A’ 壱
 小料理屋の看板娘は名を名前と言う。父と子二人の商売で寡黙な父を上手く支え、気が周り客が次の酒を頼む頃には温まった徳利を得意気に掲げて見せる、ほっそりとした身体ながらも活発でよく笑う娘だ。
 幕末、動乱の渦中である京にありながら、店は今日も明るい声で賑わっている。
「名前」
「降谷はん」
 一人の侍が暖簾を潜り入ってくると、名前は嬉しそうに駆け寄った。降谷零、名前と恋仲の会津藩士。小柄な日本人に珍しくすらりと伸びた体躯に視線が寄せられるが、本人がそれを気にする素振りは無い。
「こちらへ」
 定位置となっている席へと促され、店主であり恋人の父が鍋をかき混ぜる目の前に降谷は大人しく腰を下ろした。
 店は入ってすぐ右手に対面式の厨があり、その前に横並びの三人掛けの席と、その左に一つと後ろに三つそれぞれ四人掛けの座敷がある。座敷は全て埋まっていて、降谷から視線を外した男達は再び酒を酌み交わす。
 降谷の前に湯気を立てる椀が置かれた。色とりどりの季節野菜が入る豚汁は味噌の香りが豊かで食欲を唆る。
「外は冷えてますやろ」
「いただきます」
 店主から直接渡された椀を降谷はありがたく手にした。悴んだ手がじんわりと暖かくなっていく。鼻腔を擽る香りを胸いっぱいに吸い込んだ後、ゆっくりと汁を飲んだ。
「流石親父殿の料理です。美味い」
「そらおおきに」
 店主は珍しく笑んだ。界隈で有名な娘を見に低俗な輩が来ることは少なくない。色茶屋であるかのように娘に接せられ、客と喧嘩になりかけたところを間に入り収めてくれたのが通りすがりの降谷だった。それはお前達が悪いだろう、と町人たちを咎め、二度としないと約束までさせた礼として店主は料理を馳走し、降谷はすっかりその味の虜となり、そうして通ううちに名前と恋仲になった。
 店主は最初からどさくさに紛れて娘を手篭めにしようとしていたのでは、と降谷を訝しんだが、日を重ねる毎にそうではないことに確信を得た。寧ろ今は、娘が幸せになれるならと、態度にこそ出さないがそう思ってる。
 酌をする娘とそれを受ける降谷を見て、店主は今日のイチオシを差し出した。
「これは?」
「揚げた豆腐にあんをかけたもんです。名前のお墨付きをもらってますから、味は保証します」
「それは絶品ですね」
「降谷はん...!」
「はは、すまない」
 頬を膨らませる名前の背を降谷は撫でる。父は店を出すほど料理が上手いのに、その娘は料理の腕はからきしだ。それなのに舌は肥えていて、名前が味を見て父が手直しするというのが通例になっている。
 割った豆腐をあんに絡め、降谷は口に運んだ。出汁の利いたあんが揚げ豆腐をしっとりとさせている。初めて食べるが美味いとしか言葉が出ない。嬉しそうに笑う名前に笑みを返し、降谷は酒を煽った。
「一人なんだが、空いてるか?」
 名前に案内され降谷の隣に一つ席を空けて座ったのは、降谷に負けず長身の武士だった。鋭い視線を交わす二人に気付くことなく、名前は男に声を掛ける。
「今日は豚汁と揚げ豆腐がおすすめどすが、どないしはります?」
「それを貰おう。あと酒と白飯も」
「へえ、すぐに」
 名前は厨に入ると、豚汁と白米をそれぞれ椀に盛り、熱燗と一緒に盆に乗せた。
「豆腐は揚がるまでお待ちを」
 配膳を済ませると、男が持った猪口に酒を注ぎ名前は笑った。人相手の商売だから仕方ないとは思っていても、この光景を見ると降谷は心がざわつく。町人相手であれば身分違いの恋が面倒になったと、そして今は、男が見ても役者のようだと惚れ惚れする顔をした同じ武士に情が移ったと言われるのではないかと。
「降谷はん?どないしはりました?」
「いや、なんでもない」
「お疲れなんと違いますか?無理はあきまへんよ」
「それは名前もだろう。最近困ったことは無いか」
「降谷はんがうちに来てくれるようになってからはなあんにも。ほんにありがたいとおもとります」
 自分だけに向けられる特別柔らかな笑みに降谷の心は落ち着きを取り戻す。
 いつか名前と所帯を持ちたいと思っている。しかし降谷は上京している身であるし、情勢は不安定でそれはいつになるか分からない。国元の養父母だって町娘との婚姻には反対するだろう。早く自分のものにしたい気持ちだけが膨らみ続けて降谷は毎夜名前を想い眠るのだ。
「おまちどうさん」
 店主が男の前に揚げ豆腐を置く。男は短く礼を告げたあと、あんが乗った揚げ豆腐を口に運んだ。
「む、これは...美味いな...」
「ふふ」
 あまり感情を顕にしなさそうな男が、感嘆に唸ったため名前は笑い声を漏らした。それに降谷の心は軋む。
「お口におうたようで」
「ああ。上方の味付けがあまり俺には合わなかったんだが、この店のはどれも美味い」
「おおきに。お国はどちらなんどす?」
 名前の言葉に男はちらりと降谷を見遣った。不機嫌そうな降谷と視線が交差して、男はふっと口元を緩める。
「やめておこう。食事の時くらいは生まれを気にせず酒を酌み交わしたい」
「...降谷だ」
「赤井。この店はよく来るのか?」
「ああ。すっかり親父さんの料理に惚れ込んでしまったんだ。名前にも」
「わっ」
 座る降谷は側に立っていた名前の腰を抱き寄せ、色付いた顔を見上げる。
「ふ、降谷はん...」
「横から掠め取られてはかなわないからな」
 赤井はきょとりとした後で、くつくつと笑った。
「釘を刺されてしまったか」
「分かったならそういう瞳で名前を見るなよ」
「それは無理だろう。こんな美人に酌をされれば」
「名前、こいつに酌はしなくていいぞ。手酌で十分だ」
「そういうわけには、」
「名前ちゃん、注文ええかなあ」
「あ!へえ、ただいま!」
  客に呼ばれた名前は降谷の腕から離れ座敷へと向かう。口を尖らせていた降谷は赤井に鼻で笑われ頬を引き攣らせた。
「お前は俺を苛つかせるのが上手い」
「お褒めに預かり光栄だ」
 赤井は身体の向きを変え徳利を降谷の猪口に傾ける。降谷も同じようにして二人は猪口をぶつけ酒を煽った。
 それから二人は店で会うと酒を酌み交わすようなった。頻繁に会うことは無かったが、剣の話や舌鼓を打つ料理の話で、まるで幼い頃からの仲であるように盛り上がった。僅かな訛りに相反する勢力であると互いに勘付きながらも。


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