パンケーキ・ワルツ1
「空条承太郎だ」
「承太郎さんそれだけっすか?偉い人なんだから、いつも使い回してる自己紹介とかあるでしょ」
 名前だけ告げる男に仗助は呆れたように言うが、綺麗な翡翠に心を捉えられた名前には届かない。
「まあいいや。承太郎さん、こいつが言ってた幼馴染っすよ。ほら、名前」
「あ、えっと、苗字名前です」
 仗助に背中を叩かれ名前ははっとする。承太郎が短い自己紹介を注意されたことも知らないため、名前だけ告げると頭を下げた。
「名前、別に承太郎さん怒ってるわけじゃあないから気にしなくていいぜ。こういう人だからよ」
 威圧感でまともな自己紹介が出来なかったと判断した仗助は、名前の頭をぐちゃぐちゃに掻き回した。視界を行ったり来たりする髪の間から承太郎と瞳が合って、名前の心臓が跳ねる。視線を逸らし数度瞬いてから再び承太郎に視線をやると、綺麗な翡翠は静かなままでこちらを見ていた。
「あ!やべえっ!」
 唐突に仗助が声を上げ、あまりの声量に名前は思わず掌で耳を塞いだ。
「おふくろに買い物頼まれてたのすっかり忘れてた!承太郎さん、また!名前も明日な!」
 タイムセールの時間があ、と叫びながら遠ざかる仗助の背中を名前は茫然と見送る。暫くそのままで振り返ることが出来ないのは、背中に突き刺さる視線のためだ。年上の甥とだけ聞かされていて、こんなにも美丈夫とは聞かされていなかった。つまり別れの挨拶をするだけでいいのに、それをどうすればいいのか分からない。
 背中を向けているのに翡翠が脳裏に浮かび、視線が絡んでいる錯覚に頬が熱くなる。乱れた髪を直しながら考えを巡らせていると、足元に伸びた影が揺れ、承太郎が近付いてくることを名前に教えた。
「移動するぞ」
「えっ、あ、あのっ」
 承太郎は有無を言わさず、名前の腕を引き歩き始めた。体格のいい男にそうされては転ばないようについていくしかない。触れる掌から速い脈が気付かれないことだけを名前は祈った。
 辿り着いたカフェのテラス席に座ると、承太郎はメニューを名前の前に広げた。
「好きなのを頼め」
「く、空条さん...」
「暇してたんだ。付き合ってくれ」
「...はい」
 翡翠の瞳はまるで魔法でもかけたかのように、名前から言葉や思考を奪っていく。テーブルの上に置かれた武骨な指先までも色っぽく暴れる心臓を抑えられない。決まったか、と尋ねられ読み取れない文字をてきとうに指差す。承太郎が通り掛かったウェイターを呼び止めて注文したのはコーヒーとオレンジジュースで名前はほっと息を吐いた。
「名前」
「...ひゃい」
 声が裏返らないようにと、一呼吸置いたはずなのに結局噛んでしまい、真っ赤になった顔を手で覆う。正面から鼻で笑うのが聞こえて死にたくなった。
「名前」
「......はい」
「仗助とは長いのか?」
「...まあ...10年にはなりますね」
「...」
 名前が顔を上げると、そこには驚いた表情の承太郎がいて首を傾げる。承太郎は小さく息を吐くと帽子に手を添え俯いた。
 それから二人に会話は無く、名前がオレンジジュースを飲み終わると承太郎はウェイターに金を挟んだ伝票を渡す。立ち上がり名前の手を引くと釣り銭も貰わずに歩き出した。
「空条さん?」
「...承太郎でいい」
「え、いや、でも...」
「嫌なのか?」
 立ち止まった承太郎に見下ろされ、名前は顔が熱くなる。翡翠が揺れ、名前は言われるがままその名を呼んだ。
「...承太郎さん...」
「なんだ」
 名前は首を振ると俯いた。止まったタクシーに名前を押し込むと、承太郎も隣に腰掛ける。
「家はどこだ?」
「...×××です...」
「かしこまりました」
 承太郎から視線を受けて、運転手は相槌をうつと滑らかに車を発進させた。タクシーに乗り込んだ時離れた手は再び承太郎によって重ねられている。大きくて固くて暖かなのは仗助とそっくりなのに、何かが全然違う。心臓がずっと煩いままで名前#は息苦しくなってきた。
 たった数分のはずなのに、何十分もタクシーに乗っていた気がする。緊張に疲れた名前は家の前に着くと、すぐドアに身体を向けようとした。しかしそれは絡んだ手が許さない。承太郎は手を引くと名前の頬に口付ける。ぽかんと固まる名前に淡く笑むと、反対の頬にも同じようにした。
「また会いに来る」
 名残惜しげにゆっくりと手が離れ、名前は弾かれたようにタクシーを飛び降りた。礼も告げず、見送りもせず、名前は家へ入ると自室へ駆け込む。ばくばくと煩い心臓と熱い頬のどちらを抑えるべきか分からず、ベッドに潜り頭から布団を被り強く瞳を瞑った。
 いくら時間が経とうとも、焼き付いた精悍な顔と宝石のように美しい瞳は名前の胸を締め付け続けた。


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