最愛3
 手帳に挟んだ涼介と二人で写った写真を眺めて名前は顔がニヤけそうになるのをどうにか堪える。付き合い始めて2ヶ月が経とうとしていた。以前はただの幼馴染みで用事がある時しか会わない二人だったが付き合い始めてからは夜のドライブにたまに連れて行ってくれたり、少なくとも週に一回は会うようにして緒美の言う通りどんどん涼介の知らなかった一面を知ることが出来ている。未だに恥ずかしいが手を繋ぐだけでなく、ハグやキスなどスキンシップをとれる幸せに浸っていた。セックスはまだしていない。名前が高校を卒業するまではしないと宣言したのは涼介だ。コンドームは100%ではない、妊娠してしまった時今の俺では責任が取れない、お前に辛い思いをさせたくない、そう言われて名前は大切にされていることを嬉しく思った。
「名前」
 思わず手帳を勢いよく閉じる。机の横に立っていたのはクラスメイトだった。
「どうしたの?」
「あのさ、名前の彼氏ってもしかして群大の医学部の人?」
「そうだけど...」
「それって高橋涼介?」
「涼介さんのこと知ってるの?」
 前の席から振り返った親友が聞く。話してもいいのか目配せしてきたクラスメイトに頷きを返せば彼女は続けた。
「うん。ちょっとお姉ちゃんから聞いた話が酷かったから名前大丈夫かなと思って」
「涼介くんの?」
「放課後ちょっと話そうよ。内容が内容だからさ」
 それだけ言うとクラスメイトは自分の席へと戻って行った。その表情は暗く、話すのを躊躇っているようだった。親友と顔を見合わせて首を傾げる。どんな話かは分からないが酷いと言うのだから酷い話なのだろう。言い様のない嫌な感じが胸の中に広がった。

「いきなりで悪いんだけどさ、名前は高橋涼介と付き合う時に処女かどうか確認された?」
「えっ!?」
「いいから」
 驚く名前に反論を許さずクラスメイトは詰め寄る。
「聞かれてないけど...でも知ってたよ、わたしが処女だって言うのは」
「ふーん。もうした?」
「え、いや、まだだけど...どうして?」
「ちょっと待ってね」
 クラスメイトは腕を組みうーんと唸り声を上げている。
「とりあえず一人で悩んでないで話してみてくれる?涼介さんの酷い話をさ」
 親友に促されクラスメイトは口を開いた。
「名前はちょっと勝手が違うみたいなんだけどさ...高橋涼介って大学の一部で処女キラーとして知られてるらしいの」
 名前も親友も言葉が出ない。名前は自分が愛されていることを実感出来ていたし、親友もまた名前や緒美の話から名前がイケメン医大生の寵愛を一心に受けていることを理解していた。
「わたしのお姉ちゃんが群大でさ、高橋涼介に憧れて告白したの。そしたら処女かどうか聞かれて、違うって言ったらじゃあダメだって。そのあと人に聞いてまわったら処女キラーって呼ばれてて、彼女は作らないで処女としかしないヤリ捨てする男だって、それで、」
「待って」
 名前は放心していて、もうクラスメイトの話が届いていなかった。
「とりあえず今日はここまでにしてよ。もし続きがあるなら明日わたしが聞くからさ。名前帰ろ?」
「...ごめん...。名前はわたしの憧れだからさ、そんな人に魔の手が忍び寄ってるのかもって思ったら...。ごめん、考えなしだった。名前の事、よろしくね」
 クラスメイトは鞄を持つと走って教室を飛び出した。名前をどうにか立たせて親友も教室を出る。ふらふらとした足取りは危なく、とりあえず家まで送るかと正門を目指す。すると正門前に黄色い車が停まっていて、横を通り過ぎようとすればおいおい、と声を掛けられた。
「名前、お前何シカトしてんだよ」
 凄む男に知り合いかと名前の顔を伺うがやはり男の声は届いていないようだ。
「ちょっと今精神的にまずくて...名前のお知り合いですか?」
「ああ、幼馴染みなんだ。高橋啓介」
「...もしかして涼介さんの」
 名前が涼介の名にピクリと反応した。
「名前、啓介さんだよ」
「近くを通ったからついでにと思ったけど来て良かったな。とりあえず連れて帰るよ」
「お願いします。名前、啓介さん迎えに来てくれたから車乗って帰りな」
「どうしたんだよ、お前。とりあえず家に兄貴いるから来いよ」
「いや。涼介くんには会いたくない」
 啓介は初めて名前が涼介を拒絶したことに驚いた。小学生の時から兄の後をついてまわり、漸く付き合うことになったと二人から報告を受けていた啓介には何が何だか分からない。
「名前、とりあえず家に帰ろう?一人で帰るのは危ないから車に乗せてもらいな?」
「親友も一緒にお家来て?」
「わたしはいいけど...。啓介さん、わたしも車乗って大丈夫ですか?」
「構わねえよ。ささっと乗れ。校門の前で生徒に声掛けてる不審者がいるって、そのうち通報されるんじゃねえか俺怖いんだよ」
「確かに」
 親友は名前の背を押し後部座席に乗り込む。力無く名前が親友の手を握った。
 車は普段と違いゆっくりと道路を走る。酷く辛そうな名前に啓介はどうしていいか分からず、とりあえず安全運転第一と気合を入れた。すぐに着いた名前の家の前に立つと、啓介は名前の鞄から鍵を取り出しドアを開けた。
「ほら、入れよ」
 鍵の場所も、玄関を勝手に開けるところからも啓介との親密さが親友に伝わる。名前は兄弟に大事にされ育ったのだろう。名前の靴を脱がせると、啓介は名前に背中を向けて膝を折った。
「ほら」
 その姿を見て親友がぎょっとする中、名前は無言でその首に腕を回し抱き着いた。名前を乗せ難無く立ち上がると啓介は階段を上り始めた。
「重くなったなあ。昔はあんなに軽かったのに。うげっ、名前首締まってる!落とすぞ!」
 下らないやり取りに名前が少し落ち着いたのだと親友は安堵した。啓介は辿り着いた名前のプレートが掛けられたドアを開ける。躊躇いなく足を踏み入れ、ベッドに名前を下ろすと足元にあったクッションを抱かせた。
「ちょっと付いててやってくれ」
 啓介は短く断りを入れると部屋を出る。名前はクッションに顔を押し付けてはいるが、泣いてはいなかった。それが逆に不安を煽る。名前はよく笑い、よく泣くと知っているからだ。
「名前、泣いてもいいよ」
「......泣いたら、それを信じたことになっちゃう。涼介くんはそんなことしないって、何かの間違いだって信じてる。だから泣かない。落ち着いたら涼介くんに確認する」
「......そっか」
 名前の涼介を想う強い気持ちに親友は胸がじんとした。
 帰ってきた啓介の手には湯気の上がるカップがあり、甘いミルクの香りがする。
「飲め」
 啓介からカップを受け取ると名前は何も言わず口を付けゆっくりと喉に流していく。さっきから啓介の言葉に無言で従う名前がまるで優秀なペットのようで、親友は笑いそうになるのを堪える。今笑ってしまえば恐らく啓介の手によってミルクを頭からかけられるだろうと。
 飲み終わったカップを啓介が受け取り、再びクッションを渡す。大人しく受け取った名前はクッションに顔を埋めた。
「とりあえず今は大人しく寝てろ。兄貴には名前に連絡するなって言っとくから。じゃあな」
 啓介は名前の身体の向きを少し変えた後、支えながらゆっくりと身体を横にさせる。緩んだ手からクッションを取り上げるとそこには穏やかに眠る名前の顔があった。
「!?」
 意味が分からない、と頭を抱えたい親友は啓介を見る。
「こいつホットミルク飲んだらすぐ寝んの。楽だろ?」
「はあ...」
「とりあえず何でこいつがこんなになったか話してくれ」
「えっとですね...」
 本人の了承無く話していいものだろうか。しかも兄のあんな話を弟に。名前から聞いた話だと啓介は涼介を物凄く慕っている。言葉を濁す親友に啓介が眉間の皺をどんどん深くしていく。
「何だよ、さっさと話せよ」
「わたしの口はからは何とも...。お兄さんのだいぶヘビーな話なので...。とりあえずお兄さんに会いたいのですが」
「兄貴にか?まあ...仕方ねえか」
 啓介は名前に目をやり、その頭を軽く撫でると部屋を出ていく。その後を着いて階段を降り、玄関の鍵を閉めると鎖樋を持ち上げ床との間に鍵を隠す姿に親友は唖然としてしまった。慌てて啓介の車に乗ろうと助手席へ向かう。
「あ、」
「何か?」
「いや、その...後ろに乗ってくんねえか?」
「...わかりました、すみません」
 親の車に乗る時は助手席が定位置のため、そのまま座ろうとしてしまったことを図々しかったかと親友はすぐに謝った。後部座席に座り直した親友に啓介は吃りながら言った。
「その、悪かったな。俺も兄貴に倣って決めてることがあってよ」
「何をですか?」
「だから...その、だな...」
「?」
「必要な時以外、助手席に乗せる女は家族以外で彼女だけだってな。俺もそうしてるんだよ」
「......名前と涼介さんは本当に想いあってるんですね」
「まあな。あの二人の年季はなげえから...」
 緒美と同様間に挟まれて苦労したのが見て取れる。この分だとやはり聞いた話は嘘のようだ。おおかた涼介にフラれた女が嫌がらせとして流したのだろう。名前が乗っていた時とは比べ物にならないスピードに少しの吐き気と恐ろしさを抱きながら親友は車に揺られ、横付けされた館を見上げ言葉を無くした。
「こっちだ」
「お、お邪魔します...」
 促され入った玄関が眩しく、居心地の悪さしかない。廊下を進み二階へ上がると、一つの部屋の前で啓介は立ち止まった。
「兄貴、俺だ。入るぞ」
「どうした」
 椅子に座ったまま振り返った涼介は啓介の後ろに居る名前と同じ制服を着た女子高生に首を傾げた。
「君は?」
「初めまして、名前のクラスメイトです。涼介さんにお聞きしたいことがあって来ました」
「...何を聞きたいんだ?」
「......」
 親友が啓介へと視線をやれば啓介は肩を竦めて部屋を出て行った。二人になったところで親友は涼介へと近付き、机の上の物が見えた瞬間ぎょっとする。それはアルバムだった。収められているのは名前一人のものから緒美や涼介、啓介たちと共に写ったものまで様々あるが、全てに名前が写っているまさしく名前のアルバム。机の上には同じアルバムが数冊重ねられ、隣にはネガが山のようにある。恋人だから問題ないが一歩間違えばただのストーカーだと喉が引き攣る。それに気付いた涼介はアルバムを閉じ、脚を組み直した。
「それで?」
「ああ、えっと...今日群大にお姉さんがいるクラスメイトから涼介さんの話を聞いたんです。その...、処女キラーって呼ばれてるって」
「...」
「告白されたら処女か確認して、処女じゃなかったらその場で断る。処女なら一度だけしてそのまま捨てるって。...嘘ですよね?」
「......名前もその話を?」
「一緒に聞いてました。名前泣かなかったんです。ただ放心状態って感じで...ねえ、嘘ですよね?」
「君には関係の無いことだ。話してくれてありがとう。啓介に送らせよう」
「本当なんですか...!」
 否定しないのは肯定だろう。何故と問うても答えてくれないのは分かっていて、せめて、と言葉を続ける。
「名前、さっき眠ったんです。啓介さんがホットミルク作ってあげて。だから会うのは明日にしてください。それで、本当のこと話してあげてください」
「......」
「送ってくださらなくて大丈夫です。お邪魔しました」
 親友は早口で言うと部屋を出て、階段を駆け下り慌ただしく館を飛び出る。
 話には聞いていたが涼介は確かに息を呑む程の美形だった。しかし氷のように冷たく、鋭い刃物のようで、内の者には大きな愛情を与えても外の者には近寄る事さえも許さない。今自分に向けて来たものは名前との仲を引き裂こうとしている邪魔者への敵意だった。
思い出すだけでも背筋が寒くなり親友はそれを振り払うように家まで走り続けた。


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