パンケーキ・ワルツ4
 部屋が薄ぼんやりと明るくなった頃、名前は瞳を覚ました。瞬きを繰り返していると頭上のサイドチェストに備え付けのアラームが鳴り、固まった腕を伸ばして煩い音を断ち切った。
 背後から腹に回された逞しい腕を撫でる。緩む頬を抑えられないでいると、くっ、と腕を引かれてより身体は密着した。おはよう、と耳元で掠れた声がして、名前は寝返りを打つ。そこには凛々しい瞳は無く、その代わり緩んだと表現するのが正しい、優しい瞳があった。
「おはようございます、承太郎さん」
「ふっ」
「え、何で今笑ったんですか?ヨダレですか?それとも顔が変!?」
 見ないで、と嘆く名前の頭を引き寄せると、承太郎は頬擦りする。体験したことの無いゆるゆるとした朝に舞い上がっているのを隠しもせず、甘えるような仕草を、しかも歳下にしてしまったことを気恥ずかしく思った。
「暫く、このまま」
「...はい」
 少し上へとずれた承太郎の胸に抱かれ、今度は名前が甘えるように顔を埋める。フロントから服を届けてもいいかと連絡が来るまで二人はベッドの上で抱き締め合った。
 身嗜みを整えると二人は朝食を摂りにエントランス横のレストランへ向かう。昨夜軽食を用意させた際、一人追加で泊まることを伝えていたため、朝食もきっちりと用意されていた。至れり尽くせりで、と申し訳なさそうに謝る名前に承太郎は自分の方こそ、と苦い気持ちになる。
 片付いたら伝える、と気持ちがあることを匂わせはしたものの、結局直接的な言葉も伝えられていないのだから、名前が遊びだと受け取ってしまうのは当たり前のことだろう。
 朝食を終えると一度部屋へ戻り歯磨きを済ませ、名前は鞄を手にした。
「それじゃあ、承太郎さん、わたし学校行きますね。お世話になりました」
「ああ。下まで送る」
 申し訳ないです、そういうだろうと承太郎は思っていたが、それに反して名前は嬉しそうに笑った。ありがとうございます、と。こんなやり取りを何度もしているうちに、名前は素直に受け入れた方が承太郎は喜ぶのかもしれないと考えたのだが、それは正解だったようだ。
 承太郎は僅かに瞳を細めると頬に口付ける。名前の手から鞄を奪い、もう片方の手で名前の手を繋ぐと部屋を出た。
 ホテルの外に出ると名前は振り返る。
「見送りまでありがとうございました。いってきます」
「...気を付けるんだぞ」
 いってらっしゃいの言葉を紡ぐことが出来ず、承太郎が離れようとする手を引いて触れるだけのキスをすると、名前の顔は真っ赤になった。
「もう...外ですよ...」
「誰も見ちゃいない。ほら、遅刻するぞ」
「あっ、ほんとだ!いってきます!」
 最後に幼いはにかみを見せ手を振ると、小さな背中が向けられる。それが見えなくなるまで承太郎はそこに突っ立っていた。

 放課後昇降口を出たところで名前は仗助に声を掛けられた。最近連んでいる億泰や康一はいないようで、二人で帰るのは随分久しぶりだと名前は快く誘いに乗った。
「朝家には帰ったのか?」
「ううん、直接ホテルから来たよ。なんで?」
「お袋さん、すげえ心配してたからよお。たぶん帰ったらしこたま説教だぜ」
「脅さないでよ。昨日連絡はしたから、そんなに怒られないと信じたい」
「飯食った後に様子見に行ってやるよ」
「今日お母さん仕事休みだから、帰った瞬間怒られる。ご飯の時間まで怒られてたら、三時間くらい怒られてるじゃん」
「正座崩して十回は足叩かれるな」
 名前は頬を膨らませ笑う仗助の腕を叩き始めた。軽いため痛くはないが後から、腕が疲れた、仗助のせいだ、と文句を言われるのが分かっているため仗助は話題を逸らす。
「それにしても、承太郎さんに気に入られたみたいだな」
「あー、うん、優しくしてくれてるよね」
「本人には言えねえけど、あの人がパンケーキって笑っちまうよなあ。流石の承太郎さんも、可愛い盛りの娘さんと会えないのは辛いのかもな」
 すっ、と身体が冷えるのを名前は感じた。聞き間違いであって欲しくて、どうにか声を絞り出す。
「......ねえ、今何て言った?」
「ん?えっと、承太郎さんがパンケーキって笑っちゃう。娘さんと会えないのは辛いのかも、だったか?」
 仗助とは幼馴染みで姉弟同然に育った。わたしが姉であることは間違いない。だからよく知っている。悪知恵を働かすことはあるけど、基本的にデキはあまり良くないから、不必要な嘘を吐くことも、ましてやそれをわたしにすることもまずありえないと。
 じゃあ、今のは、本当なんだ。やっぱり遊ばれた?でも言動からそんな風には感じられなかった。わたしがまた会ってくれるのかと言った時、彼はこれからも会うと言ってくれた。問題を片付けたら伝えると言ってくれたのは、そういうことだったんじゃないの?違うの?嘘なの?
「...承太郎さんって結婚してるの?」
「してるぜ〜。アメリカ人らしい。娘さんは確か今年で...6歳?」
 冷や水を浴びせられたような、頭を鈍器で殴られたような、雷で打たれたような。とにかく激しい衝撃が走って、頭がぐらぐらと揺れた。心配して声を掛けてくる仗助の声も、水中にいるかのようにくぐもって反響していて気持ち悪い。
 名前。
 名前を呼ばれた気がしてはっとする。今一番聞きたくない声が後ろからした。幸い仗助には聞こえていなかったようだ。
「用事思い出した」
「は、あ、おい!」
仗 助の何なんだよ〜、なんて声を背に走り出す。何度もせり上がってくる胃の中身を押し込めて。
 結局家に着く頃、脚はがくがくで吐き気も頭痛も酷くて、駆け込んだトイレで中身を全部ぶちまけた。
 暫く廊下に転がって気分を落ち着かせると、シャワーを浴びた。鏡に映った身体にはいくつも痕が残っている。
 これは何だろう。遊びの相手にこんなものつける?それとも遊びだからこそ、嘲笑うようにつけた?何にせよ腹が立つ。穢らわしい。見たくない。
 飛んだ意識が痛みで引き戻された時、首や胸元からは爪で掻き毟った傷から血が流れていて、涙が溢れて止まらなくなった。
 苗字名前は父親を覚えていない。三歳までは共に暮らしていたようだが、父の不倫が原因で母と離婚し家を出た。だから名前は不倫や浮気など、人を裏切る行為を忌み嫌い、殺人よりも犯してはならない罪だと思うようになった。
 出逢って二日しか経っていなかったけれど、空条承太郎という男を確かに愛した。子供なりに愛し、差し出せる愛のカタチとして身体だって捧げた。
 それがどうだ。知らなかったとはいえ、結果は妻帯者との不倫。何よりも赦せない行為を自らが犯してしまった。己への憎悪で頭がおかしくなりそうだ。
 真っ暗闇の中、あのネグリジェを着た名前が二人いる。光を宿さない虚ろな瞳の名前の首を、爛々と憎しみの炎を瞳で燃やす名前が馬乗りになり体重をかけて圧迫していた。
 汚い嘔吐きで目が覚める。いつの間にか横になったベッドの上で名前は己の首を締めていた。ぼろぼろと大粒の涙が零れて、拭うと手に付着した血を洗い流していく。
 これは罰だ。軽率に父の温もりを求めた罰なのだ。だから同じように娘を求めた彼と惹かれ合った。恋でも愛でも何でもない、ただの傷の舐め合い、隙間の埋め合い、恥ずべき行為。当たり前だ。父と娘がセックスするなんておかしいのだから。
 玄関のチャイムが鳴る。誰だろうか。母はチャイムなど鳴らさない。そういえば仕事が休みのはずなのにいない。どこか出掛けたのだろうか。リビングに置き手紙があるのかもしれない。
 フェイスタオルで首を隠して、階段を降りる。よくさっきの状態でこの階段が登れたものだ。何だがずっと喋り倒してるな。疲れてるんだろう。どうせこの傷じゃ明日学校には行けないし、母への上手い誤魔化し方を考えながら昼寝しよう。
「は〜い」
「名前、俺だ」
 ぴしり。磨りガラスにヒビが入ったような軽い音が頭の中で聞こえた。ドアに手を伸ばしたままで固まる。どうしていいか分からない。
「開けてくれ」
「名前」
「顔を見せてくれ」
 何だこの怖い話のような状況は。事故死した彼が深夜訪ねてきて、扉を開けてくれと言う。開けてしまえばあの世へ連れて行かれると分かっているのに、愛した彼にもう一度会いたくて女は扉を開ける。するとベッドの上で目が覚めて、何と死にかけていたのは自分の方だった。感動的な怖い話だが、今己の身に起きている怖い話に感動的なことなど存在しない。醜穢、その一言に尽きる。
「名前、俺はそんなに気が長いほうじゃあない。開けないとこの扉をぶち壊すぞ」
 何を言ってるんだ、この男は。DV男か。身の危険を感じ靴棚の横に隠れると、ダンっ、とすぐにドアを叩き付ける音がしたが、ドアが破壊されることは無かった。ほっと息を吐いた時、青い何かが目の前を通り過ぎて行くのを見て、叫びそうな口を手で押さえる。
 あれがスタンドというものだとわたしは知っている。今自分の身を覆い、承太郎のスタンドから見えなくしているのもスタンドだと。
 仗助と億泰と康一の三人がこそこそ話しているのを聞いたことがある。そうして三人がスタンド使いで、わたしは矢にスタンド能力を授けられたことを知った。スタンド使いだと伝えていないのは、三人が必死に隠すから。だからわたしも隠そうと思った。ただそれだけ。
 わたしのスタンドはマジックミラー。これは名前だ。どんなものかと聞かれてもマジックミラーと答える。つまりそのままなのだ。だからあのスタンドにはわたしの姿が見えていない。
 スタンドは一階を探し終えると二階へ向かった。浮いて移動するなんて、まさしく幽霊のようだ。名前を見つける事が出来ず、スタンドは入った時と同じように玄関のドアをすり抜け消えて行った。
「どういうことだ?全ての鍵は閉まっているのに姿が無い。さっきの声は気のせいだったのか?」
 かつかつと革靴の音が離れていく。浅くしていた呼吸を深いものへと変え、スタンドを解こうとしてやめた。やはりもう一度姿を見せたスタンドは、じっと廊下の奥を見つめ、すぐに出て行く。今度こそスタンドを解除し、名前は抱えた膝に顔を填め深呼吸を繰り返した。


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