A’ 弐
 一八六四年七月──京都市中に轟音が響き、長州が御所に発砲した報せは日本中を震撼させた。真木和泉守を始めとする長州藩士が天王山で自害し、多くは長州へと引き上げた。それ以降赤井は店に姿を見せなくなり、やはり長州藩士だったか、と降谷は惜しんだ。
「赤井はん、無事なんやろか...」
 ぱたりと姿を見せなくなり数ヶ月が経つ馴染み客が心配なのは分かるが降谷には面白くない。
 店主から街の寄り合いで留守にするから今夜は泊まって欲しい、と頼まれた降谷は外泊の届けを藩邸に出し、親子二人が住む店の二階に初めて上がった。
 母がおらず、父も遊ぶわけではないためか、名前はそちらに詳しくない。歳若い男女が夜を共にすることの意味など考えもせず、思いついたことをそのまま口にしては降谷を煽る。
「名前、夜は冷える。近くに」
「...はい...」
 しかし傍にいられることは嬉しいのか、頬を染め素直に身を寄せてくる。降谷は細い肩から手を滑らせ小さな手をぎゅっと握った。逸らされた瞳は潤み、隙間風に揺れる蝋の火を映す。
「...名前...」
 熱い吐息を混ぜた降谷の掠れた声に背筋がぞくりとした。初心な少女はそれを寒さのためと更に身を寄せ、男の情欲を昂らせる。
 壁に預けていた背を離し、敷かれた布団に名前を横たえると降谷はその上に跨った。
「いいか?」
 顔を埋めた髪が揺れ肯定を受け取ると、降谷は甘やかな温もりに縋るように名前を抱いた。

 がやがやと煩い座敷とは裏腹に目の前の降谷が纏う空気は重苦しい。政治に疎くも、客から聞かされる話で長州が置かれる状況を知っていた名前はぽつりと零した。
「日本はどうなってしまうんやろ...」
 考えたところで自分がどうにか出来るわけではない。しかし赤井を思い出すと、どうか無事でいて欲しいと願わずにはいられなかった。
 朝敵となった長州を討つために討伐隊が組織されていると噂で聞く。京都守護職として上京している松平容保に仕える降谷が出兵することもありえるかもしれない。そう思うと名前の不安は膨らむばかりで、潤んだ瞳を降谷に見せることが増えた。その度に不安を取り払うように降谷は優しく名前を慰める。お前を残して死にはしない、と。
 目紛しく情勢は動く。将軍徳川家茂が病死、孝明天皇の崩御。将軍後継職であった徳川慶喜が将軍となるも形勢は一気に尊皇攘夷派に傾き、一八六八年年明けから間もなく戦火は上がった。朝敵だったはずの長州が掲げる錦の御旗に幕府軍は錯乱し、士気は下がる一途。それに追い討ちをかける徳川慶喜の江戸への逃走。慶喜に容保が随行したことで、降谷もまた名前に別れを告げぬまま江戸へと下った。今こそ長年の恩に報いるべきであると。
 降谷には異国の血が混じっている。江戸藩邸の門前に産まれて間もない降谷は置き去りにされていた。一つの命であることに違いはない、そう言った前藩主容敬の言葉で男児のいなかった上級武士の家に引き取られた。しかしその容姿は目立ち、小さな頃はよく虐められもした。しかし卑屈になることなく、己を庇護してくれた家の者、そうなるきっかけを与えてくれた今は亡き容敬、その後を継ぎ期待してくれている容保に必ず恩を返すと降谷は奮闘した。そして剣の腕でも学でも抜群に優れた降谷を蔑ろにする者はいなくなった。しかし初めて行く店や他藩の者達には声を顰められる。そんな中で変わりなく接してくれた名前に気を許し、想いを寄せるようになるのは当然のことだ。
 しかし降谷は武士だった。いくら異国の血が混じっていようと日本国に産まれ武家に育てられた男。この生命尽きるまで主君に付き従うと、心を通わせた愛しい女を残し京を発った。そうして会津戦争まで奮闘し、気付かぬ間に生命の蝋燭は随分と短くなっていた。
 京にいる頃から身体の異変は感じていた。小さな小さな異変は重なり、異状だと気付いた時には取り返しがつかなくなっていた。
 戦の最中突進してきた薩摩藩士を受け止めた時、せりあがる熱を堪え切れず降谷は喀血した。乾いた地面に吸い込まれる自身の血液に全身が冷たくなるのを感じつつ、どうにか目の前の男を払い除け甲冑の無い首を切り付ける。空中に噴き出る飛沫より幾分色の濃い血液を吐くと止まらぬ咳が降谷を襲う。胸の痛み、息苦しさ、段々とぼやける視界の中で降谷は生命を捧げると誓った主君ではなく、京に残してきた恋人の姿を想い描いた。
「......名前...」
 膝が折れ地面に倒れ込むと身を返し空を見上げた。
 この空は京へと繋がっている。名前も見上げているだろうか。
 生憎雲に覆われた空は綺麗とは言い難い。それでも同じ空の下で愛する女が生きている。それだけで酷く幸せだと思えた。
 遠ざかる意識に死を覚悟しながら、降谷は短い人生を振り返り柔らかな笑みを浮かべた。



 目が覚めた時、降谷は檻の中にいた。狭い蔵の中に冷たい檻がいくつも押し込められたその一つに何人もの男と閉じ込められている。見知った顔が降谷の目覚めに顔を綻ばせた。
「やっと目が覚めたか」
 聞けば会津戦争終結後戦地にて気を失っていたために、死亡確認を行っていた薩摩藩に身柄を保護されたらしい。他の男達も怪我の治療を施されたようだが、保護とは名ばかりで正しくは捕虜だ。幕府側が反乱の兆しを見せたり、政府側の意に沿わなかったりした場合は人質に変わる、体のいい存在に過ぎなかった。
 二五〇年続いた安寧の世を壊し、民をも危険に晒す戦を始めた新政府軍を降谷は憎々しく思う。この身体さえ言うことを聞けばすぐにでもここを抜け出し主君の元へ駆け付け、許されるならば愛する者の無事を一目確かめたい。
 憎悪、憂慮、愛おしさ。膨れ上がるばかりのそれにやきもきしていた降谷を檻の外から呼ぶ声があった。
 見張りとしてただ立っているだけの男が降谷以外に檻の奥へ行くよう命じ鉄製の扉を開けた。
「出ろ」
 困惑する降谷を男は急かす。背中に突き刺さる視線を感じながらも降谷は扉を潜った。
 蔵から出ると古びた草履が地面に放られ、降谷は男を見下ろした。異国の血が混ざる降谷の背丈は日本男児からはかけ離れて高い。
「釈放だ」
 背を向け再び蔵の中へ向かう男に降谷は慌てて問いかけた。
「待ってくれ。何故俺だけ?」
「...お前、異国の血が入っているだろう。外交問題に発展しては困るからな」
 このまま牢の中で飼い殺しにされない安堵と、仲間たちへの罪悪感。降谷は唇を噛み締めると敷地を飛び出した。
 どの道を行っても軍服が闊歩している姿に降谷は顔を顰める。どうにか辿り着いた容保の屋敷には幾人もの長州兵らしい門番が待ち構えていて、降谷はその場を離れた。会津藩士と名乗り出れば、容保を連れ出し反乱を企てたと、あらぬ嫌疑を掛けられるのは避けられないだろう。
 何故、幕府が、会津が、俺が、この時代に負けたんだ。
 込み上げてくる怒りや悔しさ、悲しみは降谷の中で忌まわしい咳と血液に変換される。
 降谷は重い身体を叱責し江戸へ向かうと、そこで旧幕府軍残党による襲撃を恐れる英国政府関係者の用心棒となった。しかし病状は悪くなる一方で雇い主の助言も聞かず医者にかかることを拒否、謝罪の書き置きを残し姿をくらませた。



 もともと長州贔屓であった京の民衆は再び街に姿を現した長州士族たちに声を掛けては大笑いしている。食材の調達に行っていた父は先の戦に巻き込まれ帰らぬ人となり、降谷は何の音沙汰も無く生死さえ分からない。名前の傷付いた心を癒す者は誰一人としていなかった。泣き疲れて眠り、目が覚めては再び頬を濡らす。頭がおかしくなりそうな孤独の中、死を選びそうになる己との戦いを繰り返す名前の前に癖のある髪を頬に垂らした軍服姿の男が現れたのは会津戦争集結から二ヶ月が過ぎた頃だった。
「名前...!」
 小さく丸まった身体に呼び掛けると、名前はゆっくりと重い瞼をこじ開けた。くらりくらりと揺れる天井の端に見慣れない頭の赤井を収め、僅かに唇を動かした。
「ああ、俺だ、赤井だ」
 微笑を浮かべはしても、大きく表情を変えることのなかった赤井の顔が今にも泣きそうに歪んでいるのを、名前はぼんやりと見つめる。頬を撫でられると酷く安心して、温もりを求めるように細腕を伸ばした。以前よりも細く小さく感じる愛しい存在を赤井は壊さぬよう柔らかく抱き締めた。
 漸く奔走した日々が報われ、日本は夜明けを迎えた。列強諸国に恐れを成し、ただ受け入れるだけの幕府ではなく、脅威に臆することなく並び立とうとする新政府のもとでこそ日本は在るべき姿へと昇華する。しかしその過程で悲劇が名前を襲ったと知り、赤井は自分のしてきたことが間違いだったのではないかと苛まれる。心に深い傷を負いながらも名前が生きていたことは喜ばしいが、これから伝えることを思うとそれもすぐに消え去った。
「降谷くんは会津戦争終結後薩摩に身柄を拘束されていたが釈放され、その後の行方が分からなくなっている。彼のことだから野垂れ死ぬなんてことはないだろうが、彼の矜恃がとこまで保つか...」
 醜く生に執着するくらいなら降谷はそう考えるだろう。自害しているかもしれない、と口にはしなかった。それでも意味を理解した名前は天井を見つめたまま涙と声をぽつりと溢した。
「降谷はん...」
 恋い慕う男を呼ぶ切ない声に赤井は胸が締め付けられる。いくら近くにいても名前の心を支えるのが降谷であることに変わりはないのだ。しかしその降谷は行方知れずで、この今にも掻き消えそうな存在を守れるのは自分しかいない。
「名前、俺と共に江戸へ行こう」
 名前は静かに頷いた。閉じた瞳から再び涙が流れ布団に吸い込まれていく。
 父と降谷を失った名前には赤井しかいなかった。
「一人にせんで...」
 仄暗い瞳に赤井はすぐにでも京を発つことを決めた。この地は残酷な現実を容赦無く名前に叩き付ける。
 江戸へ向かう道中は名前の心に癒しを与え続けた。京の街から出たことの無かった名前には知らない食べ物や、豊かに育った木々や花々が珍しく、長い距離を歩き脚が棒になってしまったのではと思うくらいに疲れるのも初めてだ。何より、心の傷をふわりと包み込み、優しく寄り添ってくれる赤井に惹かれていった。
 江戸の邸宅は洋式が取り入れられた小さな平屋だ。同僚達が勝ち取った権利を振り翳すように広い屋敷を建てる中で赤井はそうしなかった。多くを望めば大切な一つが掌から滑り降ちるのでは無いかと恐れているからだ。
 敷かれた絨毯の上に鎮座する滑らかな触り心地のテーブルと揃いの椅子を物珍しそうに眺める名前に視線を注ぎ、赤井は何を失ってもこの女だけは手放さないと胸に固く誓った。


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