A’ 参
「じゃあ、行ってきますね」
「ああ、気を付けろよ」
 煌びやかな着物に身を包んだ名前から京言葉を聞くことはすっかり無くなった。同時に京での思い出を胸の奥に閉まったのだろう。
 久しぶりに一日自宅でゆっくり妻と過ごせると心を弾ませていた赤井だが、急に出来た休日のため名前はこちらで出来た友人と茶を飲む約束を取りつけてしまっていた。日を改めて貰うと言う名前を赤井は制し、小さな背を送り出した。名前には名前の世界がある。赤井の同僚の婦人たちと順調に仲を深め、その日のことを面白可笑しく話す姿に何度胸を撫で下ろしただろうか。
 しかし、それは唐突に崩れ去る。帰宅した名前の表情は優れなかった。
 親しい米国士官から譲ってもらったウィスキーの注がれたグラスを昼から傾けていた赤井は眉を顰める。
「随分早いな。どうした?」
「...やっぱり秀一さんと過ごそうと思って、早く帰ってきちゃいました」
 僅かな間に赤井は何か隠していると瞬時に判断するが、根が頑固な名前は問い正しても話しはしないだろう。本当に困った時は話すと以前取り付けているので、いずれ打ち明けてくるかと赤井は残りのウィスキーを煽ると名前の手を引いた。
「昼から酒を飲むのもいいが、美しい妻を抱くのも悪くない」
「酔っ払いとは嫌ですよ」
「酒に飲まれる玉じゃないさ」
 奥の寝室へと名前を導き赤井は口元を緩めた。異国の血が混ざる自分と同じくらい白い肌に顔を埋め甘やかな香りを吸い込めば、閉じた襟元の下でふるりと胸が震える。白磁に映える洋紅色の着物から金糸で細やかな刺繍が施された黒の帯へと手を滑らせ、赤井は柔らかな唇を奪った。
 赤井の愛撫に翻弄されながらも、名前の頭の中は逃げ帰ってきた茶会での出来事でいっぱいだった。
「会津藩士と夫婦になる約束をしていたらしいわよ」
「まだ会津藩士と繋がっていて、情報を流しているのかも」
「反政府勢力に加担しているなんて、仕方無く拾ってくれた赤井さんに対する最大の裏切りね」
 つい先日まで親しくしていた者たちの心無い言葉は、漸く癒えた深い傷を容赦無く抉った。名前には赤井しかいない。そんな仕打ちが出来るはずも、するつもりも無い。しかし周りが信じてくれないのであれば、赤井だけが信じてくれればいい。
 名前には赤井しかいないのだから。

 外出が減り屋敷で赤井の帰りを待つだけの生活になった名前の瞳には、あの時の仄暗さが戻りつつあった。寝る前の一時に尋ねても名前が答えることは無く、緩く首を振るとすぐ眠りに就いてしまう。憔悴しているのが分かるのに何もしてやれないもどかしさと、彼ならば、降谷零ならばこんな名前をすぐ笑顔にしてやれるのではないかという悔しさ。
 赤井の中で苛立ちは募り、ある晩名前を叱り付けた。
「俺がいなければお前は生きていけないんだぞ。愛想くらい良くしたらどうなんだ」
 当然本心では無かった。全てを捧げることも惜しくないほどに、他の全てを捨ててもこの女だけはだけは手放せないほどに、純粋に愛していた。
 だからこそ自分の口から出た言葉に驚いた赤井は、咄嗟に屋敷を飛び出し夜の街へと逃げた。
 目を見開きその場に固まっていた名前は、己の置かれた状況を理解し震えながら赤井の帰りを待った。しかし夜が明けても赤井が戻ることは無く、通いの女中が挨拶に来ると飛び付き大声を上げて泣いた。
 朝の澄んだ空気でも吸ってはどうか、そんな女中の言葉で名前は屋敷を出て久方ぶりに辺りを歩いた。雀の鳴き声が聞こえるだけで、まだ寝静まった街は静かだ。昼間に歩こうものならそうはいかない。
 例の茶会の後、名前は屋敷を出ることを控えるようになった。それを赤井が心配しているのは気付いていたが、政府要職に就き毎晩遅くまで心身を酷使している夫に話すことではないと何も語らなかった。
 使いの者が茶会の話を持ってきても、名前は体調が優れないからと断り続けた。甚振る相手がいなくなりつまらなくなったのか、彼女たちは士族だけではなく近隣の平民達にも名前の噂を流した。上級士族の妻でありながら名前は外を出歩けば平民から陰口を叩かれ、すれ違いざま故意にぶつかられたこともある。
 あらぬ噂に翻弄され名前は戦後間もない時と同じように、死へと逃げる選択が頭を過った。しかし名前には赤井がいた。
 赤井がいたのだ、昨夜までは。
「っ、ふっ...ううっ」
 漏れ出る嗚咽を喉の奥に押し込み、名前は井戸端に膝を着いた。
 赤井にも捨てられ、頼る者を失った名前に残るのは死への道と、綺麗なまま先が紡がれることの無くなった降谷への恋慕のみ。
「降谷、はんっ...!」
 覗き込んだ暗い水面が揺れている。果てしない闇へ引きずり込まれるという恐怖は全く無かった。地面から足を離そうとした時、幻聴が聞こえ名前は動きを止める。
「名前!名前!」
 焦りを滲ませた大きな声と共に腕が引かれた。呆然として見つめた顔は確かに降谷零で名前はぽろぽろと涙を零した。
「降谷はんっ、降谷はん...!」
「会いたかった。やっと、やっと会えた...!」
 痛いくらいに抱き締められ、名前も降谷の背に腕を回す。しかしその背は薄く頼りない。見上げた頬もこけていて、陽光に煌めくと一等美しかった髪も輝きを失っていた。
 何があったのか。そう聞こうとするも、近くの長屋の戸が開いたことで名前は口を噤んだ。立ち上がると降谷の腕を引き人気の無いところへ向かう。
「ま、待ってくれ...」
 降谷のか細い声に名前ははっとした。それほどの速度があったわけでも、距離を歩いたわけでもない。肩で苦しそうに息をする降谷の異変に名前は背筋がひやりとし、降谷は不安気に揺れる名前の瞳に映る自分の情けない顔に泣きたくなった。
「......もう俺は長くない...」
 絞り出した声に絡み付いて咳が零れる。
「降谷はん!」
 止まらない咳に口元を押さえた指の隙間から朱が流れると、名前は堪らず降谷を抱き締めた。二人のボロボロの心に互いの温もりが染み渡る。今までの苦しみの全てを忘れられそうなほどの心地良さと幸福感にうっとりと瞳を瞑った。
 ゆっくりとした足取りで辿り着いたのは町外れの廃れた神社だった。たった三段だけの石段は苔蒸し、その上では鳥居の貫の端が折れどうにかぶら下がっている。
 あんなに逞しかったのが嘘のように頼りない降谷の体躯を支え、二人は並んで石段に腰掛けた。くすんだ髪を肩に抱き寄せ、降谷が生きている重さを名前は噛み締める。
「もう大丈夫だ。俺にはあまり近付かない方がいい...」
 離れようとする降谷の身体に名前は腕を伸ばす。薄い胸に顔を埋めると、着物から汗と土の臭いがした。
「もう離れたくない」
「名前...。俺にはお前を幸せにするだけの地位も金も時間も無い。分かるだろ...?最期にお前の無事な姿を見て、武士として死ねるうちに死のうと思ったんだ」
「いや、一緒にいて。一緒にいられないなら、わたしも連れていって...」
 名前の言葉に降谷は大きな瞳を見開く。澄み渡る青空が揺れ、吸い込まれるような心地で名前はかさついた唇に食らいついた。鉄の味がする口付けを繰り返す名前の頬を美しい雫が滑っていく。
「しかしお前は...」
 名前が纏った高価な着物に新政府側、それも金銭に余裕のある男と一緒になったであろうことが降谷にはすぐ分かった。そして脳裏にちらつく男の名を口にした。
「赤井」
「!」
「やはり、な。しかしそれなら、お前を残して死ぬことに何の心配もない。俺のことは忘れて、お前の新しい人生を生きるんだ」
 名前は首を振り涙を散らせた。きらきらと光の粒に彩られる名前は少女の殻を破り一人の女になっていた。殻を破ったのは自分のはずなのに、女へと押し上げたのがあの男であることは間違いない。降谷の中に嫉妬の炎が燃え上がる。久方ぶりに抱く名前への愛以外の感情に、やはり名前が傍にいなければ自分は駄目なのだと思い知る。しかし健康な身体で不自由無い生活を送ることの出来る名前を道連れにするわけにはいかない。
 降谷は背中に回された名前の腕を解くと、無垢なままの瞳をじっと見つめた。
「お前は生きろ」
 降谷の強く切ない願いに名前は息を呑む。胸に縋り付くと、嗚咽混じりの声で赤井に言えなかった話を始めた。
「屋敷の周辺で噂を...。京にいた頃、会津藩士と繋がっていた。今も情報を流してるに違いないって」
「...そんなの赤井に言えばすぐ解決するだろう。奴ほど優れていればそれなりの地位についているんじゃないのか」
「だからこそ、言えなかった。わたしのことで余計な手間を掛けさせたくなかった」
「今からでも、」
 遅くない。そう告げようとして降谷は言葉を止める。濁った名前の瞳が内包する闇が地獄へと誘っているかのようだった。
「もう赤井さんはわたしを愛してなんかくれません...。わたしも降谷さんだけに愛されたい。共に生きられないのであれば、共に死にたい。京の街から共に行くことは出来なかったから、今度こそ、共に...」
「...名前...」
 果てのない究極の愛と覚悟を受け取り、降谷はしっかりと頷いた。
 死を迎えるこの先に希望も何も無い。しかし悲しみや悔しさなど負の感情も一切無い。例え血肉が朽ち果て無くなろうとも、二人だけの永遠が確かにある。その確信が二人にはあった。

 罰当たりにも神域たる神社の端で起こした火に不要な着物や草履を焚べながら、降谷は名前の柔らかな身体を後ろから抱いていた。装束の代わりとして薄い夜着しか纏っていない身体は、隔たりなど無いかのようにぴたりと重なり春夜の寒さとは裏腹に温かい。
 あの後、名前は一度屋敷へと戻り赤井に手紙を書いた。そして女中に出てくるとだけ告げ、夕刻前再びここへ戻った。その時の降谷の顔が頭から離れない。ほっとしたような、残念がるような、そんな表情に名前は小さく笑った。
「わたしの居場所は降谷さんのお傍です」
 降谷は共に死に逝く決意を曲げず戻って来た名前に安堵、歓喜し、足掻けば拓けるかもしれない名前の未来を奪う罪悪感とに心を乱した。
 頬を擦り合わせ、時折口付けながら二人は離れてからのことを話した。
 降谷は鳥羽伏見の戦で疑いようの無い身体の異変に気付いたこと、それを押し北上、会津戦争敗戦直前に大量喀血し死を覚悟したこと、牢に入れられたり、釈放後外国人の用心棒をしたりしたこと、すぐ背後まで忍び寄った死の気配にどうしても名前に一目会いたくて京へ向かい、そこからどうにか探し当てたことを。
 名前は戦に巻き込まれ父が死に、降谷もいない絶望から自死を選ぼうとしていた時に赤井に助けられ夫婦となり江戸で暮らしていたことを。
 名前は口数が少ないながらも温かな愛情を傾けてくれる赤井を想う。
 新緑の生命を感じさせる力強くも優しい眼差しが好きだった。口を吸う度に癖のある髪が頬をくすぐるのが好きだった。無償の愛を一心に向けてくれる彼が大好きだった。
 自分を生かしてくれた彼に恩を返すどころか、昔の男を選び心中する最悪の裏切りを犯そうとしている。死体にどれほど汚い言葉を投げ掛けられ、形が分からなくなるまで蹴られ斬り刻まれても仕方の無い行為だ。
「......今なら、まだ間に合う」
 揺らめく炎に誘われるまま、名前の思考が深いところへ堕ちているのに気付き降谷は言った。
「まだ、間に合う」
 強い風が吹き木々を揺らした。煽られた炎が高く燃え上がり、ぱちぱちと爆ぜた火花が名前の剥き出しの足先を襲う。降谷がそこを撫でると、名前はその手に自分のものを重ねた。
「共に逝きましょう」


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