Corona.after story3
 ナマエは暖炉の前で揺り椅子に座っていた。漸く腫れの引いてきた瞼が被さる瞳で燃える炎を見つめていると、ノックのあとに扉が開く。
「お嬢様、お客様がいらしております。すぐにお召し換えを」
 メイドが二人入ってくると、着ていたドレスを脱がされ、外出用のドレスに着替えさせられる。されるがままのナマエにやはりいつもの元気は無い。腕を引かれ応接間へ入ると、一つの背中がくるりと回った。甘く緩められていた瞳はすぐに鋭くなり、ヴィンセントは早足にナマエへと詰め寄る。
「ナマエ、瞼が腫れているじゃないか。それに瞳も赤い...。泣いていたのかい?」
 娘の頬に触れるヴィンセントの姿に両親とメイド長は目を見張る。しかしそんなものヴィンセントには関係無いし、ナマエも気に掛ける余裕など無い。悲しみに死んでしまいそうだった一夜を癒してくれる、唯一の存在に縋り付いた。
「...ヴィンセント、さまぁ...。お父様、も、お母様も....お兄様もぉ...!」
 目尻から指先に乗る涙に、聞いたのか、とヴィンセントは苦々しく言った。
「すまない。守れなかった」
「ヴィンセント様は何も、何も悪くありません...!わたしがっ、わたしが...!」
 昨夜に引き続き泣き濡れた顔を見せる娘に、両親は戸惑い手を伸ばす。しかしそれをヴィンセントは遮った。
「少し席を外していただいても?三人で話したい」
「あ、ええ...。勿論です」
 同世代といえど、地位はヴィンセントのほうが遥かに上だ。父は母とメイド長を引き連れ応接間を後にする。ヴィンセントはナマエをソファへ導くと、膝に乗せ後ろから抱き締めた。
「君を失った悲しみは計り知れなかった。皆が自分を責め、疲弊していった」
「っぅ、ひぐっ...っ」
「同じように君も自分を責めるなら、義父上がエドガーに送った言葉を君にも送ろう」
 ナマエの柔らかな頬にヴィンセントは擦り寄る。そして甘やかな声音とは裏腹に、悍ましい言葉をナマエの耳に吹き込んだ。
「君は家族の分も生きて苦しむんだ」
 ナマエは神がヴィンセントの身体を借りそう伝えてきたのだと思った。それが醜く穢らわしいお前に相応しい罰だと。生きて苦しみ抜き、そして惨たらしく死ねと。しかし続けられた言葉にわけが分からなくなった。
「俺と共に生きて欲しい」
「へ、ぇ...?」
 あまりの驚きに涙が止まり、ナマエはヴィンセントを振り返る。声と同様に浮かべられる笑みは甘く、部屋の隅に立つシエルは溜息を吐いた。初めてシエルの存在に気付いたナマエは、はっとしてヴィンセントの腕から抜け出そうと身を捩る。その意味を察したシエルはもう一度嘆息すると、二人が座る向かいのソファに腰掛けた。
「漸く最愛の人に巡り会えたんですから、昨夜必死にお考えになった、チョコレートよりも甘〜い台詞をお伝えになってはいかがですか」
 ヴィンセントはシエルを睨むが、当の本人は肩を竦めるだけだ。ただの男に成り下がった父に威厳など無く、怖いと感じるわけもない。
 観念したのかヴィンセントはナマエをソファに座らせ、その足元に膝をついた。煩い心臓を落ち着かせるため胸を押さえたあと小さな両手を握る。気分は一目惚れしたレディをダンスに誘う初心な青年だ。
「俺の本当の気持ちを伝えるよ」
 ヴィンセントの温もりがナマエの凍えた心を優しく包む。
「君が再び生を受け、俺の前に現れてくれたのは偶然なんかじゃない。エドガーたちが君の幸せを願ったからだと思うんだ。だから俺達は三人が安らかでいられるよう、幸せにならないといけない。ナマエ、俺と添い遂げてくれるね」
「!」
 夢でも見ているのだろうか。紡ぐことの許されなかった未来を肯定する素敵な言葉に、ナマエは頷きそうになるのを必死で堪え首を振った。
「そんな、だってあなたには奧様が」
「君が目の前にいるのに、他の女が見えるわけないだろう。俺は君といたい。今度こそナマエと幸せになりたい」
「っ...」
 この手を握り返してもいいのだろうか。同じ気持ちだと、永遠に傍にいたいと胸に縋ってもいいのだろうか。
 しかし光の中を生きるナマエの道徳心は、妻ある身の男との不貞行為が許せない。それなのに罪を重ねてでもヴィンセントと共に在りたいと焦がれる心は叫ぶ。
 唇を噛み締め葛藤する健気なナマエの姿をシエルはじっと見つめる。父の手を取れば幸せが、しかし後にそれを後悔すれば不貞を働いた罪の意識に苛まれ、手を取らなければ叶わぬ恋情を抱いたまま日々を過ごす地獄が待っている。
「だが問題がある。離婚など女王がお許しになるはずもないし、愛人として囲おうものなら露見した時、俺の立場は危ぶまれる」
 やはり無理ではないか。道徳心を殺し欲望に傾いていたナマエの心は悲しみに暮れる。しかしヴィンセントは強気に笑い、視線を受けたシエルもよく似た笑みを浮かべた。
「だからナマエには長男と結婚してもらうよ。勿論形だけ。良い隠れ蓑だろ?」
「!」
 思いがけない言葉にナマエはただ固まる。ゆっくりと時間をかけて言葉の意味を理解すると、それはとても素晴らしい提案のように思えた。道徳、不貞、そんな言葉はもうナマエの考えからは抜け落ちている。
 しかし自分たちの我儘に人を巻き込むことは抵抗があった。まして彼等の息子だ。ヴィンセントは自分が関わると冷酷な一面を見せることがあるとナマエは知っている。結婚するレイチェルに好いた者がいるから愛さないと伝えたのがいい例だ。もしそうやって息子に無理を強いているのであれば頷くことは出来ない。
「貴方は、それでいいのですか」
 ナマエの視線を受けシエルは深く頷く。離れ離れであった両親が一緒にいられるよう尽くすのは息子の役目だ。
「あいにく、僕は結婚にも子を成す行為にも興味が無い。弟が生まれれば僕の息子として跡継ぎになり、僕にも十分利益がある。だからどうか父様と幸せに、母上」
「...母上だなんて...」
 年上の青年からそう言われ戸惑うナマエに、そうではないとシエルは笑った。
「まだ僕の名を伝えてはいませんでしたね。シエル・ファントムハイヴ、あなたが付けてくれた僕の名です」
「...まさか...、だって、そんな...!」
「母上が僕の名を呼び、何度も謝っていたのを覚えていますよ。まあ、覚えているのはそれだけですが」
「わたしの、わたしたちのシエルがこんなに大きく...!」
 ありえない、零しそうになった言葉をヴィンセントは飲み込む。奇跡が繰り返され、こうして繋がったことを素直に喜べばいいのだと。
「僕もこうして母上に会えたことを嬉しく思います。あなたの声は子守唄には悲しすぎて、まだ小さな命でしたが幸せを願わずにはいられなかったんですから」
 殺してしまった子供に感情があれば、きっと恨まれていると思っていた。それなのに子供は、シエルは恨むどころか身勝手な母の幸せを願ってくれていて、それは今も変わっていない。
「ありがとう、ありがとう、シエル...」
 ヴィンセントの手に熱い雫がいくつも落ちる。ヴィンセントは握る手に力を込めると、優しい瞳にナマエの泣き顔を映した。
「...本当にいいのでしょうか...。あなたの傍にいても、幸せになってもいいのでしょうか...」
「一緒に幸せになろう。出来なかったことを二人で叶えるんだ」
「はい...!」
 雪に葬った願いなどいくつもある。それを二人で叶えられるなんて、なんと幸福なことだろうか。
 歪な夫婦が罪を犯していることに変わりはない。いつかレイチェルへの罪悪感に後悔する時だってくるかもしれない。それでももうナマエはヴィンセントの手を離したくはなかった。


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