Corona.after story6
 レイチェルはシエルの婚約者であるナマエと初めて会った時、あまりの衝撃に叫びそうになった。夫の最愛の女性と同じ名前で、顔まで瓜二つだったのだから。
 ヴィンセントが留守の折、書斎机の一番上の引き出しを開けたことがあった。レイチェルが顔を覗かせると、慌ててその引き出しを閉める仕草が気になって。しかし開けてすぐに後悔した。
 本棚にはぎっしりと本が詰められ、机の上には書類がいくつも塔を成しているのに、その引き出しには一つの写真たてだけが入れられていた。
 茨の装飾が繊細に施された写真立ての中で、ラベンダーを抱えた少女は無邪気に笑っている。その姿は魔物さえ虜にする清らかさがあり、今にも茨に攫われてしまいそうだ。
 この可憐な少女がナマエなのだとレイチェルはすぐに分かった。同時に決して自分は勝てないのだとも。
 その後レイチェルの出産を経て、ヴィンセントが引き出しを開けることは無くなった。自分だけを愛してくれているのだと、レイチェルは喜び良き妻であるよう努めたが、それも長くは続かなかった。双子が寄宿学校に入り暫くすると、床を別にしようと告げられたのだ。遅くまで仕事をしたあとベッドに入っては起こしてしまうかもしれないから、なんて気遣うような理由だったけれど、再びあの引き出しを開けるようになったのをレイチェルは知っていた。
 そして月日は流れ息子たちが成人すると、長男の婚約が知らぬところで進んでいた。何でも自分が企画した成人パーティーでシエルが一目惚れし、翌日には娘の家を訪ね、その両親と話を付けたと言う。
 若き日のヴィンセントを真似、赤いカーネーションの花を添えて少女に手紙を出していると知った時は、意外にもロマンチストだったのかと驚いたものだ。
 シエルと少女は幸せそうに笑い合う。それを見るヴィンセントも微笑ましそうにしていて、最愛の女性とよく似た少女に夫を奪われるのではないかと不安を抱いていたレイチェルは思わず安堵した。妻と息子がじゃれあい、それを夫が見守っているのが真実だと知りもしないのだから。
 ナマエという温かな存在に触れるほど、レイチェルは彼女のことが好きになった。明るく素直、飾らない心が魅力的で身体も丈夫。ファントムハイヴ家の妻として申し分ないと。
 挙式と披露宴が終わると、疲れからレイチェルはぐったりとソファに身を預けていた。いち早くそれに気付き、客間のベッドへ運び世話を焼いてくれたのは他でも無いナマエだ。ヴィンセントを呼んでくる、と部屋を出た背中に声を掛けようとしてやめた。
 きっとヴィンセント様は見舞ってなどくれない。でも、もしかしたらナマエ様に似ている彼女がお願いすれば来てくれるかも。
 どきどきと落ち着かない心で待っていると扉が開き、覗いた顔にレイチェルは泣きそうになった。
「ヴィンセント様...!」
「体調はどうだい」
「ええ、ええ、良くなりました」
 優しく微笑み掛けてくれるヴィンセントに、レイチェルの心は羽が生えたように軽くなる。しかしそれは一瞬のことで、高く舞い上がった心は羽を太陽で焼かれ地に落ちた。
「君は最近よく体調を崩すようになった。シエルにはまだ教えることもあるし、俺はこの館に移る。君はあの館で療養するんだ」
「......はい...」
 異論を唱えることなど出来るはずも無かった。体調を崩しやすくなったのは本当だし、朝方の止まらない咳は、隣室と言えどヴィンセントの眠りを妨げたろう。実家に返されないだけマシなのだ。
 レイチェルの返事を聞くとヴィンセントは満足そうに頷いた。
「今日はきついだろうから、泊まっていきなさい。後で食事を持ってこさせよう」
「ありがとうございます...」
 ヴィンセントが出ていくと途端に寂しさに襲われた。夫の心は二度と自分のもとに戻ってはこない。それならばこれ以上嫌われないようにするしかないのだと。
 食事を運んで来たのはメイドではなくナマエだった。身体を起こす手伝いをし、甘えてくださいと料理を口へ運ぶ。
「あなたは優しいのね」
 レイチェルの言葉にぱちぱちと瞬いた後、ナマエは手にしていた食器をサイドチェストに置いた。
「わたしが尊敬している大好きな人は、奥様の家族もとても大切にしています。わたしもそうありたいのです」
 若くして成熟したナマエの考えにレイチェルは感心した。
 彼女になら、二人を任せられる。
「ナマエ。シエルと、ヴィンセント様を頼みますね」
「はい」
 ナマエがしっかりと頷いた安心からか、レイチェルは急な眠気に襲われる。手を借りながら横になるとすぐに意識は闇へと落ちた。

 レイチェルが目覚めると、室内はすっかり暗くなっていた。カーテンの向こうにあるより濃い闇に、先程の寂しさがぶり返してくる。日が昇った先に待つのはヴィンセントとの別れだ。
 最後の日くらいは共に眠りたい。迷惑だろうか。拒絶されるだろうか。
 淡い願いを抱き葛藤するレイチェルの耳に、隣室からくしゃみが聞こえてきた。何の変哲もないくしゃみだが、絶対的におかしいそれにレイチェルは凍りつく。階段から一番近い部屋がレイチェル、再奥の部屋がシエルとナマエの寝室だ。その間に位置する隣室にはヴィンセントが眠っているはずなのに、聞こえてきたくしゃみはシエルのものだった。
 レイチェルは浮かんだ疑惑に顔を顰める。嘘に決まってる、それを確かめに行くためだと、レイチェルは脚を床に下ろした。
 一歩進む度に鼓動が早くなる。
 長い時間を掛けて辿り着いた扉の前で、ベッドの軋む音にレイチェルは唾を飲み下す。静かにドアノブを捻り隙間から覗くと、艶かしい男女の姿態がベッドの上で月明かりに照らされていた。
「ヴィンセント様」
 甘い声で紡がれた夫の名に驚き、レイチェルが離したドアは音を立てて開く。
「...そんな...どうして...」
 夫と嫁が通じているなんて。息子の隣で幸せそうに笑っていたじゃない。それを微笑ましそうに見ていたじゃない。どうして、どうして。
「いつか気付かれると思ってはいたけれど...まさか初日にだなんて予想外だったよ。レイチェル」
 情事後だからなのか、この状況が煩わしいのか、ヴィンセントは嘆息し気怠げに言ってのけた。身体を起こすと接合していた部分から水音が鳴り、レイチェルは唇を噛み締める。ヴィンセントはベッドに腰掛けると腰元をシーツで隠し、ナマエの身体にもシーツを掛けた。
 レイチェルは戸惑いと悲しみで身を震わし、ヴィンセントは壁を眺め、ナマエは俯いている。意外にも最初に口を開いたのはナマエだった。
「許しを乞うつもりはありません」
 当然悪びれた様子も無く、レイチェルは目を見開く。それはヴィンセントも同じだった。
 道徳心を最後まで捨てられなかったナマエは、この関係が露見した時、魔法が解けたように泣いて謝るだろうとヴィンセントは思っていた。冷たく言い放つ姿は普段から想像出来ないもので、ナマエらしくもない。それなのにヴィンセントは、ぞくぞくと身の内から湧き上がる喜びにも似た何かを感じた。
「だってわたしは、ヴィンセント様を返してもらっただけですもの」
 ナマエもまた、自分の口から出る言葉とその冷たさに驚いていた。しかし、ヴィンセントのためなら、ヴィンセントと共にいるためなら、どんな悪女にでもなると決めたのだ。
「何を言って...」
「わたしの名前はナマエ。ナマエ・ミョウジ。ヴィンセント様の元婚約者」
 どうやったって勝てない、よく知る女の名にレイチェルは目眩がした。ヴィンセントがそれに追い討ちをかけるように言う。
「やはり俺にはナマエしかいないんだ」
 愛おしげにナマエの頬に触れるヴィンセントに、レイチェルは遂に落涙した。頭の中がぐちゃぐちゃで、じゃれつく姿を見るのも辛くて仕方がない。
「同じ顔をしているだけでしょう...?名前だって、語ってるだけ。ヴィンセント様は自分が救われるためにナマエ様と重ねているだけよ...」
「レイチェル」
 酷く優しいその声が、まるで終わりを告げているようだった。
「彼女はナマエなんだ。俺が何よりも愛し、欲した、可愛いナマエ。神が再び俺たちを引き合わせてくれたんだ」
 あの手紙は、赤いカーネーションは、ヴィンセント様がナマエに送ったもの。
 名を呼び合い深い口付けをする二人に、レイチェルは泣きながら部屋を飛び出す。壁に背を預け腕を組むシエルの姿を認めると、堪らず縋り付いた。
「シエル...!ヴィンセント様とナマエが...!」
 シエルが隣の部屋にいたことも、それが何を意味するのかも、今のレイチェルの思考からは抜け落ちていて、驚いた様子の無いシエルに動揺する。がしがしと頭を掻く姿は、気怠げな態度のヴィンセントに酷く似ていた。
「シエル...?」
「参ったなあ。僕のくしゃみが原因で気付かれたなんて、とても二人には言えない」
 瞠目するレイチェルに、これもまたヴィンセントによく似た笑顔を向けシエルは言った。
「僕が提案したんです。父様と母様が結婚した時のように、僕と儀式的に愛を誓い、思い出深いこの屋敷で二人愛を育めばいいと。僕を産むはずだった母を...ナマエを僕も愛していますから」
「なに、を、言っているの...?」
「彼女は子を身篭ったまま雪山で死んだナマエ・ミョウジですよ。母様は言ったそうですね。ナマエが産んであげられなかった子も一緒に産んだのだと。それが僕ですよ。強い因果で結ばれているから僕達親子は再び巡り会えた。離れ離れだった両親が一緒にいられるよう尽くすのは、息子として当然のことでしょう。二人の想い出が詰まるこの館で、逢瀬を遂げさせたかった」
 20年間一心に愛情を傾け育てた息子の思わぬ告白に、レイチェルは目の前が真っ暗になる。思考も闇に侵食され全ての感覚が失われた。


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