Corona.after story2
 冷たい冬の夜風が窓を叩く。薄暗い書斎では目鼻立ちの整った二人の男が顔を突き合わせていた。
「それで父様。詳しく話していただけますか」
「......」
 ソファに深く腰掛け脚を組んでいたヴィンセントは、美しい双眸をシエルに向ける。普段のそれとは違うことに内心動揺しながら、シエルは何でも無いように受け取った。
「彼女は、ナマエは...お前の母だよ」
 父が発した意味の分からない言葉に、シエルは眉間に深く皺を刻む。それを見てヴィンセントは優美に微笑んだ。
「お前は俺とナマエの子で、レイチェルは産んだにすぎない」
 ヴィンセントはそれを皮切りに、レイチェルが語る恋物語のより詳細を大事そうに紡ぎ始めた。
 女の名を愛おしそうに口にする時、父は男の顔をしていて、シエルは父の愛が母に向くことはもう二度と無いのだと悟る。そして同時に合点がいった。同じように接しているつもりだろうが、父は弟よりも自分を甘やかすことがあった。長男だからだと思っていたが違う。何よりも愛した女の忘れ形見だったからだ。
「レイチェルは言ったよ。ナマエが産めなかった子供を自分が産んだのだと」
 ──ごめんね、ごめんね、シエル
 誰のものか分からない声がシエルの耳には残っていた。物悲しく儚い声。その持ち主がやっと分かった。
「父様はどうされたいのですか」
 誰もが見蕩れる微笑を湛えながらも、どこか鋭さを感じさせる。ファントムハイヴの宿命だけでなく、あの少女の存在が父をそうさせたのだ。
「......俺が愛しているのはナマエだけだ。どんな手を使ってでも、傍にいさせる」
 レイチェルなどもう愛していない。父の心の声は容易にシエルへと届いた。
 優しくてよく笑うレイチェルがシエルは大好きだった。それなのに、もう母とは思えない。
 完璧にとはいかないが、あるべき本来の形に近付けてやれるのは自分しかいない。それが二人の子供である自分の使命だ。
「父様、僕に考えがあります」
 複雑怪奇な運命を経て己よりも年下になった母への愛が、つい先程まで母と慕っていたはずの女に対する盛大な裏切りをシエルに決断させた。
 自分には利益しかない最高のそれにヴィンセントは口角を上げ、シエルも父の満足そうな顔に鼻を鳴らす。蝋に照らされ壁に映る二人の影までもが悪魔のように笑っていた。

 ナマエの脳内には写真のように切り取られた想い出がいくつかあった。それは全て端正な顔をした青年のもので、笑顔や真剣な顔もあれば、涙を流し歪められた顔もある。それらは花を愛でている時に多く思い起こされ、決まってそこにはないラベンダーの香りが漂った。
 意図しているわけではないのに、赤いカーネーションを買い求め、その花言葉を知った時、その青年に会いたいと渇望している自分に気付いた。名も知らず、会ったことも無いのに、青年を求める心は毎夜咽び泣くのだ。
 そうして長い年月を重ね、代わる代わる声を掛けられる苦手なパーティーで、写真よりも幾分年を取った青年と邂逅を果たし記憶を取り戻した。
 恥ずかしいだけの出会いを経て、初めて人を好きになり、愛し愛される喜びを知り、結ばれない悲しみに苛まれ、最後は守るべき我が子を道連れに全てを雪に葬った。
 ヴィンセントと再び出逢えた喜びに浸れたのはほんの僅かで、一人馬車に揺られていると、犯した大きすぎる罪の呵責に襲われる。
 愛する男の手で女になりたいと精を求め、そして独り善がりな行動で生れ落ちるべき命を奪った。そんな自分が浅ましくも再びこの世に生を受けるなど到底許されることではない。だから神は罰を与えた。決して一緒になれない世界で、逃げることも出来ずに生きて苦しめと。もうお前はその男から離れられないのだろうと嘲笑って。
 はらりと一粒涙が滑った。同時に外から扉を開いてしまった御者は目を見開く。泣く姿など随分幼い頃にしか見せなかったナマエが、酷く悲しい顔をしているのだから。
「だ、旦那様!お嬢様が!」
「あっ、待って!」
 止める暇もなく御者は館に飛び込んでしまった。目にゴミが入ったとでも言えばいいか、とナマエは一人で馬車から降り館へ入る。しかし両親の顔を見た瞬間、そんなものは吹き飛んだ。
「ナマエ!いったいどうしたんだ!」
「パーティーで嫌なことでもあったの?」
 心配そうに眉を寄せるのは、今まで多くの愛情を注ぎ育ててきてくれた両親に間違いない。しかし自分には別に親がいる。父と母は、兄はいったいどうしているだろうか。
 ナマエは父の胸に駆け寄ると、叱り付けてくるメイド長を無視して声を大きくした。
「お父様!ミョウジは...ミョウジ家は今、どうなっていますか!」
 あまりに脈絡の無い問い掛けに、何事だ、と普通であれば返されるはずだったろう。しかし父の口から吐き出されたのはそんな言葉では無かった。
「ミョウジ...。いったいどこで呪われた一族の名を...」
「...呪われた...?どういうこと...?」
 戸惑いに揺れる娘の瞳に父は小さく息を吐いた。あまり話したくはないが、一度聞いてきたことは最後まで聞かない限り引き下がらないのがこの娘だ。
「...わたしも詳しくは知らないが...、娘の死を始まりに立て続けに不幸が襲った。息子の自殺、母の病死、父の事故死。ミョウジ家は潰えたよ。そうだ、確か娘の名はナマエ。お前と同じ名で...。ナマエ!」
 目の前が真っ暗になり、ナマエはその場に崩れ落ちた。がたがたと身体が震え、次々落ちる大粒の涙が絨毯に吸い込まれていく。
「そんな...嘘、嘘よ...」
 様子のおかしい娘に両親は顔を見合わせる。いつも愛らしい笑顔を振り撒き、館中を明るくするのが嘘のようにうわ言を繰り返す娘に表情は無い。
「とにかくお部屋にお連れ致しましょう」
「...ああ」
 父とメイド長に両脇を抱えられ、ナマエは寝室へと向かい玄関ホール正面の階段を上る。何度も脚を引っ掛けては転びそうになりながら寝室へ着き、メイド長の手によってドレスとコルセットが身体から離れていく。ふらふらとベッドに倒れ込んだナマエは枕に顔を押し付けると、未だ止まらない涙を受け止めさせた。
「ナマエ、いったいどうしたというの。あなたには笑顔が一番似合うわ」
「お嬢様、何かお飲み物をお持ち致しましょうか」
 甘えん坊な娘が可愛くて仕方のない母は勿論、レディはもっと慎ましくお淑やかにと、普段小言しか言わないメイド長でさえ酷く優しい声音でナマエを気遣う。しかしナマエは嗚咽混じりにそれを拒絶した。
「今は、一人に...」
 母の視線を受け、メイド長はナマエの身体にシーツをかけた。
「今夜は冷えます。風邪を召されませんように」
「っ、あなたも...」
 聞き覚えのある言葉にナマエは咄嗟に返事をしていた。
 きっと生きている限り、何度でも地獄は繰り返されるのだろう。


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