終焉-finale- DIO
 「あなたの発音がとっても綺麗なの、不馴れなわたしにも分かるわ。教えてくれない?」
 あまりにも気軽に声を掛けられてディオは瞠目した。
 革命が遅く、いつ敵になるかも分からない他国に教えを乞う小さな島国から来た留学生。イエローモンキー、しかもメスと馬鹿にしていたが、十分に綺麗な発音で拍子抜けした。
「ペンって上手く書けないの」
「角度が悪い。少し寝かせて書け」
「扉の押し引きに慣れなくてよくぶつかる」
「だから額にコブがあるのか。馬鹿だな」
「白夜でいつまでも明るいし、最近眠れない」
「驚いたな。お前がそんなに繊細だったとは」
「ホームシックのレディには優しくするものよ」
「レディ?誰が?」
 日々の些細な言葉のやり取りが楽しく、利害のためじゃない誰かとの触れ合いが心地良い。
「名前」
「...え...なに...?」
 口付けられた頬を押さえて名前は戸惑う。東京を発つ前に頬への接吻や抱擁を挨拶として行う国があると聞いてはいたが、寄宿先の家族に最近されるようになったばかりで友人にされるのは初めてだ。
「......挨拶だ」
「......さっきから一緒にいるのにいきなり挨拶?」
「別にいいだろ」
「変なの」
 くすくすと笑う名前にディオは口を尖らせる。
 人へ愛情の類を抱いたことなど無く、その伝え方が分からない。もっと素直になればいいだけだとは分かっている。しかし早く伝えなければ名前が国に帰ってしまうと、そう思うほどに焦り悪態ばかりが口を衝き上手くいかない。
「そうだ、借りた本読み終わったの。もし良かったらまた何か貸してくれる?」
「ああ...自分で見繕いに来い」
「えっ、お家に行ってもいいの?着物着てこっと」
「そのままでいいだろ」
「初めて会う時に着物着てると皆サービスしてくれるから」
 名前は悪戯な笑みで最近会得したウィンクを披露する。その仕草も声も心も全て自分のものにしたい。どんな手を使ってでも欲しいものは手に入れる。それがディオ・ブランドーだ。
 その日の授業を全て終え、名前は一度寄宿先の館へ帰った。英国留学に際し世話になっている外交官の実家だ。彼にはその出身校であるヒュー・ハドソン大学で学べるよう便宜まで図ってもらい頭が上がらない。
 名前は一番気に入っている薄桃色の着物を着付けると、メイドに出掛けると伝え、外で待つディオのもとへと急いだ。
「お待たせ。似合う?」
「!」
 初めて見る着物とそれを纏う見慣れない名前に、ディオは瞬きを繰り返す。
「......ディオって口が上手いから、お世辞もたくさん言えると思ったんだけど、よっぽどわたしには言いたくないのね?」
「......ふんっ」
 頬を膨らませる名前にディオは鼻を鳴らす。綺麗だと、ただその一言を伝えられないのがもどかしい。
 ジョースター邸を見上げて名前はぽかんと口を半開きにした。日本の中では裕福な暮らしをしていたほうだが、やはり英国貴族と比べるのはおこがましいようだ。
「レディなんだろ?口を閉じろ」
 馬車から降りたディオに頭を叩かれ隣へ視線を向ける。いつもならただ顔を横に向けただけでは視界に入らない顔がすぐ目の前にあった。
「...名前...」
「あっ!ディオー!」
 熱を孕んだ声を掻き消すそれに、ディオは舌打ちして名前から離れた。
「先に帰るなら言ってくれよ!チームメイトが教えてくれなかったら僕はまだ大学にいたぞ!」
「すまない、ジョジョ。すっかり伝え忘れていたよ。名前の家の馬車に乗せてもらったんだ」
「っ、あ...や、やあ、名前」
 名前は建物と同じく聳え立つような男を仰ぎ見る。いつもの快活さが無くディオはその表情を窺った。
「名前?──!」
「...こんにちは、ジョナサン」
 仄かに頬を染める名前にディオは言葉を失った。
 今まで嫌というほど女達から自分に向けられた視線。たった一人名前にだけ向けて欲しい、いつかそうなるはずだったその視線の行先は俺じゃない。名前、何故俺を求めてくれないんだ。

 白いナイトドレスを月明かりに照らし、ぼうっと浮かんでいる様は、ヴァンパイアよりゴーストと呼ぶ方がしっくりきた。
 思い浮かぶのは海を眺める名前の後ろ姿ばかりだ。白く透き通る項には、情事の時につけた傷の一つも無い。処女を奪う前に吸血鬼にすれば、抱く度に突き破る征服感を味わえるかと思ったが、やはり純潔は特別なもののようでそうはいかなかった。
 あれだけ気恥ずかしく伝えられなかった、歯の浮くような台詞がするすると口から出る。それなのに名前の心には届かない。それならば雌としての本能を呼び覚まし、己無しでは生きていけなくさせてやろうと、嫌がるのを押さえつけ幾度も身体を繋げたが、心の繋がりの無い性交に女の身体が喜ぶことはなかった。
 もっと早く素直に好意を伝えていたなら、ジョナサンではなくわたしを愛してくれただろうか。甘やかな夜を二人で紡ぐことができただろうか。
 DIOは月明かり差し込む植物園で、ひしめき合い咲くそれを眺めていた。名前へと想いを馳せる時、エリカの花に与えられた言葉の意味を知る。悠久の時を生きる吸血鬼が、支配する闇夜の静けさを寂しいと感じるのだ。心から欲し同じ吸血鬼にした唯一無二の存在に代わりなど無く、いつまでもその孤独が埋められることは無い。人間の心を捨てると決めたはずなのに、愛しい女を想えば吸血鬼はただの人間の男になってしまう。
 DIOの荒野のような心には、強風に煽られ今にも倒れてしまいそうなエリカが咲いている。ブライダルヒースと呼ばれる白に桃を混ぜた淡色の花は、着物を着た名前によく似ている。荒野で名前を探す度、灰となって消えた身体が存在を主張するように、可憐な花は一つずつ増えた。
「名前...」
 テレンスが室温を調節していることに加え、DIOが醸し出す冷気のような何かのおかげで、高温多湿に弱いブライダルヒースも見事に花を咲かせている。涼やかな花弁に触れると孤独感は一層増した。
「DIO様」
 扉の外からの呼び掛けにDIOは顔を顰める。ここにいる間は声を掛けるなと、優秀な執事と認めているテレンスにはきつく伝えていたからだ。
「言いつけを破り申し訳ありません。しかしどうか、この写真をご確認いただきたいのです」
 部屋に籠ると宣言する時のように興奮を滲ませた声で言われ、DIOは嘆息し植物園を出る。そこには普段の引き締まった表情ではなく、頬を上気させるテレンスがいた。
「これを」
 テレンスが差し出した写真を受け取り視線を落とすと、DIOは珍しく言葉を失った。そのままテレンスの横を通り過ぎ、三階の寝室へ辿り着くと、ベッド脇のサイドチェストの上の水晶に茨を絡める。
 DIOが持つ写真と水晶、そして水晶の隣に飾られた古い写真。全てに同じ少女が映っていた。この世の全てを手に入れられるDIOが、いくら欲しても手に入れられないあの世のもの。遠い日に消え去った愛しい存在がこの世に舞い戻ってきた。
 奇跡なんて馬鹿らしい言葉は嫌いだが、この素晴らしい巡り会いを一瞬そう名付けた。しかしすぐに、これは引力だと考えを改める。憎きジョースター家と、愛しい名前、それがわたしと引き合わせた。
 今度こそジョースターの血を絶やし、名前を手に入れる。そして共に天国へ向かうのだ。
 DIOは高らかに笑い優秀な執事を振り返った。
「さすがだテレンス。よくわたしが求める女だと分かったな」
「執事として当然のことでございます」
 テレンスはDIOの部屋を掃除する際に、いつも楯に収められた写真を見ていた。恨みを込め傷付けられた男の顔とは違い、主人と少女だけは百年の時を感じさせる劣化も無く綺麗なままだ。夜を統べその支配を世界へ広げようとしている主人が、時折見せる切ない表情と似合わず育てているエリカ。報告書に同封されていた写真を目にした瞬間、テレンスは植物園へと駆け出していた。
 DIOはベッドに腰掛け水晶をじっと見つめる。思わず頬を緩めそうになった時、名前の姿が黒に覆い隠された。男の背中だ。
 ゾワッ
 テレンスの背を恐れが一気に駆け上がった。それは水晶の中の人物も同じで、名前の肩を抱くと周囲を警戒する仕草を見せる。大人しく腕の中に収まる名前はあの日と何も変わっていない。仄かに頬を染め、ディオが自分に向けて欲しいと願った視線をジョナサンの末裔、空条承太郎に向けていた。
 やはりその視線の行先はわたしじゃない。名前、何故、わたしを求めてくれないんだ。


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