最愛4
 馬鹿な巨乳の女は嫌いだ。
 涼介はしつこく追い回して来る女に心の中で舌を打つ。校門までついてこられては、近くのパーキングに停めた愛車に乗り込むまで逃げ切ることは出来ないだろう。
「わたし処女あげたじゃん!身体の相性だって良かったでしょ!何で付き合ってくれないの!?」
「やる前に言っただろ。付き合わない、一回したら終わりだと」
「まさか本当だとは思わないじゃん!」
 本当のことを言ったのに本当だとは思わなかった?何故同じ言語を使っているのに会話が成り立たない?
 早く名前のところに向かわなければという気持ちが逸り歩くスピードはどんどん上がる。
「いいかげんしつこいぞ。俺はもう遊ぶのはやめたんだ」
「涼介くん、本当に遊んでたんだ」
「っ!?」
 鈴のように軽やかな名前の声が好きだった。俺を映す瞳はいつだってきらきらと輝いていたのに、それが今は鳴りを潜めている。いや、俺のせいで失われたのかもしれない。何故ここに、なんてどうでもよくて、今の言葉を聞かれていた方が大問題だ。
「名前...」
「来ないでっ!」
 名前からの拒絶に涼介は頭の中が真っ白になる。それなのに胸の奥では黒い靄が産まれ、むくむくと大きくなっていく。
「待て、違うんだ、名前。聞いてくれ」
「処女キラーで一回したら関係は終わり。これに間違いある?」
「っ...」
「何も、間違ってないじゃん」
 名前の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れていく。名前がこの酷い話が真実だと受け入れた瞬間だった。
 涼介は自分だけが拭うことを許されるその涙に触れようと手を伸ばすが、明確な意思を持つ名前の手によってはじかれた。
「触らないで!」
「名前...」
「わたしも一回したら捨てるつもりだった?」
「名前、」
「高校卒業するまでは責任取れないからしない?ガキが孕んだらやばいとでも思ってたんでしょ!?」
「名前っっ!!!」
 乱暴に掴まれた肩の痛みで名前は我に返る。涼介を見上げた名前の表情は怯えきっていた。初めて向けられたそんな表情に涼介は絶望し、手の力が緩んだ隙に名前は後退る。
「ばいばい」
 呪いのような言葉を残して走り去る名前の姿はみるみる小さくなり、やがて見えなくなった。涼介の脚は根が生えたかのようにその場から動けない。隣にいる女も流石に声を発することを躊躇っているようだ。涼介の頭は変に冷静になる。
 何故名前はここにいたのか。俺に真相を確かめに来たんだ。俺から会いに行って謝って、傷付けるのを覚悟で真実を話すと決めていた。それなのに校門の近くで始めてしまった犬の糞よりも下らない会話を聞かれた。最悪だ。この世の終わり。
「っ、くそっ!」
 どうする、どうする。会いに行っても会ってくれず、拒絶されるのは決定事項だ。
「おい」
「えっ、わたし?」
 呼ばれたことに驚きつつ女は聞き返す。
「俺を殴れ」
「は?何で?」
「お前とは付き合えない。だから気が済むまで殴れ」
 女は綺麗な顔を、と躊躇ったが酷い男に処女を捧げてしまったと思えば案外何でも出来そうだと、脱いだヒールを手に持つ。構えてしまえば躊躇いは吹き飛び、力一杯涼介の頬を打った。流石に踵を使いはしなかったが、鋭い痛みが頬に走り口の中が切れたのか嫌な鉄の味が広がる。反動でよろめいた脚が動くことを確認して涼介はそのまま近くのパーキングへと向かう。その場には女と途中から集まっていた見物人が取り残されていた。

「名前、啓介くん来たよ」
 ドアの外からする母の声に会いたくない、と返せば、そう、と短く返事が返って来て母は部屋の前を離れる。暫くすると断り無くドアが開かれて、包まっていた布団を剥ぎ取られた。その勢いでベッドから落ちた名前は床に頭を盛大に打ち付け痛みに悶える。慌てる声は母のものではなかった。
「啓介...勝手に部屋入って来ないでよ...」
 寝転んだまま頭を押さえて見上げれば、ますます巨人に見える啓介が微妙な顔をして立っている。啓介はベッドから落ちて痛がる名前に謝ればいいのか、兄と何か良くないことがあったことは分かっているから慰めたほうがいいのか、考えても答えは出ずに結局どちらもしなかった。
「これ、兄貴から。とにかく会って話してくれって」
 啓介の手には紺色のリングケースがあった。名前の手を引き身体を起こさせるとそのまま掌にそれを乗せる。
「開けてみろよ」
 促されて開けたそこにはやはりリングが鎮座していた。一つの宝石がキラキラと電気の光を反射し瞬いている。

"My dearest."

「なに、これ」
 名前は自分の口から零れた低い声に驚く。それは啓介も同じだった。すっ、と身体がどんどん冷えていくのを名前は感じる。
 リングの内側に刻まれた、信憑性の欠片も無く、馬鹿らしい文字に名前は笑った。
「最愛ねえ...。ふふっ、ああ、夢が覚めたんだ」
「...名前?」
「啓介これ返してて。わたしはいらない。全部全部最初から夢だったんだよ。啓介とも、あの人と出逢ったのもぜーんぶ、夢だったの。夢なんだから無かったことなんだよ、そうでしょ?」
  この二日で随分冷めた表情と口調になった名前に啓介は掛ける言葉が見つからない。ただでさえ口下手で喋りは全て涼介に任せてきた。それでいいと思っていたし、困ったことはあっても仕方ないと思っていた。それが今は後悔にしかならない。何故弱っていく幼馴染みにそれらしい言葉を投げ掛けてやれないのか。
「名前。お前と兄貴の間に何があったのかは知らねえし、二人が話したくないなら一生聞かない。でも兄貴がする事には必ず何か理由がある。その理由くらいは聞いてみてもいいんじゃねえか」
「...啓介、聞いてないんだ。あの人が何してたのか」
 掌でリングケースを弄ぶのは本当にあの幼馴染みなのか啓介は恐怖さえ感じ始めていた。暗く濁った瞳、聞いたことのない抑揚の無い低い声はどこか愉快さを滲ませている。
「わたしのことずっと好きだったって言ったのに、処女だけ選んでやってたらしいよ。告白してきた人に一晩だけならって言って」
「なっ」
 啓介が驚きに目を剥いている間にドアを開くと、名前は啓介の巨体を力一杯押して部屋の外へと出し、ドアを閉める直前にリングケースを放った。
「啓介、そんな人でも尊敬出来る?信じられる?わたしはもう何もかも忘れるから。ばいばい」
 腕を伸ばせばドアに届くのに身体が動かなかった。ゆっくりと閉じたドアは沈黙し何も語らない。啓介は階下から覗いていた名前の母親に気付くと階段を降りる。
「名前がああなったの兄貴のせいなんです。本当にすみません。でも絶対に俺がなんとかします。だから今は何も聞かないでやってください。お願いします」
「大丈夫、きっと大丈夫よ」
 啓介は頷き頭を深く下げると家路を急いだ。仰ぎ見た夜空は名前の心に巣食う闇を映しているようだ。このままでは名前はそう日を待たずに体調を崩すだろう。闇がより深くなれば、考えたくもないが良くないことだって起きてしまうかもしれない。その前にどうにかしなけらばならない。啓介は一大決心をして走り出す。家の門を抜け、玄関で靴も揃えず階段を駆け上がる。乱暴に兄の部屋に踏み入ると振り返った尊敬すべき兄の顔を思いっ切り殴った。椅子ごと吹き飛んだ涼介は少し身体を起こすが再び横たわる。
「名前から聞いたよ。兄貴がそんな奴だとは思わなかった。兄貴がすることには全部理由があるから、きっとそれも理由があったんだろうって考えるけどやっぱ分かんねえし、どんな理由だとしてもそれは間違ってると思う。あいつこのままじゃ壊れるぞ。もう兄貴のこと名前で呼ばないで、あの人ってすげえ冷たい声で言うんだ。俺や兄貴と出逢ったのは全部夢で、無かったことだって。もう俺達の知ってるあいつはいなくなっちまう」
 啓介は手の中のリングケースを机の上に置くと部屋を出た。派手な物音を聞き駆け付けた母が何か言っているが無視して自室へと戻る。啓介の机の上には大切に飾られている写真があった。涼介、啓介、緒美、それから名前、幼い頃に四人で撮った写真。いとこ同士の三人に名前が加わるようになってすぐの、脚にギブスを付けて一人だけ椅子に座らされ写真を撮ることにむくれる名前とそれを笑う三人が並んでいる。いつもなら笑えるこの写真も今は全く笑えない。
「何でこうなっちまったかなあ」
 歯車が狂い始めたのはいつだったのか。涼介と名前が付き合った日か、涼介が間違いを起こした日か、それとも出会ってしまったあの日なのか。いくら考えても啓介にはやはり分からなかった。



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