A’ 肆
 夕刻、赤井が屋敷へ戻ると玄関を飛び出してきた女中とぶつかった。
「いったい何だ」
 いつもならばとっくに帰っているはずの女中にただならぬ形相で見上げられ、赤井は眉間に皺を刻んだ。
「奥様が、奥様がお帰りにならないのです...!」
「...なに?」
 昨夜屋敷を飛び出た赤井は旧友のもとに身を寄せ酒を酌み交わした。段々と冷静になった頭で最低のことを言ったと後悔し、今夜謝ろうと今朝方はそのまま仕事へ向かった。明日の分までの職務を終わらせたため帰りが遅くなったが、明日は一日休めることになり、ゆっくりと話をしようと思っていたところにこれだ。
 苛立ちと焦りを胸の奥に押し込めつつ、赤井は名前の様子を尋ねた。
「今朝方、ご挨拶に向かいますと奥様はもう起きていらっしゃって...わたしを見た途端お可哀相なくらいに涙を流されました。落ち着いた頃、気分転換に歩きに行かれて、それから半刻ほどでお帰りになられました。随分晴れやかなお顔をされていて安心したのですが、夕刻前またふらりと出て行かれてそれっきり...。わたしがもっと様子を見ていれば...」
 涙ぐむ女中を置いて赤井は夫婦の寝室へと向かう。書斎への立ち入りを禁じているため、あるとすればそこしかない。押し開いた扉の向こう、文机の上にはやはり手紙があった。

"あなたと過ごした時間はとても優しく暖かで、わたしを癒してくれました。昔の男と共に逝くことをどうか恨んでください"

 赤井は机に拳を叩きつけると女中へ弟に知らせ荷車を用意させるよう指示し屋敷を飛び出した。
 あちこち走り回り赤井が二人を見つけた時、その傍では赤い焔が尽きた二つの命を貪る魔物であるかのように轟々と燃え盛っていた。
 降谷が背後から名前を抱え重なり合う身体を、降谷の愛刀が繋いでいた。心の臓を一突きにされた名前は少しの苦痛も感じた様子は無く、反対に降谷は口元を血に濡らし顔を顰めている。背中に突き出た剣尖から未だ垂れ落ちる血とは違う色に、赤井は降谷の身体を侵していた病魔を知った。
「馬鹿野郎...」
 遅れて駆け付けた弟の手を借り、赤井は荷車に二人の亡骸を乗せ屋敷へと戻った。泣き崩れる女中にもう遅いからと泊まる部屋を与え、赤井は月灯りの下で妻と友の遺体に漸く向き合う。
 地面に敷いた箕に寝かした二人の身体はぞっとするほど冷たいが、変わらず美しすぎる姿に死んでいるとは到底思えなかった。
 労咳を患い先の無い降谷が名前に接触し、どちらが言ったか二人は共に短い生涯を終えることを選んだ。一人の武士として腹を切るのではなく、契った男女として互いに心臓を捧げ死んだ。
 あまりにも美しい終焉に赤井は頭を抱える。
 昨日あんな態度をとらなければ、この事態は回避出来ていたのだろうか。戦と同じで散った命を嘆いたところで何も変わりはしないと理解している。それでもどうしてもやりきれなかった。
「名前...どうしてだ。お前を助けたのは俺なのに...何故...」
 冷たい夜風が赤井の頬に刺さる。
 どうしてだなんて理由は分かり切っていた。自分を生かした赤井を愛しはしても、唯一絶対の男は降谷以外にありえなかったのだ。
 名前の分からない感情が赤井の中で渦を成す。後悔、怒り、嫉妬。一つ一つはそんな暗い感情のはずなのに、混ざり合ったそれは酷く曖昧で、二人の尊い生命を犠牲に表現された愛に赤井はただ胸を熱くした。
 赤井に出来ることは二人を弔うことだけだ。寄り添い眠る二人の心がせめて安らかに幸せであるよう願った。



 離れた箱館の地で殺し合いが行われていても江戸の街に変わりはない。
 あまりの憔悴ぶりに休みを与えられた赤井も、四十九日を過ぎれば立ち直りを見せ暇を持て余していた。若かりし頃は暇さえあれば竹刀を振るったものだが、今は腕では無く頭脳がものを言う。しかし頭ばかり使っていても頭脳は衰える。
 赤井は女中の手伝いと称し、井戸へ水を汲みに行った。そして井戸端で繰り広げられていた会話に、己の中の鬼が怒り狂うのを感じ取った。
「赤井さんの奥方さん、めっきり見なくなったわね」
「家から出にくいんじゃないの。反政府勢力に加担してたんだから当たり前よ」
「むしろ何のお咎めも無いなんてどうかしてるわ。旦那に言って政府に罰でも与えてもらおうかしら」
「貴女たちそんな馬鹿げた話信じてたの?もし本当ならとっくに斬首されてるわよ」
「どういうこと?」
「それわたしが考えた嘘よ。旦那が鼻の下伸ばしてあの子を見てるからちょっと虐めてやったの。そしたらここら辺の女皆言いふらしてたわ」
 手にしていた桶を地面に叩き付けると、赤井は最後に話していた女の胸倉を掴んだ。
 殺してやる...!殺してやる!!!
 次々と溢れ出ては止まらない憎悪で腕に力が篭もり女は苦しげに呻く。周りの女達が悲鳴を上げ腰を抜かし、倒れた桶から飛び出した水の音で赤井ははっとした。ぼろぼろと熱い涙が頬を濡らし、怒りのままに荒い声を女達に浴びせた。
「妻は死んだ!心を病み、自ら命を絶って!お前達より若く、美しく、清廉で優しい女だった!人の痛みを知り、癒すことができた!だからお前達の亭主は醜いお前達ではなく妻を羨んだ!お前達に俺の妻は殺されたんだ!!!」
 鬼の形相の赤井に女達は恐怖に身体を震わせる。かちかちと歯がぶつかる音が耳障りで赤井は転がる桶を蹴り上げた。
「俺が怖いか?それでも妻が感じた死の恐怖よりは何倍もマシだろうなあ」
 冷たい視線の美しい顔が死刑宣告を鋭い声で告げた。
「ここで水を汲んでいるということは、屋敷はこの辺りだな。俺より権力を持つ者はいない」
 赤井の言葉に誰かの喉がヒュッと鳴った。
「箱館に残る旧幕府軍もそろそろ勝負を決めに来る。その歴史的瞬間の立会人として、この近辺の男達を徴兵しよう。勿論関係の無い奴らも巻き込まれるだろうなあ。馬鹿なでまかせのせいで亭主や息子が死ぬ気分はどうだ?一人残された絶望の中で餓死していく苦しみはどんなものだ?──そこまでしないとお前達のように馬鹿な女は、大切な者を奪われた俺の気持ちが分からないだろう?」
 転がった桶をそのままに赤井は屋敷へと踵を返す。僅かに緊張が緩み、件の女が負け犬のように吠えた。
「そ、そんな脅ししか言えないなんて、やっぱりあの小娘の旦那ね...!」
 歩みを止めると赤井はゆらりと振り返った。癖のある髪が揺れ、切れ長の瞳が女を射貫く。
「脅し?何温いことを言っている。俺にはそれだけの地位と権力がある。お前がタメ口を聞いていられるのも学が無いからだ。俺の名を聞けばお前の亭主は震えるだろうな。自分も家族も楽に死ねると思うなよ」
 翌日赤井はすぐに動いた。休みを与えていたはずの部下がいきなり顔を見せたことに驚く同郷の上官に、赤井は何の躊躇いもなく箱館への出兵を志願する者達がいると話した。復讐の炎を胸中に滾らせていると知りもしない上官は、妻の死から立ち直った赤井の帰還を喜び、その進言を受け入れた。
 後日赤井は自ら屋敷を訪ね、茫然とする夫婦に書状を掲げた。あの井戸端で高らかに嘘だと言い放った女の顔が絶望の一色に染まるのを見て、赤井は緩む口元を抑えることが出来なかった。
「此度、箱館への長期出兵を命ず」
 軍服に日本刀を提げた赤井の姿と、聞き間違いであって欲しい言葉に男は声を震わせる。
「赤井さん、何故。何故、わたしが...?」
「それは奥方に尋ねるといい」
 口を三日月形に歪める赤井は酷く美しい。人間であるとは思えないほどに繊細で鋭い美しさは妖の類に似ているかもしれない。人里に降り生活するそれは美貌で人を騙し誑かし自在に操るという。
「......お、に」
 絞り出された呻くような苦しげな女の声に赤井は一層笑みを深めた。
「あいつの無念を晴らす為なら鬼にだってなってやるさ。心を持たず、人を嬲り殺し喜ぶ悪鬼になあ」
 赤井の高笑いと女の悲鳴が屋敷に響く。異様なそれに近隣の屋敷が俄にざわついた。隣の屋敷、その隣、向かいの連なる長屋へと、悪鬼は渡り歩き、魂を差し出せと告げては笑った。

 戊辰戦争と呼ばれる京から蝦夷へと北上した戦いの全てが終わった時、赤井秀一という男は忽然と姿を眩ませた。そして彼とその妻が住んでいた屋敷周辺では不審死が相次いだ。家長が箱館の役で死んだことによる生活困窮のための餓死と判断されたが、妻とその子の死に顔は何か恐ろしいものを見たかのように大きく歪んでいた。



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