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 その日の零は酷く落ち込んでいた。落ち込むは語弊で、絶望しているのほうが適切かもしれないほどに。
 零が通算五回目の盛大なミスとして、紙媒体の資料をコーヒーでびちゃびちゃにした時、赤井は問い掛けた。
「降谷くん、一体どうしたんだ。体調が悪いわけでは無さそうだが」
 黙り込んだままタオルで資料を拭く零は頑なで、いくら待っても返事は無い。
「話す気が無いなら帰れ。これ以上君が居ると迷惑だ。宿直が来るまで時間はあるが、今日も平和な世の中だろう」
「......家には帰りたくない」
 漸く口を開いたかと思えば反抗期の子供のような、男を殺す女の誘い文句のような言葉を吐かれ驚く。赤井は眉を顰めながら嘲るように言った。
「何故だ?いつもの君なら恋人がいる家に早く帰りたがるのに」
 ホログラム投影が主流となったものの、やはり花は香りや一つ一つの個体の違いを楽しめる実像でなければならない、と言うホテルや企業のエントランスや会場に赴き花をいけるのが名前の仕事だ。朝一でその仕事をし、午後までに翌日分の花の仕入れを行うため、午後は家でのんびりしている。
 今は午後二時前で帰宅すれば妹が迎えてくれると赤井は知っていた。
「......気付いていたのか」
「ああ、初めて名前に会った時に」
「それでお前はずっと知らないふりをして、馬鹿にしていたのか?」
 言葉こそ怒りを現しているようだが、零の表情にそんなものは微塵も無い。精悍な顔付きの要である空のように澄んだ青は、いつもと違いくすみ澱んでいる。あの降谷零がここまで絶望する理由に興味が湧いた。
「君に知ってしまったと話したところで、気持ちを改めるわけではないだろう。改められないんだから。馬鹿にだってしていない。ただ報われない関係に同情はしたよ」
「......そう、だよな。何も言わずにいてくれたことにむしろ感謝するべきだよな。悪い、当たって」
「...君が謝るとは相当まいっているらしい」
「揶揄うな。俺には死刑宣告と同じなんだよ」
「とても興味がある。君をそこまで絶望させる死刑宣告とやらに」
「聞くからには打開策を考えろよ」
「ああ、勿論だ」
 拭き終わった資料を一枚ずつ並べて乾かす。その間に話す分には職務怠慢とは咎められないだろう。咎めてくる存在もいないが。
 零は椅子の背もたれにだらりと身を預け口を開いた。
「来月、俺達は二十歳になる。親が前々から申請をしていたらしくて、恋人適性診断の結果が届くんだ」
 零が入庁してもう二年近くが経とうとしていた。現代の日本では18歳まで職業訓練校へ通い、卒業後は適正の出た仕事に就く。成人年齢は18歳であるが、就業直後は様々なストレスが懸念されることから結婚年齢は20歳に引き上げられ、恋人適性診断も20歳を迎えてからしか受けることは出来ない。ただ結果の通知は20歳を迎える日と同時になるが、それ以前に診断依頼の申請をすることは出来た。恋人適性診断は性格思考や趣味、家族構成など今までの境遇をもとに、最適の恋人を人工知能が導き出す。結婚後の離婚率はゼロを誇り、間違った結婚や妊娠、そこから引き起こされるストレス過多や犯罪を防ぐために政府が導入した支援システムだ。人工知能が導き出した正解ではあるが、相性がいいことから恋愛へ発展するのは早く、離婚という失敗がないため、今では国民の九割以上がこのシステムで結婚相手を選んでいる。離婚率と同じくして、結婚しないなんてこともゼロだ。つまりそれに逆らおうという、外れた思考を持つ人間を周囲は許さない。
「逃げ道が無いな」
 赤井の重い言葉は零の頭を容赦無く痛め付ける。
 現代は人工知能が支配すると言っても過言ではない世界だ。その恩恵を受けいれることで、人々が平和な暮らしを手にしていることは間違いない。人工知能の言いなりになってしまえば、息の詰まるような幸せがある。しかし、恋人適性診断を受けたあと、交際していた相手とすっぱり別れる男女と同じに零はなれない。
「だが可能性はあるんじゃないか」
 赤井の思わぬ言葉に零は顔を顰めた。
「慰めはいらないぞ。余計惨めになる」
「降谷くん。君は恋人適性診断の話を避け、調べたことも無いだろう。そんな君に一言だけ言っておくよ。二人の愛が本物なら、きっと大丈夫だ」
「......意味が分からない」
「とにかく愛を深めろということだ。ほら、さっさと帰ってくれ」
 鞄を押し付けられ零は椅子から立ち上がる。
「...悪い」
「気にするな。来週飲みにでも行こう」
「ああ...」
 零の背中を見送り、赤井は少し乾いてきたコーヒーのシミを撫でる。
 恋人適性診断は絶対だ。互いに溺れ愛し合う男女でさえも、適性が出なければ一瞬で愛を冷まし顔も名前も知らなかった相性抜群の相手と結婚する。それが現代では普通なのに、あの二人ならそうはならないと赤井は確信していた。

 予定よりもだいぶ早く帰ってきた零を名前は驚きながら迎え入れた。零はリビングのソファへ座るなり、名前を膝の上に乗せ後ろから抱き締める。
「零?」
 何も言わないが零の心の内が名前には分かった。双子だから互いが考えていることが分かるというのもあるが、名前も全く同じ気持ちだったからだ。
 恋人適性診断の結果による別れへの恐怖、悲しみ、絶望。離れたくない気持ちばかりが大きく膨らんで、心は今にも張り裂けそうなくらいに痛い。
「離れたくない」
 言葉と共にぽとりと涙が落ちた。零は腕が濡れた感覚に名前の身体を返し、正面から顔を覗き込む。静かに涙する目の前の女が愛しくて堪らない。際限なく溢れる愛とは裏腹にその時は刻々と迫ってきている。それから目を背け、逃れるように名前を求めた。
唇を離すと覗いた零の頬が濡れていて、名前は細い指でそれを掬う。
「零、泣いてるの」
「...俺は泣いてない。お前の涙がついたんだ」
「零、泣かないで。わたしあなたに泣かれると、凄く悲しくて辛いの」
「そんなの俺だって一緒だ」
 二人は零れる涙を拭うこともせず唇を重ねる。愛を確かめるような熱いものではなく、互いという存在を焼き付ける切ない口付け。
 零が名前の服の襟を引き現れた鎖骨に痕を残すと、名前も降谷の同じ場所にそうする。幾度と所有の証を残してきたが、それは慰めにすぎなかったのだ。手に入るはずがない幸せだと分かっていても、願わずにはいられなかった。
 一分一秒でも近くにいたくて、入職した零は出勤が楽だから都心に家を借り名前と住むと父に伝えた。しかし父は双子が継がなかった何者をも見下す高圧的な眼光で零を射抜いた。
「いいだろう。どうせ結婚は出来ないんだ。診断の結果が出るまでは遊ばせてやる。ただ妊娠はさせるなよ」
 気付かれていた驚きよりも、遊びと言われた怒りの方が何倍も大きかった。零は震える拳を握り、どうにか言葉を吐き出す。
「あなたの許しなんかいらない。あなたが無理矢理手篭めにした母さんと違って、俺と名前は自分たちの意志で愛し合っているんだから」
 屈強な見た目に反して、天国へ逃げた母の写真をいつまでも飾る父の女々しいところが零は嫌いだ。診断が主流になりつつある中、適正も愛もある男がいた母に一目惚れした父は、横から奪い取り孕ませた。精神崩壊した母は双子を産んだあとすぐに自殺。己と同じ失敗をさせないように、と父は診断で結婚相手を選ばせようとしているが、そんなのはただの押し付けにすぎない。
 その日の零は荒れている理由を話さないくせに、翌日日勤の赤井を明け方まであのバーで拘束し続けた。
 二人だけの家のリビングで果ての無い愛を重ねる。それだけで二人は幸せで、互いがいさえすれば他に望むものは何も無かった。
「名前、心の底から愛している。何があっても俺はお前から離れられない。覚悟していてくれ」
 この平穏な生活を捨て、魂だけになるとしても、俺との愛のために。


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