最愛1
 告白をされるのは初めてではなかった。でも付き合った人は今までいない。それなのに今、頷いてみようと思ったのは瞳の前の男子生徒が結構イケメンだからなのか、そろそろ女子高生っぽいことをしてみようと思ったからなのか、それとも幼馴染みへの当てつけなのか、名前には分からなかった。
 断られるとしか思っていなかった男子生徒は盛大に呆けた後で、スポーツマンらしい爽やかな笑みを浮かべた。放課後一緒に帰る約束をして別れ、それぞれの教室へと入る。隣の教室からは絶叫が聞こえておめでとうやら、よかったねやら祝いの言葉と拍手までしてクラスの人気者らしいことを知る。自分にも容赦なく視線が集まっていることに気付き名前は肩を竦めてみせた。
「付き合ってみることにした」
 大絶叫に耳を塞ぎつつ自分の席へと座ればくるりと背中が翻り、親友が訝しげに見つめてきた。
「どんな風の吹き回し?涼介さんは?」
「......自分でも何でOKしたのかよく分かんない。いい機会だからって思ったのかも。気付いたらいいよって言ってた。涼介くんはいつか諦めなきゃって分ってたことだしね。最近わたしのこと置いていって遊んでくれないし」
「でも告白してないじゃん。ほんとに諦めるの?」
 クラス中が聞き耳を立てていることに名前は気付かない。学校のマドンナと呼ばれ告白は相次ぐものの、それを受け入れたことはこの三年間一度もなかった。その名前に想い人がいた事も一大ニュースだが、それを諦めて初めての彼氏をつくったとなれば今日から数日学校は噂が広がるために騒がしく、彼氏となった男は顔を眺めに来る輩からの視線に堪える我慢の日が続くことになる。
 はあ、と様々な想いを含んだ息を零して親友は言った。
「後悔はしないようにね」
「......うん」
 後悔までとはいかなくても、やはり付き合わないほうがよかったのかな、と名前は考える。きっとこの先どれだけ時間をかけても男子生徒のことを好きになるビジョンが浮かばないからだ。飾りの彼氏、そうなることがわかっていた。
「それで、今日どうするの?」
「一緒に帰ることになった。駅前のクレープ食べに行こうってさ」
「ふ〜ん、まあ明日どうなったか教えてよ」
 チャイムがなり教科担任が入室した。親友の背中を眺めながら名前は無意識に溜息を吐いた。
 涼介くんに会いたい。

 昇降口へと降りればそこには既に彼が待っていた。名前は急いで靴を履き替え駆け寄る。
「待たせちゃってごめんね」
「全然大丈夫!行こう!」
 並んで歩く二人の姿を多くの生徒が見つめている。噂を聞き付けて駆け付けた男子は肩を落とし、女子は涙目で顔を覆っている。彼のことを好きでよく知る女が泣く中、わたしが付き合ってもいいのだろうか。彼がぎこちないながらも懸命に話す声が名前には届かない。しかし深い思考に溺れた名前を一つの声が呼ぶと意識は急浮上した。
「名前」
 聞き慣れた大好きな声。涼介は正門の真ん中でポケットに手を突っ込み名前を見下ろす。隣にいる男には目もくれず、帰るぞ、と名前の右腕を引いた。自分とは違う体温に一瞬どきりとしたが名前はその手を振り解こうとする。
「涼介くん、離して。今から帰るところなの」
「だから帰ろうと言ってるんだろ」
「...彼氏と帰るの」
 涼介は眉間に深い皺を寄せ、後ろに控えた彼を見た。長身の美男子が凄んだ姿に萎縮して彼は何も言えない。
「この固まっているのが彼氏か?大事な彼女が男に連れ去られようとしてるのに何も言わず、何もせず見送ろうとしているこの男が名前の彼氏?笑わせるな、お前は俺のものだ、名前」
 ぐっと強い力で腕を引かれよろめくと、腰を抱かれそのまま歩かされる。少し離れたところに停まった白い車を見て名前は暴れる。更に強く握り込まれた腕が痛む。血が止まっているのか手首から上が赤く染まり、力を入れることが出来ない。
「涼介くん、痛い!離して!」
 返事はない。返されるのは今まで見たこともない冷たい視線だけ。怒っているような、悲しんでいるような、そんな視線に戸惑っていれば車の助手席に押し込まれた。急に血が通った手を座面に強くついた事で鋭い痛みが走る。運転席に乗り込み、低いエンジン音が響くと車は発進した。
「涼介くん...!涼介くん!」
 呼び掛けても返事をしない涼介に名前は恐怖を覚え俯くと、くっきりと赤い手形が腕に刻まれていることに気付いた。丁度赤信号で車が停り、急いでドアの鍵に手を掛けるがロックが掛けられていてドアは開かない。
「っ、何で...」
 振り返って見た涼介の瞳は冷たかった。いつも優しく穏やかな涼介。クールではあるけれど怖いと感じたことは一度もない。三日程前に会った時だって優しく笑ってくれた。それなのに今は鋭い刃物と対峙しているような錯覚に陥り恐怖していた。ふいに伸びてきた涼介の手に名前の身体が大きく震えた。瞳を固く瞑った泣きそうな姿を見て怖がらせていることに気付いた腕は、宙を彷徨った後で躊躇いがちに痕の残る右腕に触れた。ゆっくりと痕を辿る指先の動きに名前はそっと瞳を開けた。涼介はあの日と同じ瞳をしていた。傷ついた者を心配し慈しむ瞳だ。
「名前...」
 手首を支え腕を持ち上げると、涼介は患部に口付けを落とす。逃げようとする腕を柔く握ると、先程指が這ったのと同じように唇で触れていく。擽ったさに身を捩った時、後ろからクラクションの音が聞こえて涼介は身体を離した。付けられていなかったシートベルトを名前につけてると涼介は再び車を走らせ、その後も会話が無いまま涼介の家に辿り着く。運転席を降りた涼介は助手席へとまわり名前の手を絡めとった。知らないうちに大きくなったそれに驚いている間に、通い慣れた、舘と称すに相応しい家の玄関に通される。
「先に俺の部屋で待っていてくれるか。氷を準備してくる」
 離れた手が頭を撫でて、涼介はキッチンへと消えていった。名前は階段を上がり涼介の部屋へ入るとベッドに腰掛ける。さっきまで逃げようとしていたことなどすっかり忘れ、言われた通りにしてしまっていることに名前は気付いていない。それよりも子供扱いされたことのほうが気になる。頭を撫でられるのは好きだけど妹だと、ただの幼馴染みだと言われているようで素直に喜ぶ事は出来なくなっていた。高校に上がる頃には頭を撫でてくれることも無くなっていたけれど。彼と歩いている時、強引に連れ去られて涼介が自分のことを一人の女として想ってくれているのではないかと少し期待した。しかしそれも馬鹿な年下女の思い上がりでしかない。今までだって幼馴染みだから優しくしてもらってただけなのに。途端に惨めな気持ちになって、それなら何で急に迎えに来て怒っているのか分からなくて、涙がぽろぽろと頬を伝ってはスカートに染みを作っていく。
 カチャリと軽いドアノブの音がして涼介が近付いてくるが、涙は止まらない。見られないようにと顔を俯けても涼介はすぐに気付いた。机の上に持ってきたタオルと氷の入った袋をを置くと名前の前で膝を折り、濡れた頬を両手で包み込むと視線を絡ませた。
「随分怖がらせてしまったようだな」
 いつもの穏やかな瞳に見つめられて安心感から涙はより流れていく。
「痛むか?ごめんな」
 涼介は困ったように笑いながら、いくつも零れる涙をシャツの袖に吸い込ませていく。
「名前、話したいことがあるんだ」
 名前の表情が硬直し、その後で首をふるふると振った。
「や、聞きたくない」
 何を言われるのか、それが拒絶であれば聞きたくない。妹だと、そう言われるのだって嫌だ。一人の女として見てほしい。そうでないなら明確な答えもいらない。はっきりとさせないまま段々と疎遠になっていく。それでいい。
「名前」
「ふっ、うう...っ」
 瞳を固く瞑り唇を噛み締めても、涙も嗚咽も止まらなかった。勘のいい涼介が妹のように思っている名前から好意を寄せられている事に気付かないわけがない。断られた後で、これからも妹として仲良くしよう、そう言われるのが分かりきっていた。でもそこまで言われて近くにいられる程、名前は強くないし愚かではなかった。
 涼介がは立ち上がり机の上から氷袋を包んだタオルを掴むと、名前の腕をとり残る痕に当てた。タオル越しにひんやりとした冷たさが伝わる。
「身体が冷えると良くない。少し持っていてくれ」
 名前の左手に氷を持たせると涼介はクローゼットからカーディガンを持ち出し名前の肩に掛けた。それから隣に腰を下ろすと氷を取り上げ当てる位置を変えた。
 氷を患部に当て、時折名前の涙を拭う動作を涼介は繰り返した。隣で静かに泣く名前は涼介が女にこれほど尽くしたことがないと知りもしない。それをもどかしく思いながらも急いてはいけないと涼介は逸る気持ちを押さえ付けた。
 名前が落ち着いた頃、腕の痕はいくらか薄まっていた。すっかり冷えた腕に熱を与えてやるように涼介はゆっくりと撫でてやる。掛けていたカーディガンに袖を通させると、赤くなった愛らしい瞳を見つめた。泣き疲れたのかぼんやりとし愁いているような艶のある表情に涼介は思わす見蕩れる。
「名前」
 見上げてくる瞳が再び涙の膜を張る潤む。
「名前、好きだ」
 限界を迎えた膜が弾けて零れ落ちた。
「......え...、な、んて...?」
「何度でも言ってやるさ。好きだ」
「...え、え?どうして?」
 困惑し思考のまとまらない様子の名前に涼介は笑みを零す。
「そうだなあ。名前が名前だから好きだ」
「何、言ってるの?本当に?」
「俺がお前に嘘をついたことがあったか?」
 言われて名前が記憶を遡ってみても、涼介が嘘をついたことは無かった。真実のみを語る真摯で誠実な人、それが涼介だ。
「な、い...」
 涼介の本当の気持ちなのだと受け入れてしまえば、涙はとめどなく溢れた。嗚咽に併せてひくつく身体を涼介は抱き締める。昔小さかった身体はこんなに大きくなったはずなのに、自分が大柄になったことでこんなにも小さく感じる。柔らかな髪に指を通し頭を撫でてやれば胸に顔を押し付けられ、シャツが濡れていくのが分かった。ゆっくりと背に腕が回され、涼介は腕の力を強める。
「ねえ...、緒美ちゃんは?」
 恐る恐る出された従妹の名に涼介は首を傾げた。
「緒美がどうかしたか?」
「どうかしたって...涼介くんは緒美ちゃんが好きなんだと思ってたから...」
「ほお...」
 それは興味深いと涼介は続きを促すように相槌した。ゆっくりと名前の顔が上げられて、それでも顔を見ることは出来ないのか涼介の胸の辺りに視線を彷徨わせる。
「二人も、啓介も凄く仲が良いし...よく緒美ちゃんのこと車で迎えに行くんでしょ?だからてっきり」
「...あいつのことは可愛いさ、従妹だからな」
 涼介の指先が頬を辿り顎を持ち上げる。
「でも俺が好きなのはお前だ。お前が俺の唯一の女だ」
 真っ直ぐに見つめられて名前は胸が苦しくなる。顔が熱くなって、耳、首、そして全身へとその熱が広がっていく。涼介の言葉が、それに乗せられた愛が、身を染め塗り潰していくようだ。
「お前はどうなんだ?俺のことが好きか?」
 頷く名前に涼介はダメだな、と首を振る。
「もっとちゃんと言ってくれないと、お前に嫌だ聞きたくないと愛を告げさせて貰えなかった痛みは消えない」
「あっ、それは...ごめんなさい。だってもう会わないって言われるかと思って、それで」
「俺に拒絶されると思って泣いていたのか?俺が怖がらせたからでは無いのか?」
「違うよ。確かに今日涼介くんを初めて怖いと思ったけど、でも泣いてたのは涼介くんが怖かったからじゃなくて......。最近夜は啓介と二人車でどっか行ってわたしのことは置いてくし、大好きな涼介くんに妹だってそう言われると思ったら辛くて...たくさん泣いてみっともないところ見せてごめんなさい」
 名前が下げた頭を上げた時、そこには赤くなった涼介の顔があった。
「え、涼介くん...?」
「あまり、見ないでくれないか」
 大好きという言葉の破壊力に涼介は悶え再び名前を腕の中に閉じ込めた。名前の耳に少し早い涼介の心音が聞こえてくる。
「名前、お前が泣く姿はみっともなくなんか無い。寧ろ愛らしく、綺麗だ。その涙の理由が俺のことを想ってだなんて嬉しいに決まっているだろう。お前の事が本当にずっと好きだったんだ。緒美に相談だってした」
「緒美ちゃんに?」
「ああ。お前達は同級生だからな、女子高生からして5つも年上なのはどうなのかとか、プレゼントには何が欲しいのかとか。頭を撫でるのはダメだと注意されたこともあった」
「え」
「緒美に言ったことがあるだろう?」
「うん...」
 いつだったか緒美に話したことがあった。昔は頭を撫でてもらえるのが仲良しの証みたいで嬉しかったこと。しかし大きくなってもそうされては妹のようにしか思われておらず子供扱いされているように感じてしまうと。それを緒美が伝えたから涼介が頭を撫でてくることは無くなったようだ。
「お前は嫌だったのかもしれないが、俺も正直きつかったよ。抱き締める訳にもいかないし、唯一お前と触れ合える機会は頭を撫でることだけだったのにそれも叶わなくなったからな」
 涼介がそんな風に思っているなんて露程にも思わなかった名前は困惑した。あの涼介が、と。
「夢、みたい。涼介くんが、わたしのこと好きだなんて」
「俺だってそうさ。お前は学校で相当モテてるらしいじゃないか」
「えっ、何で学校のこと知ってるの?」
 名前は涼介から身体を離し、すぐ近くにある綺麗な顔を見つめた。
「俺のチームにお前と同じ学校の奴がいて、お前の学校での様子を聞いてたんだ。お前が告白されてフったって話はすぐ学校中の噂になるらしいからな」
「そんなことしてたの?恥ずかしいからやめてよ...」
「これからはやめるさ。でも、そうしてたからこそ今日お前が初めて彼氏を作ろうとしてると知ることが出来た。どんな手を使ってでも阻止ししてやると大学が終わってからすぐ車を走らせたんだ」
 ふいに頭に手が置かれ、不安げに涼介の瞳が揺れた。
「頭を撫でても...いいか?」
「...うん、いいよ」
 許しを得た手はゆっくりと動く。
「お前の頭って丸いよな。丁度ヘッドライトくらいの大きさと丸さか?」
「......それ褒めてる?」
「褒めてるつもりだ」
「大きさはともかく丸さもそれってやばくない?完全に円じゃん」
 涼介独特の褒め言葉に頭は良いはずなのになあ、と名前は苦笑する。
 涼介の顔が下がり名前の耳にぴたりと唇が触れた。湿った吐息が吹き込まれてぞくりと背筋震える。
「名前、俺と付き合ってくれ。お前の初めての男になりたい」
 涼介に連れられ何も言わず置いてきた今日彼氏となったばかりの男子を思い出す。涼介は名前の頬を両手で包み、親指でくるくると円を描くように撫でながら続ける。
「あんな男のことは一人目にカウントさせない。お前が初めて好きになったのは俺だろう?俺だってそうだ。付き合うのも、手を繋ぐのも、抱き締めるのも、キスも、その先も全部俺が最初で最後だ。そうだろう?名前」
 浴びせられる言葉が夢のようで、でも現実で身に余る程の幸せを感じる。涼介がこんなにも愛を伝えてくれるのに自分は何も伝えられていない。名前は涼介の大きな手に触れ淡く笑んだ。
「涼介くんのことが好き。わたしを涼介くんの彼女にしてください」
 涼介は全身に悦びが駆け抜けていくのを感じ、それに促されるまま赤くふっくらとした小さな唇に噛み付いた。初めてのキスに逃げようとする名前の後頭部へと手を滑らせ、もう片方の手は安心させるように背中を撫でた。短い口付けを繰り返し名前の息が乱れると最後に唇を舐めて離れる。
「いいか、男にはこう言うんだ。やはり付き合えない、と。別れてくれと言ったら付き合ってたことになるからな」
「細かい...」
「大事なことだからな。初めての彼氏は俺だ」
 額に口付けを落とし、眉間、瞼、鼻筋と移動していく。初めてのキスをこう何度もされては堪らない。
「りょ、涼介くん、いいかげんに...恥ずかしいよ」
「ん?」
 赤くなった顔を覗き込むと涼介は唇へ深いキスを送る。
「お前が可愛くて堪らないんだ。堪えてくれ」
 恥ずかしさに堪えかねて名前は顔を涼介の胸へと押し付けた。恥ずかしがる姿も可愛いが、言ってしまえば逃げてしまいそうで涼介は小さな体を壊さぬよう、離れぬようにしっかりと抱き締めた。


BACK