを送った。


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