最愛 閑話a2
「おはよう。脚の調子はどう?」
 朝食前、病室に担当医の涼介先生が来た。凄くかっこよくて、優しい先生。お見舞いに来た家族や友達は当然羨ましがったし、看護師さんもよかったね、って言ってきて人気のある先生なのは間違いないみたい。
「おはようございます。痛みはあるけど我慢出来ない程ではないです」
「鎮痛剤が必要な時は教えてね」
「は〜い」
「もう少しで退院出来るから、退屈でも無茶はしないように」
「は〜い」
 隣のおばあちゃんの診察へ移った先生の広い背中を眺め、今すぐ飛び付きたい気持ちを押さえて低い声に集中する。先生の人気に年齢は関係無いようで、先生が病室を出て行くとおばあちゃんはほうっと息を吐いた。
「高橋先生ほんとかっこいいわね〜。孫の婿に来てくれたらわたしが一番嬉しいわ、うふふ」
「ほんと、かっこいいですよね...」
「あら、もしかして」
「えっ、ち、違います!」
「隠さなくていいのよ。あんなにかっこいいと好きになっちゃうわよね〜」
「傷が残らないようにって、たくさん考えてくれて嬉しかったんです」
 バレてしまったから、と友達にもまだ話していない恋心を打ち明けてみる。おばあちゃんは優しく頷いて笑ってくれたけど、頑張ってとは言ってくれなかった。
 約二週間前の雨の日、濡れたタイルで滑って膝の皿を骨折した。翌日に手術をすることが決まり不安になっていると、夕食後の時間に先生が訪ねてきた。
「ご家族が帰られたから、不安になってるんじゃないかと思って」
 そう言って優しく笑う先生は本当に王子様みたいでかっこよかった。
 暫く他愛も無い話をした後で、先生はわたしが一番気になっていた術後に残る傷跡について詳しく話してくれた。最小限になるよう努力はするがどうしても傷が残ってしまうこと、目立たなくなるまでに相応の時間が掛かること。後から看護師さんに聞いた話だと、多くある症例ではあるが、年頃の女の子ということで普段以上に気にしていたらしい。手術が終わった後も頑張ったね、って褒めてくれて、先生には何て事ない声掛けだったのかもしれないけど、それが嬉しくて先生のことを好きになってしまった。あんなにかっこいい先生に自分が釣り合わないのは分かりきっているから、退院したらすっぱり諦めると決めている。だから、今だけ。
 朝食を食べ終えると甘い物が欲しくなって、7階の病室から1階にあるコンビニへ車椅子で向かう。最初の頃はすぐ腕が疲れてしまったけれど、入院して二週間近くになるとだいぶ慣れた。
 エレベーターを降りると、隣のエレベーターから先生が降りたのに気付く。声を掛けようとしたけど、先生は忙しいのか走って行ってしまった。残念に思いながらコンビニへ向かえば、途中にあるインフォメーションで先生がロングスカートを着た綺麗な女の人といるのが見えた。先生は驚いた顔をしていて、女の人が大きなお腹を撫でると、先生の手もそこに伸びる。顔を見合わせて笑う二人にすっと身体の芯が冷たくなった。胸が苦しくて、視界が滲む。
「パパ〜」
 離れた所から可愛い声がして、色違いの服を着た二人の男の子が先生の脚にしがみつく。先生は奥さんに向ける表情とは別の笑顔で子供の頭を撫でて一人ずつハグをした。それを優しい目で見つめる奥さんは本当に綺麗で見蕩れてしまう。かっこいい先生にお似合いで、子供たちも二人の血を確かに引いていて幼いながら整った顔立ちをしている。素敵な家族の姿は微笑ましいはずなのに、それが好きな人だとこんなにも苦しい。
甘い物なんてとても食べる気にはならず、エレベーターへと引き返す。
 彼女はいるだろうと思っていたけど、奥さんがいて、しかも子供が三人もいるなんて聞いてない。っていうか先生いくつなの。見た目若すぎでしょ。
 自分を保つために心の中で悪態を吐きながら車椅子を動かす。そうしていないと、今にも涙が零れてしまいそうだった。
「押すよ」
「えっ」
 後ろから声がして振り向けば、先生がこちらに向かって来ていた。そのまま車椅子を押して歩いてくれる。
「先生、自分で帰れますよ!」
「どうせ目的地は一緒だよ。コンビニ行ってたの?」
「あ...甘い物が食べたくなったけど、ダイエットしようと思ってやめました」
「高校生がダイエットするのは、あまりおすすめしないなあ」
「先生の奥さんが凄く綺麗な人だったから、わたしも頑張ろうと思って」
 ダイエットのために甘い物をやめたのは嘘。だけどダイエットして新しい恋を頑張ろうと思ったのは本当。
「見られてたか」
「そりゃあ、見やすいところにいらっしゃったので。奥さん綺麗な人ですね」
 言葉はすらすらと出るけれど、胸はずきずきと痛む。失恋したばかりなのに、自分からその傷を抉るようなことするなんてどうかしている。
「ああ、俺には勿体ないくらい気の利く優しい子だよ。今も身重なのに忘れた弁当を持って来てくれた。そのおかげで俺は大好きな奥さんの顔を見られて得したけどね」
 エレベーターの前に着くとボタンを押して、先生は青いボーダーの手提げ袋を掲げて見せた。その表情は今までわたしに見せたことの無い種類の笑顔で、まだちょっとしか生きていない高校生だけど、奥さんのことがとても大事で深く愛しているんだと理解出来た。失恋して悲しいはずなのに、そんな気持ちはどこかに飛んでいって、愛する人に巡り会えた幸せ羨ましく感じる。
「あ〜、惚気ごちそうさまです。わたしも頑張って好い人見つけよう」
「高校生の本分は勉強だから程々にね」
「わっ、さすが医者、お固い。先生一体いくつなんですか。お子さん三人もいるなんてびっくりしましたよ。指輪嵌めてるとこも見たことないし」
「若く見られるのは嬉しいけど、医者としては舐められるからあまり褒められたものではないな。指輪は無くすと絶望で死ぬから家に保管してあるよ」
 エレベーターが降りてきてドアが開く。揺れるよ、と一言掛けて車椅子を押すのには豆な先生だなあと感心した。
「死ぬは大袈裟でしょ。それでいくつなんですか?」
「ふふ。34」
 笑いに含まれた何かを感じて、どうやら死ぬのもあながち嘘ではなさそうだと苦笑する。
「やっぱり若く見えるなあ。奥さんとはいつから?」
「...君いくつだっけ?」
「18ですけど?」
「そうか。じゃあ、君の年の時には付き合ってたよ。俺は23だった」
「えっ!」
「整形外科医を選んだのは、小学生の時に初めて出逢った彼女が骨折してたから」
「...奥さんのこと大好きなんですね...」
 エレベーターが7階に着いて、ドアが開くと再び車椅子を押される。通り掛かった看護師が替わると申し出ても先生は大丈夫と断り、そのまま病室へと進んでいく。
「大好きだからこそ色々あったよ。高校生の彼女に告白してすぐ、別れなきゃならないかもって大きな出来事があったんだ。でも俺は絶対に別れたくなくて、付き合いたてなのにプロポーズした。だから君も、明日には誰かと付き合って、プロポーズだってされてるかもしれないよ」
「!」
 ふわりと心に風が吹き鼓動が早まった。
「高橋先生、救急から急患の依頼が入りました!」
 看護師から声を掛けられ先生はその場で足を止め、病室までの距離を確認した。
「すぐ行きます。じゃあ、ここで」
「あの、先生!ありがとうございました!何か先生の話聞いてたら何となく過ごしてた毎日が勿体無いって、明日も明後日も一度しかない日だから大事に過ごそうって思えました」
 先生は淡く笑むとエレベーターに向かって走り出し、持ったままの弁当箱に気付くとナースセンターに引き返す。預かっててください、と看護師に弁当箱を託すと、今度こそエレベーターの中に消えた。
 脳裏に焼き付いた淡い笑みに頬が熱を持つ。
「諦められたはずなのに...。それは反則でしょ」
 短時間で気持ちが上がって下がって振り回されて、最後にあんなふうに微笑まれて。暫く恋愛は無理。まずは先生のことを忘れよう。それから同じように何気ない毎日を大事にしてくれる素敵な年上の人を見つけよう。
「あ〜あ、初恋だったのに」
 初恋は実らないものだなあ。悲しい気持ちなんか全く無くて、晴れ渡った秋空のように心は清々しい。とりあえずお隣のおばあちゃんに失恋話でも聞いてもらおう。先生のおかげでちっとも疲れていない腕で病室を目指し車椅子を動かした。


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