パンケーキ・ワルツ5
 次に会う約束をしていなかった。仗助にも俺の家庭事情を勝手に話さないよう伝えておかなければ。
 そう思い承太郎がホテルを出たのは、高校が終わるのに合わせた時間だった。大方の時間予想は的中し、同じ制服を着た生徒達が成している群れの中から目的の二人を探す。
 見慣れてきた特徴的な髪型の傍に、昨夜瞳に焼き付けた背中を見つけると承太郎は名前を呼んだ。しかし聞こえなかったのか、名前は仗助に何か伝えると走って行ってしまった。立ち止まっている仗助に近付くと、その表情はむくれている。
「どうした仗助。名前にフラれたか」
 そう言って、初めて会った日に仗助と付き合っているのか聞いて、十年と言われたことを思い出す。聞き方が悪かったとはいえ、歳頃の女が幼馴染みと知り合ってからの年数を答えるなどどうかしている。
 仗助はそれがですねえ、と溜息を吐く。
「久しぶりに一緒に帰ってたのに、用事思い出した〜っていきなり」
「それは残念だったな。明日の予定は知ってるか?」
「それって名前のっすか?どんだけ娘さん恋しいんすか、承太郎さん」
 たらり、と嫌な汗が背を伝う。確信めいたものを感じたが、嘘であって欲しいと確かめずにはいられなかった。
「仗助、てめぇ、それ名前に言ったんじゃあないだろうなあ?ああ?」
「さっきから二人して何なんすか?承太郎さんがパンケーキって笑っちゃう。娘さんと会えないのは辛い、のか、な...。あはは、一つ目は間違いっす、忘れてください、あはは」
「仗助」
「すんません!許してください!」
「俺のパンケーキはどうでもいい。名前の家を教えろ」
「え?」
「いいから早く教えやがれ!」
 てっきりオラオラされると思っていた仗助は拍子抜けする。しかし怒っているのとは違う、少し焦っているような承太郎の表情に問い掛けずにはいられなかった。
「いったいどうしたって言うんすか?」
「...名前に愛想尽かされたかもしれねえ」
「へ〜...、ん、ん?はあっ!?」
「煩えぞ」
「いや、ねえ、だって、ねえ!?どういうことっすか!?」
「そのままの意味だ。用事ってのも俺から逃げるための嘘だろう」
 苦虫を噛み潰したような表情の承太郎は、まるで承太郎ではないようだ。いつも扱き使われてばかり、げふん、お世話になっているから、お返しをしようと、仗助は話を聞かせてほしいと言う。しかし承太郎は一刻も早く名前のもとに行きたいからとそれを拒否する。
「とりあえず家に向かいましょう。その間に話終わらなかったらちょっと俺の家に寄ってください。それなら時間のロスは少ないっすから」
「...ああ」
「じゃあ、聞かせてください」
 仗助が歩き出すと承太郎もそれに続き、重い口をゆっくりと開いた。
 専門は違うが学者を父に持つ女は研究への理解があり、それが決め手で空条承太郎は女を妻として娶った。しかし娘が産まれてからは、家庭を顧みないで、と小言を漏らすようになった。娘が高熱を出していると先日電話が来た時も、ねちねちと文句を言われ途中で電話を切った。お前が仕事優先で良いと言ったんじゃあねえか、と怒鳴りつけない成長した自分を褒めることはしても、咎める気にはならない。そんな苛立ちを日々増幅させる中で、苗字名前に出逢った。
 日本人の中でも小さな身体は、自分が怒鳴れば崩れてしまうのではないかと思えるほどに華奢だった。それなのに、良く見ると硬く靭やかな筋肉がついているし、きゃーきゃー煩くするでもなく、怯えるでもないのが気に入った。しかし男に耐性は無いらしく、戸惑い、緊張し、赤くなる。それが堪らなく可愛く思えて、何をしていても片隅には残っていた苛立ちを忘れられ、清々しい気持ちになれた。別れたばかりなのにもう会いたくて、安っぽい恋愛小説みたいだと可笑しくなって好きだと気付いた。
 押しには弱いとばかり思っていたのに、肝心なところでは流されず、一緒にいたいと言ってくれて心が震え上がるほど嬉しかった。同時に彼女に甘え、妻子ある身であることも、愛の言葉も伝えられない自分に反吐が出そうなほどの嫌悪を感じた。だから一刻も早くこの街の問題を解決して、妻と話をつけ名前に全てを打ち明けようと思った。
 思っていたのに。
「ようするに...それ不倫ってやつっすよねえ?」
 承太郎がギロリと睨んでも仗助は鋭い瞳をしたままだった。それから息を吐くと、瞬きの間にすっかり普段通りに戻った瞳で首を振る。
「承太郎さん、もう無理っすよ。諦めるしかないですね」
 言いながら仗助は名前の家を通り過ぎ、自分の家へ向かった。驚くべき承太郎の胸中は聞き終えたものの、一番大事なのは名前の境遇について語ることだろう。
 東方家を前にして、確かにこの間通った道だったか、なんて考えながら、時間のロスを嫌がっていた承太郎は案外大人しく家の中に入った。飲み物も出さず仗助がリビングのソファに座ると、承太郎は壁に背を預け立つ。腕を組み瞳を閉じた顔を鬱向けていることから、このまま話せということだろう。オブラートに包むかどうか考えて、恋愛は直球勝負しかない、と仗助は優しい変化球ではなくど真ん中に豪速球を投げ込んだ。
「名前は不倫とか浮気とかする男が大っ嫌いなんすよ」
 空振りでも見逃しでもなく、頭にデッドボールを受けたのに平静を装う承太郎を仗助は哀れに思った。
「俺も詳しくは知らないんすけど...、名前の父親は不倫した女と結婚するために、名前の母親と離婚したらしいんすよ。名前はその時三歳で、父親の記憶なんてものは俺と一緒で全く無い。でも俺とは違って、あいつは父親を恨んでる。一度誓った愛を覆し、母親と自分を裏切った父親を殺したいほど憎んでる。その父親を誑かしたホステスの女も。だから承太郎さん、名前が妻子を裏切ったあんたの手を取ることなんてないんすよ。奥さんには母親と、娘さんには自分と同じ思いをさせたくないし、何より家族をバラバラにする悪女に名前はなりたくない」
 仗助が紡ぐ言葉の一つ一つが、承太郎の心に深々と突き刺さりそこを抉る。心は心臓にあると言うが、これだけ抉られたら欠片も残らないから、きっと心臓ではないどこかにあるんだろうとぼんやり考えた。
 来た道を引き返して三軒目ですよ。
 掲げられた表札は真ん中で別れていて、左上には苗字が書かれている。右側に家族分の名前が並ぶのだろうが、そこは隙間が圧倒的に多かった。
 チャイムを鳴らし暫くすると、名前の返事が聞こえた。
「名前、俺だ」
 とっくに辿り着いているはずなのに、ドアは沈黙を守っている。いくら呼び掛けても返ってくる言葉は無い。
「名前、俺はそんなに気が長いほうじゃあない。開けないとこの扉をぶち壊すぞ」
 脅すのは不本意だが、手をこまねいて待つはよりは良いと発言したが応答は無い。本当にドアを壊すなんて無茶は高校生までだ。ドアを叩くとみしり、と拳に痛みが伝わってくる。スタープラチナにドアを通り抜けさせ、家内に名前の姿を探すが名前は見つからない。
「どういうことだ?全ての鍵は閉まっているのに姿が無い。さっきの声は気のせいだったのか?」
 確かに聞こえた。あれは名前の声だった。じゃあ、何故いない。
 仗助なら出るかもしれねえ、と薄い望みを抱き承太郎は東方家へ引き返す。もう一度スタープラチナで玄関を覗かせるが、やはり名前はいなかった。
「おい、仗助」
「...道にでも迷ったのかと思うくらい早い退散っすね」
「いいから答えろ、仗助。あの家は抜け道でもあんのか?」
「承太郎さん、いつの時代生きてんすか」
「名前の声が確かにしたのに、もぬけの殻だった。家の鍵は全部閉まったままだ。玄関には俺がいた」
「スタンド使いの仕業じゃないかって、そう言いたいんすか?」
「可能性が無いわけじゃない」
「!」
 仗助は堪らず家を飛び出す。祖父の最期を思い出して背筋が粟立った。
「名前!名前!」
 ドアも一階の叩ける窓を全て叩いても返事は無い。仗助はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。
「名前、名前!名前!」
「...仗助煩いんだけど...」
「名前...っ!」
「ぐえっっ」
 巨体に思いきり抱き締められて、名前から潰れた声が出る。仗助は名前を呼んでは、良かった、という言葉を震える声で何度も繰り返した。ぎゅむぎゅむとされているうちに、首のタオルが外れ学ランが擦れた痛みで名前は悲鳴を上げた。
「いっ...!」
「あ、悪、い...っ!?何だよそれ!?」
「えっと、」
 仗助にも上手い言い訳が必要だったか、 と思案するが急に思いつくはずもない。そうこうしているうちに、近付いてくる白いシルエットに気付いて名前は敷地外へ走り出す。
「待て!名前!」
 仗助の大きな声に承太郎も名前を視認する。しかしその姿は段々と見えなくなっている気がして時間を止めた。
「...これは...?」
 名前の背中と右脚の一部が見えない。正面へと周り込めば胸から上が全く見えない。見えない部分に触ると、身体から30cmほど離れたところに何かがあり、名前が見えないと言うよりは、景色を透過、同化し溶け込もうとしているようだった。
 家の中にいるはずなのに見つからなかったのは、今と同じように身体をスタンドで覆い隠れていたからだ。
 時が動き出す。
「スタンド使いはお前自身だったんだな、名前」
「なっ!?」
 マジックミラーの中からした声、もっと言うならば背後から腹部に回された腕に名前は驚愕する。承太郎はもっと遠いところにいたはずなのに、と。
「さっきはよくも無視してくれたな」
「あっ」
 そうだ。わたしはこの男に。
「離して!」
「離さない」
「なっ、離れろ!クズ!不倫男!」
「...結構刺さるな...」
「今ので何とも思ってなかったら人間やめたほうがいいですよ!」
「それは、まだ挽回の機会があるということか?」
「はあ?」
「妻とは別れる。ずっと家庭内別居だったんだ。俺はろくに家にも帰らないしな」
「知らない。わたしには関係ない」
 名前は暴れるが、承太郎の拘束から逃れられるはずもない。外から仗助の声がして名前はスタンドを解除した。
「仗助!助けて!」
「承太郎さん!離れてください!」
「...断る」
 誰もいなかったところに突然名前と承太郎が現れて仗助は驚いた。しかも承太郎に抱き着かれた名前は嫌がっていて、助けを求めてくる。
 あの反応は、あの傷は、もしかして。
 導き出した答えは、大切な家族が目の前の男に嫌な思いをさせられた、というものだ。ぷっつんして仗助は声を荒げた。
「承太郎さん、今すぐそいつから離れてください。そうしないと俺はあんたに何するか分からねえ」
「てめえ、さっきと随分態度が違うじゃあねえか」
「そりゃあ家族を傷つけられちゃあ、黙ってらんねえっすよ。不倫相手にするだけじゃあなく、まさか身体まで痛めつけるとは見損ないましたよ」
「...?」
 反論出来ない部分もあるが、些かおかしい部分もある。身体を痛めつけるとはどういうことなのか。肌を重ねた、そんなニュアンスの話では無さそうだ。
「仗助、何言ってやがる」
「しらばっくれてんじゃあねえ!あんたじゃねえってんなら、この傷は何なんだよ!」
 大股で近付いてきた仗助が承太郎から名前を奪う。大事そうに腕に抱えると、悲痛に顔を歪めながらシャツの襟を下に引っ張った。
 承太郎は名前の首から胸元にかけての惨状に瞳を見張る。首にはくっきりと手形が残っていて、胸元には自分がつけた痕と、まるでそれを塗り潰すかのように血を滲ませる、いくつもの引っかき傷があった。
「何だ、それは...。名前、どういうことだ」
 どんな立場であれば承太郎は鋭い視線を投げてくるのだろうか。名前は自分が責められている意味が理解出来ず可笑しくなった。
「...ふふっ、どういうことって、ねえ、こっちの台詞ですよ。どんなつもりで痕つけたんですか?おかげで自分の身体が穢らわしいもののように感じて...、気付いたらこれですよ。楽しかった、ですか?わたしを弄んで。最低ですよ、承太郎さん。奥さんにも、娘さん、にも、何も知らなかった...不倫相手、にとっても、最低のクズです」
 嗚咽で詰まらせながら名前はどうにか言葉を終えた。背を撫でてくれる、例え天地がひっくり返ったとしても信じられる幼馴染みの首へ腕を回し身体を寄せる。
 違う。そう言いたいのに喉が引き攣って承太郎は声が出ない。
 中途半端な気持ちで抱いてなどいない。言葉にこそしていないが、胸の内は名前への愛で溢れかえっている。せめてもと残した痕が裏目に出るなんて。無意識下で自傷行為に走る程名前を追い詰めてしまうなんて。
「名前」
 どうにか振り絞った声は存外はっきりと響いた。怯える小さな背中と、視線を鋭くする自分とよく似た翡翠。
 怖がらせたいんじゃない。どうすればいい。今すぐアメリカに帰って離婚して出直す?ダメだ、そんなことしても間に合わない。名前はのらりくらりと隠れ続けて、もうこの腕に抱くことは叶わなくなる。
「名前、俺はまだお前に言葉で伝えることが出来ない。だから行為で伝えたつもりだ。それでも俺を信じられないなら、お前を苦しめるだけなら諦める。だが最後にお前の気持ちを聞かせて欲しい。俺のことをどう思ってるんだ。俺と同じ気持ちじゃないのか」
 承太郎が名前に手を上げたわけじゃないと分かり、仗助は気持ちを落ち着かせることが出来た。そうしてあの承太郎の悲痛な声に驚き、ただのそっくりさんじゃないかと馬鹿なことを考える。それくらいに、らしくなく、信じ難い姿だった。声と同様に苦しいと、いつもは吊り上がった太い眉が下がっている。
 承太郎さんにはいつも助けられてるからなあ。
 仗助はやれやれだぜ、と聞き慣れた言葉を胸中で呟いた。
「名前。承太郎さんは信じられる人だぜ。それは俺が保証する。だから自分の気持ちに素直になれよ」
 いつもは弟だけど、たまには兄になるのも悪くない。仗助は優しい声で名前の背を叩いた。
 名前の心に不安と、あの一時の甘美な幸せとが、シャボン玉のようにいくつも浮かんでくる。仗助から身体を離し、僅かに振り返り承太郎の表情を窺う。
「...わたし、は...」
 承太郎の瞳が揺れた。普段の精悍な顔付きや猛々しさが今はなりを潜めている。
 たった三日の仲だ。それでもこんなに愛しいと想える。きっとこれからも想いは膨らみ続けるのに、隣に彼がいないなんて。そんなのは堪えられない。不安を打ち明けるから、それを受け止めて二人の愛へと昇華させて欲しい。
「...わたしは、奥さんと娘さんから、あなたを奪う女にはなりたくありません。だからあなたと関わるのはやめようと思いました。でも本当は、いつかあなたに捨てられてしまうんじゃないかって怖いんです」
 名前は正面から承太郎に視線と気持ちをぶつける。そして気持ちを奮い立たせると、挑発するように笑って見せた。
「承太郎さん、あなたはわたしの不安を、どうやって拭ってくれますか」
「......俺は口下手で、言葉でお前の不安を拭うことは出来ない。今だってそうだ。だがきっとその日が来たら、真っ先に全ての想いを伝えよう」
真摯な言葉と瞳に名前は頷いた。
「もう充分です。わたしは承太郎さんのことを信じて待てます」
「名前...」
「問題が解決したら、たくさん愛してるって言ってくださいね」
「ああ、いくらでも言ってやる」
 承太郎が腕を広げると名前は足を踏み出す。しかしその首根っこを仗助はクレイジーダイヤモンドに捕まえさせた。
「はい、そこまで。とりあえず名前は傷の治療な」
「えっ、なに、えっ、えっ、ぎゃあ!」
 自分を拘束し見下ろす、ピンクが主体の人型に拳を振り上げられ、喧嘩とは無縁の女子高生は叫んだ。しかし何やら首元に触れられた気がしただけで、痛みは一向に訪れない。首を傾げる名前に仗助は自分の首元に触れて見せる。意図に気付き手を這わせると、痛みも肌が捲れたざらざらとする感覚も無くなっていた。
「治ってる...!凄い!凄い!仗助!」
「まあクレイジーダイヤモンドの手にかかればこんなの朝飯前よ」
「ありがとう、仗助...!」
 喜びのまま仗助に飛び付く姿に、承太郎は眉間に濃い皺を刻む。腕を伸ばし名前に触れようとするが、ひょい、と仗助は身を捩りそれから逃げた。
「ダメっすよ、承太郎さん。あんたは問題を解決してからじゃないと名前には触らせません。それがケジメってやつっすよ」
「ちっ、あんまりひっついてんじゃあねえ」
 捨て台詞のようなかっこ悪い言葉を吐いてしまったと顔を顰める承太郎を、名前は仗助に抱きついたままで見上げた。
「......承太郎」
「!」
「あんまり待たせると、わたし仗助のこと好きになっちゃうかもよ?」
「もしそうなったら、また俺のこと好きにさせてやるよ」
「はい、今の発言はアウトっすね。三日間名前は没収します」
 ふっ、と笑った承太郎の顔は一瞬で不機嫌なものに変わる。しかし今のはケジメをつけた後で言うべき言葉だったと反省し、仗助は仗助で普段の仕返しが出来たと満足だった。
 承太郎は仗助に家へと連行される小さな背中を見送る。幸い三日後は日曜で、何も起きなければ一日中一緒にいられるだろう。見張りの叔父の瞳を掻い潜って逢瀬を楽しむとしよう。勿論名前が許すのならばだが。
 コートを翻すと、承太郎もホテルへの道を辿り始める。何と言って誘い出すかはもう決まっていた。


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