Corona.after story1
 揺らめく蝋の明かりにヴィンセントの横顔が照らされている。週末に控えた息子達の成人祝いパーティーの参列者名簿に目を通しながら、重ねた月日の長さに深い溜息を吐いた。
 この年まで連れ添った妻よりも深い愛情を注いだ女の死からもう23年が経つ。彼女と過ごした日々は今でも夢に見るほど鮮明で美しい。夢の終わりには、歳をとらず可憐な姿のままで、目尻に皺の出来てきたヴィンセントに、変わらず愛していると微笑んでくれるのだ。
 レイチェルを愛したはずの心は最早無くなってしまっていた。やはりヴィンセントにはナマエしかいないのだ。決して手に入らない幸せを望み、ヴィンセントの心はいつまでもあのラベンダー畑に置き去りにされている。
 双子の息子達が可愛いことに変わりはない。レイチェルをその母として大事に思っていることも。だから息子達の成人を大勢に祝って欲しいと、パーティーの開催をレイチェルに提案された時、ヴィンセントは快く応じた。
「!」
 ヴィンセントは目に留まったその名に呼吸を止める。その名を持つ者が少ないわけではない。現に今まで多く出会ってきたし、苗字だって違う。それなのに何故だか涙が出そうな程に強く、その名に胸が締め付けられた。
「ナマエ...」
 やはりいくら年を重ねても、君を失った哀しみが消えることは無い。むしろ年を重ねるごとに苦しみは増えていくようだ。もしその苦しみを超えることが出来たなら、君の大切な家族が死んでしまうことも無かったんだろう。
 ヴィンセントは紙をサイドチェストの上に放るとベッドに横になった。視線をやった天蓋には、ナマエの形見とも言うべきラベンダーが吊るされ、クッションの中には香りの無くなったサシェが二つ入っている。
 サシェの一つを譲ってくれた友人は、もうこの世にいない。
 エドガーが館を訪ねてきた数日後、その訃報は知らされた。急ぎ向かったミョウジ邸では啜り泣く声があちこちから聞こえ、夫妻は涙することなくただ虚ろな瞳で棺を見つめていた。
 妹を死に追いやった罪を生きて苦しむことで償えず、エドガーは死へと逃げた。愛する妹が死んだあの山で首を吊って。
 立て続けに二人の子供を喪い妻は心を病んだ。楽になりたいと夫に伝え、夫はその願いを聞き入れた。娘を守れず、息子を死に追いやり、妻を手にかけながらも、夫は生きようと必死にもがいた。しかし結局は苦しみに堪えかねて阿片に手を出し、幻覚の家族に罵詈雑言を浴びせられ、逃げ惑ううちに館の階段から転落し呆気なく死んだ。
 そうして英国貴族からミョウジの名は消え、ヴィンセントは売りに出された屋敷を購入した。思い出深いあの屋敷が、他人の手に渡るなど堪えられるはずも無い。
 隣室からは苦しそうな咳が聞こえる。遅くまで仕事をするから、と理由をつけてレイチェルと寝室を別にし、背をさするのをやめてどれくらい経つだろうか。愛している人がいるからお前を愛することは無いと、そう言った男を愛し尽くしてくれた女に対する仕打ちに自分自身吐き気がする。これほどまでに己は腐り果ててしまったのに、ナマエを求める心だけは青臭い少年のままだ。
 ナマエ...、ナマエ...。
 激しくなる咳を聞きながら、ヴィンセントは蝋の明かりを落とし瞳を閉じた。夢の中でナマエに会えるよう願って。

 館の玄関ホールで催されたパーティーには多くの者が参列していた。寄宿学校時代の友人やビジネスの協力者、それに加え妻の候補となる年若い娘達。純粋な祝いの気持ちで参加している者の方が少なさそうな催しだ。現に娘達に声を掛けているのは友人達で、双子は声を掛けてくる娘達を煩わしそうにしながらスイーツを食べ、ヴィンセントが祝いの言葉を受け取っている。終始苦笑を浮かべているヴィンセントだが、その視線は誰かを探すようにホール内を彷徨う。ヴィンセントの鼓動は大きくなるばかりで、ありえるはずがないのにナマエに会えるような、そんな気がしてならなかった。
 ダンスが始まりヴィンセントは椅子に腰掛けた。隣には息子達が並び、子供の成長を喜ぶ母の気持ちも知らず退屈そうにしている。レイチェルがこの場にいれば二人の態度ももう少しはマシだったろうが、あいにく体調を崩し寝室で休んでいた。
 視界いっぱいに色とりどりのドレスが花のように揺れ動いている。花はヴィンセントにナマエのことをどうしても思い出させた。
 可憐で儚かったナマエの生き様は、まさに花の様だった。
「あ...」
 ダンスを踊る参列者に視線が集まる中、テーブルに並ぶケーキをきらきらとした瞳で見つめる少女がいた。身に纏うオレンジ色のドレスは、陽だまりのように温かだった少女によく似合っている。
「父様?」
 ゆらりと立ち上がり歩き始めた父に息子達は首を傾げる。ヴィンセントはそのまま少女へと近付き手を取った。
「ナマエ...」
 きょとり、と一つ瞬いた後で少女は大きく瞳を見開く。
 悲痛な面持ちの紳士と記憶の中の青年が重なり、どこからともなくラベンダーの香りがした。
「...ヴィンセント、さま...」
 口にした名が鍵であったかのように、解き放たれた記憶の奔流が少女を襲う。強烈な目眩に少女がフラつくと、ヴィンセントは恋焦がれた少女の身体を抱き寄せた。
「ナマエ」
「すみません、目眩、が...」
「ナマエ...」
 虚空に吐き出すばかりだった名を、こうして再び愛する者へと向けられる。ヴィンセントの瞳から美しい雫が零れ、少女はそっと指を伸ばした。
「ストップ」
 二人だけの世界を切り裂いたのはシエルの声だ。弾かれたようにそちらを見たヴィンセントは、後ろに控える双子の片割れの姿も確認する。母親以外の女と身を寄せる父の姿に酷く狼狽していた。
「...とりあえず、場所を移動しよう」
 ただらならぬ二人の雰囲気に、シエルは応接間への移動を促した。現当主が衆人の前で若い娘と抱き合うなど、ファントムハイヴの名は地に落ちる。ヴィンセントは苦く笑うと双子の弟を見やった。
「お前はここに残りなさい。主催者が全員いなくなるわけにはいかないからね」
「...分かりました」
 身体も気も弱い弟は有無を言わさぬ父の視線に頷き、もといた椅子へと腰掛けた。
 応接間へ移動したヴィンセントは、隣に少女を座らせ肩を抱き寄せる。少女は恥ずかしそうに身を捩ってシエルを見た。
「それで、君は?」
 シエルの言葉にヴィンセントは身体を離し、不安そうに少女の頬を撫でた。
「ナマエなんだろ...?」
「ナマエ?」
 幾度も聞いてきた名にシエルは眉を顰める。
 それは父が母と出会う前に愛した女の名だ。母は女に憧れを抱いたと、恋敵であるはずなのに、父が花に想いを託し女に贈ったことなどを美しい恋物語として語り聞かせた。しかし、その女は20年も前に死んでいる。死んでいるはずなのだ。
「......君はいったい誰なんだ...?」
 シエルは戸惑い震える声で問い掛ける。
「わたし...、わたし、は...」
「ナマエ...」
 少女は何度も言葉を飲み込み、そしてヴィンセントの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「わたしの名前は...」
 少女の細い声が紡いだのは、ヴィンセントの目を引いたあの名だった。やはり自分が感じた何かは間違っていなかったのだという喜びと、戸惑いがちに告げられた違う苗字にナマエでは無いのだという悲しみをヴィンセントは抱く。酷く曖昧で泣きそうな表情のヴィンセントに少女が瞳を細めた。
「最後にお会いした日と同じお顔をされていますね。あなたにわたしの全てを捧げた、とても幸せで、とても辛かった、あの日と」
 ヴィンセントの瞳が涙で潤み、目の前の愛しい顔をぼやけさせる。頬に伝った雫を今度こそナマエは指先で掬った。
「ナマエ・ミョウジ。それが昔の名です。全てを思い出した今、またこうしてあなたに触れられるなんて、夢のようです」
 自身の両頬を包む柔らかな手をヴィンセントは握る。雪のように冷えた手ではなかった。ナマエは確かに生きている。
「おかえり、ナマエ」
「ただいま...、ヴィンセント様、...会いたかった...!」
 ヴィンセントはナマエの額に口付けると、小さな身体を強く抱き締めた。変わらぬ柔らかな香りにヴィンセントの心は昔へと還る。
 一度も足を運んでいないのに、ヴィンセントを苦しめた雪深い山の景色が段々と薄れていく。その代わりに浮かび上がってくるのは、色とりどりの花に囲まれる笑顔のナマエだ。
 悲劇はナマエの死をもって終幕を迎えたが、愛し合う二人の奇跡の再会で新たな物語の幕は上がる。
「!」
 いや、新たな幕が上がるわけなど無いのだ。自分は結婚し成人を迎える息子が二人もいるし、何より彼女は引く手数多ある年若く美しい少女なのだから。
 貴族の浮気話など腐るほどある。力の無い妻はそれに異を唱えることは出来ず、邸宅に愛人を囲う男がいるのも事実だ。だが女王の番犬たるヴィンセントにはリスクが高すぎた。もしそれが露見すればファントムハイヴの名声は傷付き、女王の命を解かれる可能性だってある。何より、ヴィンセントはナマエを愛人としてではなく、この先の人生を捧げ愛する妻として屋敷に迎えたかった。
 妻とすることも、愛人とすることも叶わない。しかし彼女を二度と手放したくはない。
 身体が離されナマエが見上げると、ヴィンセントは葛藤に顔を歪めていた。ナマエも苦い笑みを浮かべ瞳を伏せる。
 どうして、どうしてこうも上手くいかない。奇跡が巡り会わせてくれたというのに。
「父様」
 外から扉が叩かれて双子の弟が顔を見せる。異様な室内の光景に顔を引き攣らせながらも、どうにか言葉を発した。
「そろそろお時間が...」
「...あ、ああ...」
 ヴィンセントは瞳を瞑り息を深く吐き出すと、にこりと笑顔を作った。
「パーティーは終わりだ。今日は帰りなさい」
「...はい」
 ヴィンセントが立ち上がると双子は先に部屋を出る。ナマエも扉へ向かおうとすると、頬に口付けが落ち、耳に唇が寄せられた。
「俺は諦めないよ」
 確かな決意の言葉に、ナマエは涙が零れそうになった。頷くと振り返らぬまま応接間を後にする。そのまま飛び出し見上げた館は、ファントムハイヴの地位と権力を示すように立派だ。来た時は見覚えのなかった館が、今ではすっかり見覚えのあるそれになってしまった。きっと奥には綺麗に整えられた庭園が広がっているのだろう。昔と今がぎこちなく重なる不思議な感覚にナマエは瞳を伏せた。


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