Corona.after story4
 ナマエには姉がいて、貴族の三男坊を婿養子として家に招いたが、とても良い家柄の出とは言えなかった。そこに飛び込んできた格式高いファントムハイヴ家からの婚姻の申し入れに、両親は手放しで喜んだ。
 話はすぐに纏まり、春に挙式を行うこととなった。シエルの希望からその季節が選ばれたが、実際はヴィンセントによるものだ。
「ナマエは暖かな春の陽だまりのようだ。その中でこそ一番美しく輝く」
 さも自分が考えたかのように、シエルはヴィンセントから指示された言葉を紡ぐ。まあまあ、と感心する母の横で父もその通りに、と笑みを深めた。
 ナマエは昔と同じように花嫁衣裳やリネンの準備をする。
 一針縫うとあの喜びを、一針縫うと儚く崩れ去る悲しみを思い出し、また一針縫うと絶望を繰り返すかもしれない不安を内包した、大きな幸せを噛み締める。
 夢のようだ。もしこれが夢であるならば、永遠に醒めないままでいて欲しい。
 心震わしながらナマエが針を進めていると、馬蹄の音が近付いてくる。屋敷の前でそれが止まると、隣でリネンを畳んでいた母が立ち上がり声を上げた。
「まあ、シエル様がいらしたようだわ」
「!」
 ナマエは手にしていた生地を放るとすぐに玄関へ走る。扉が開くと同時にシエルへ飛び付きそのまま頬を寄せた。
「おはよう、可愛いシエル」
「おはよう、ナマエ。熱烈な歓迎をありがとう」
 戯れる親子の姿も館の者には、麗しい婚約者同士の睦み合いとして映る。目の保養だわ、と暫く鑑賞した後でメイドは声を掛けた。
「すぐに紅茶をご用意致します」
「いや、いいんだ。ナマエ、出掛ける支度をしておいで。連れて行きたいところがある」
 シエルに促されナマエは理由も聞かないまま従う。支度を終えたナマエは母に声を掛け、表へ停められた馬車に乗り込んだ。
「おはよう、プリンセス。今日も可愛いね」
「ぁ...ヴィンセント様...」
 中には当然ヴィンセントがいた。頬にいくつも口付けられナマエは恥ずかしいと瞳を潤ませる。年を重ねた分だけスレた自分とは違い、初々しいままのナマエにヴィンセントは時折幼子でも甘やかすように接する。それがナマエには少し不満で、でも溢れんばかりの愛情が伝わってきて嬉しくもあった。
 動き出した馬車は見慣れた道を進む。こうしてヴィンセントの隣にいると、昔に戻ったのではないかと思うが、流れゆく景色は随分と変わってしまっていた。
 町外れの墓地で馬車は停まった。先に降りたシエルがナマエに手を貸し、そのまま腰を抱いて歩き出す。
「シエル!」
 睨む父にシエルは涼し気に言ってのける。
「人がいるかもしれないのにエスコートする気ですか?」
 息子に注意されたこともそうだが、何より息子といえど青年に年若い妻の腰を抱かれるのは我慢ならない。しかし見られでもしたら。
 唸るヴィンセントにナマエは苦笑し、シエルは座席に残された花束を握り潰さず持ってくるよう伝える。
「っ〜〜〜!」
 こんなに嫌味な奴だったのか!可愛い可愛いと思ってきたがだいぶ猫を被っていたらしい!
「...少しくらい僕が母に甘えたっていいでしょう」
 唇を尖らせ言うシエルにヴィンセントは、やはり息子は可愛かった、と瞳を細める。しかし喜んだナマエのハグを受けながら舌が出されると、ヴィンセントの手元ではグシャリと花束が音を立てた。
 並ぶ墓石に刻まれた名を見つめて、ナマエはぽつりぽつりと故人を呼んだ。
「お父様...お母様...お兄様...」
 親戚のいないミョウジ家の者に墓があるなんて。それに20年も経つのに荒れた様子も全く無い。
 ナマエはヴィンセントを見上げると心からの感謝を述べた。
「ありがとうございます。きっとお兄様たちもヴィンセント様に感謝しています」
「...俺に出来ることはこれくらいしかなかったんだ。でも今は違う。君を幸せにすることが出来る。それが彼らにとって一番の供養だろう」
 ヴィンセントはナマエの肩を抱くと、順番に三つの墓石を見た。
「エドガー、今度は反対させないよ。見守っていてくれ」
「お爺様、お婆様、伯父様。二人のことは僕に任せてくださいね」
 シエルがそれぞれの墓前に赤いカーネーションを贈った。両親の笑顔と兄の顰めっ面が過ぎると、墓地に強い風が吹く。まだ寒い季節であるというのに、その風は暖かい。ナマエが、あ、と声を漏らすと、隣のヴィンセントも肩を揺らした。
「今のはエドガーだ」
「.....ええ」
 仕方がないから俺がいない間は妹を預けてやる。絶対幸せにしろよ。
「当たり前だ」
 確かに聞こえたエドガーの声にヴィンセントは自信を持って答えた。

 墓地を後にし、屋敷へ送られるとばかり思っていたナマエは、馬車が違う道に入り首を傾げた。初めて通るのに、初めてではない道。ミョウジの屋敷へ向かう道だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 見上げた館は少し古びているが、奥に見える庭と同じで定期的に整えられているのが分かった。
 瞳を潤ませるナマエの頭を撫でて、ヴィンセントは懐から取り出した鍵を扉に挿す。それを横目で見るとシエルは庭の方へ向かった。
 重い扉が押し開かれると、そこには昔と変わらない光景があった。ナマエはヴィンセントに促され中へと足を踏み入れる。
 幼い日に汚して怒られた絨毯も、ホールの端に飾られた甲冑も、階段の壁にいくつも飾られる写真も何も変わっていない。ナマエのたくさんの思い出がヴィンセントの手によって守られていた。
 してやった、と満足そうなヴィンセントの首にナマエは腕を回す。
「わたしへの愛がこんなにも大きかったなんて知りませんでした。わたしだけでなく、家族や、過ごした家にさえも愛情を傾けてくれるなんて...。あなたほど素敵な殿方は、きっと世界中のどこを探しても見つかりません。わたしの一生をかけてあなたを愛し抜きます。身も心も、魂さえも、全てあなたに捧げます」
「...ナマエ...。ありがとう。でもそんなに固くならないで。俺が君と一緒にいたいんだ。それが俺の幸せで、君にとっての幸せでもあれば、それだけでいいんだ」
「...二度と離さないで...」
「願う必要など無い。それが当然だ」
 ヴィンセントはナマエの頬を両手で包むと唇を重ねた。20年振りのキスは酷く甘い。このまま蕩けてしまいそうなほどの心地良さに暫し酔い、口内に苦しげな息が吹き込まれると、ヴィンセントは唇を離した。
「さあ、おいで」
 ヴィンセントはナマエの手を引くと階段を上り先を進む。一番奥の両親の寝室でナマエを迎えたのは、カーネーションの飾られた天蓋付きの大きなベッドだった。ヴィンセントは柔らかなベッドに腰掛けると、ナマエを膝に抱え耳に唇を当てる。
「勝手に手を付けてすまないけれど、寝室だけは整えておいたよ。初夜を過ごすベッドが無いのは困るからね」
「!」
 かっと熱くなった耳に満足して、幅の狭い肩にヴィンセントは顎を乗せる。
「式が終わった後は、ここに家族三人で住もう」
「えっ、どういう...」
 そういえば、とナマエは気付く。ヴィンセントの傍にいるという漠然とした幸せだけしか考えていなかったことに。ファントムハイヴ邸に共に住むのは当然として、いかに愛を育み、確かめ合うのか。レイチェルや双子の片割れがいる館では身体を重ねるどころか、二人でいることも難しいだろう。義父と嫁が二人っきりでいるなど違和感しかないのだから。それを解決するためだろう案なのは分かったが、些か無理があるのではないだろうか。
 顔が見えないにもかかわらず、ナマエの考えを察したヴィンセントは笑い声を漏らす。
「レイチェルは最近体調を崩しているからね。療養させるため本邸をこちらに移すとでも言えばいい。訪ねてくる者も多くいるし、そのほうが落ち着くだろうと。レイチェルは俺の意見に反対出来ない」
「......悪いお人」
「君といるためなら手段を選ぶつもりは無いよ」
「わたしもあなたのためならば、どんな悪女にでもなりましょう」
「こんなに愛らしい悪女なら大歓迎だ。今すぐ素肌を感じたいところだけど、愛を誓う前だからね」
 神を欺き儀式的に息子と愛を誓わせるのに、ヴィンセントはそんなことを言う。その罪が大きすぎる代償となり己の身に降りかかっても、ナマエがヴィンセントの手を離すことは無い。
「神の逆鱗に触れたのであれば、共に地獄へ参りましょう」
「ああ、ファントムハイヴに天国など到底似合わない」
 歪な夫婦は笑い合う。真実の愛のためであれば、人の血肉を貪る醜い悪魔になることだって厭わないと。


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