
Bookso beautiful yet terrific.
やってしまったと内心呟きながら数枚ほどの紙切れを意味もなく何回も眺める。4月に入ってからは会社の新入生歓迎会やら中学校の同窓会やら友人達と飲み会、挙げ句の果てには外食続きのランチとディナーのせいで紙切れには自業自得と言える結果が示されていた。血圧、糖尿、コレステロールにおいてHと堂々の印字。しかも、1番下の備考欄には医療機関へ受診してくださいと付け加えられているではないか。
「赤司さんでも健康診断で引っかかることあるんですね」
俺の隣で無遠慮に紙切れを覗き見していた部下が必死に声を押し殺しながら笑っている。ぶるぶると震える肩が部下の笑う度数を示していた。
「メタボリックシンドロームと書かれている奴に言われたくないな」
「あ!それ言っちゃいます?俺、これでも気にしてるのに」
「昼休みになった途端、てんやにすき家に吉野家に松屋にマックにケンタッキーに走る奴がとても気にしてるとは思えないが」
「赤司さんも俺のこと言えないじゃないっすか。俺の昼休みにいつもくっついて来るくせに」
確かに部下のことは言えない。思わず溜息を吐くと部下は苦笑いを浮かべながら再び口を開いた。
「俺が通院してる病院なんですけど、赤司さんもどうっすか?大きな総合病院なんで待ち時間は長いんですけど、超おすすめです!」
「特別腕の良い医師でもいるのか?」
「いやー、特に聞いたことないっすけど。でも、俺を担当してくれる女医が超美人で!ね?行く気になるでしょ?」
なんて不純な動機なんだ。言葉では言わず目で訴えるが部下に気にする素振りは見られない。しかし、動機はどうであれ部下は生活習慣病の改善のため通院しているので行く価値はある。残念ながら部下には改善の気配すら感じられないが。
「分かった、行ってみるよ」
「美人でめっちゃ冷めてる先生だけど丁寧に診てくれますよ!あ、ところで今晩、焼肉なんてどうっすか?」
おまえ生活習慣病舐めるなよ。言葉では言わず目で訴えるが今度は部下に伝わったらしい。部下は苦笑いを浮かべながらスススと俺の側からいなくなったのだった。
有り余るほどある有休を使い平日の昼間に部下に紹介された例の総合病院へやって来た。受付で、予約ではなく初診なので医師は選べず予約患者の合間に呼ばれる旨を説明されて待合室で待ちぼうけを食らっている。この病院では生活習慣病の改善に力を入れているだけあって年配者から若者など幅広い患者が自分の順番を待っていた。院内の掲示板には禁煙外来の張り出しまであるので何でも科があるものだと感心する。そんなこんなで長いこと待たされているとようやく電光掲示板に受付番号が表示したので診察室へ足を運ぶ。白を基調とした清潔感のある診察室には女医があらかじめ渡してあった俺の健康診断の結果を冷たい目で見つめていた。
「赤司さん、ですね?」
「はい」
「どうぞお座りください」
彼女の向かいの椅子に座ると彼女が再び黙る。若干眉間に皺が寄りつつあるので彼女の言いたいことも想像できた。
「まだお若いのに、明らかに数値が高すぎます」
「最近外食が多かったものですから」
「でしょうね」
ぴしゃりと言い放つ彼女にびくりと背筋が震える。医師に言われると自分の食生活の乱れがいかに酷いものであることが現実味を帯びてきた。部下曰く、美人な女医に冷たく言われるのが快感だそうだが、俺には理解できない。
「体型は標準より細身ですけど、何かスポーツでも?」
「体力作りのため、週末には学生時代から欠かさず運動を続けているので」
「そうですか」
質問しては俺の返答を聞きカタカタとキーボードを叩いてはパソコンにカルテを記入する彼女の横顔を見つめながら改めて美人だと認識する。これはもしや部下が言う噂の美人女医に当たったのではないかと考察した。しかし、その美人女医とやらに違和感を覚える。そして違和感の正体は彼女の白衣につけられた名札によってすぐに解決した。
「あの、変なことお聞きしますが」
キーボードを叩いていた指が止まり、訝しげな表情を隠しもせず俺に向けらる。冷たい表情からはかつての明るい笑顔の欠片は全く感じられなかった。
「帝光中の卒業生ですか?」
小学校に入学してから卒業するまで6年間同じクラスだったクラスメイトがいた。彼女は毎年バレンタインデーにはお世話にも上手とは呼べない手作りのケーキをくれ、また、俺の誕生日には必ずおめでとうと言ってくれる。しかも、誕生日が祝日で学校が休みだとわざわざお祝いを言うために電話してくるのだから、今思えば所謂重い子だった。あからさまに向けられる真っ直ぐすぎる俺への好意に当時の俺には受け止めようとするだけでいっぱいいっぱいだったのだろう。ホワイトデーのお返しには俺も不慣れながら手作りの焼き菓子を渡し、彼女の誕生日にはぼそぼそとおめでとうと言ってあげる。そのたびに彼女は花が綻ぶような笑顔を浮かべ、心底嬉しそうにしていた。彼女の猪突猛進とまで呼べるほどの愛情表現には困惑しつつも、心の何処かで驕りもあったと思う。俺がどんなに素っ気ない態度を取っても、きっと彼女は変わらず俺に恋情を抱いたままでいてくれるのだろう、と。
中学校へ入学すると、状況は一変した。彼女も帝光中へ入学したものの、俺とは一度も同じクラスにはならなかった。それどころか、彼女から俺に話しかけに来たことは一度もない。3年間の中で一度だけ話したのは俺が部活のため体育館へ向かおうとして会った中学2年のときだけだった。
「名前」
下駄箱で靴を履き替えていた彼女は俺に名前を呼ばれてゆっくりと振り向いた。その時の彼女は表情をあまり変えることなく口を開いた。
「ああ、赤司くん」
征ちゃん。恋する乙女の表情を隠しもせず俺をそう呼んでは笑顔を浮かべていた彼女。だけど、今の彼女からは微塵も気配を感じられなかった。
「あ、」
だから、言葉に詰まった。困惑した。いや、それよりも、グサリと心臓に刃物が刺されたかのように痛くなる。何かが、音を立ててグラグラと崩れていく。
「何?」
「あ、いや、」
「私、急いでるから」
何の迷いもなく俺に背中を向けてさっさと歩き去って行く彼女の姿に俺はもう一度声をかけようと口を開く。だけど、何を話せばいいのか分からず再び口を噤む。そうこうしているうちに彼女の姿が見えなくなっていった。
それが彼女と話した最後だった。
次の週の平日、俺は再び病院の待合室にいた。今度は前回の診察の時に予約も入れてあったので診察までスムーズに進む。再診の受付を済ませてから15分もしないうちに俺の診察の順番が回ってきた。
「名字先生、この後の検査室空いてるそうです」
「分かりました。予約入れておいていただけますか?」
「はい!」
彼女から指示された看護師がパタパタと足音を立ててその場からいなくなっていく。診察室に入った俺は勝手に椅子に座りながらパソコンに向かう彼女の横顔を見つめた。
「本日は血液検査と尿検査があります。その後、エックス線と心電図も撮らせてください。うちの病院でこれから治療を進めて行くに当たり赤司さんのカルテを作りたいので」
カタカタとキーボードを叩き、つらつらと言葉に述べていくので俺も相槌を打つ。彼女はキーボードを叩く手を止めないままさらりと言ってのけた。
「通院される曜日によりますが、基本的には赤司さんの担当は私が致します。もし、他の医師や病院を希望でしたらいつでも紹介状を出しますので仰ってください」
「名前」
「それでは、また待合室でお待ちください。検査へは看護師が案内致しますので」
「名前!!!」
思いのほか大きな声で彼女の言葉を遮ったせいで辺りには看護師達が驚いたように俺達を見る。一方彼女は短く息を吐き、取り乱すことなく口を開いた。
「ここでは他の患者様のご迷惑になります。言いたいことはあると思いますが、勤務終了後にしていただけませんか?」
酷く冷たい声が耳に残る。彼女が変わったしまったのには理由があるはずだ。だけど、今は何を聞いても答えてはもらえない。
検査を終えて再び診察室に呼ばれると検査結果は2週間後に出ると彼女から説明があった。先に結果が出た血液検査と尿検査からはかなりのコレステロール値や塩分濃度など検出され、それに伴いまず彼女は血圧を下げる薬を処方する。この2週間で血圧がどれくらい下がるか様子見るらしい。
病院を出て薬局に行き薬を貰う。それから時間は過ぎ、夕方6時。俺は病院の近くにあるカフェで一人先に待っていた。すると、勤務を終えた彼女が店にやって来るので俺は彼女が気がつくよう手を上げる。ちらりと俺を見た彼女はスタスタとやって来て俺の向かいの席に座った。
「来てくれてありがとう。まさか、俺と会ってくれるとは思わなかった」
「こうでもしないと、また病院で騒がれても困るから」
彼女は通りすがりの店員にあたたかい麦茶を注文する。すぐに運ばれてきた麦茶のカップに口をつけた。彼女の様子を眺めながら俺はすっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜る。2回目の診察の時に彼女はこのカフェに来るよう言っていたが、彼女からは何か話す気はなさそうだ。ところが、俺も正直何を話していいか分からない。元々は彼女がいつも明るく話しかけてくれたから俺も会話ができたのであり、あまり自分から話すのが得意ではないのだ。それなのに俺は彼女と会って何をしようとしているのだろうか。彼女の迷惑を考えず、俺は、ただ。
「何か、あったのか?」
無意識のうちに口をついて出た言葉はそれだった。ピタリと彼女の動きが止まる。彼女はカップをテーブルの上に置きながら口を開いた。
「何か、とは?」
彼女からの質問の返しに今度は俺が黙る。聞きたいことは確かにあった。何故中学生の時に突然態度が変わってしまったのか、と。しかし、俺への好意が感じられなくなったなんぞ言えるわけがない。もしも、彼女が最初から俺に対して好意を持っていなかったとしたら、俺の行動はただの自惚れだ。
「いや、なんでもない」
苦し紛れに引き下がると彼女はじっと俺を見つめる。すぐに僅かに緩められた表情に俺の胸の中に火傷するくらい熱い何かが湧き起こった。
「外食、ほどほどにした方がいいよ。そうしないと、2週間で血圧も塩分も下がらないし、これ以上糖尿も悪化したら通院する頻度も多くなる。アルコールも1日1合ならいいけど、まぁ、飲まないに越したことはないかな。早く治したいのであれば」
淡々と言われたアドバイスだけど、診察室で話した時よりは幾分か口調が穏やかだった。俺が相槌を打つと彼女は俺から視線を外して腕時計を見る。
「何か他に言いたいこと、ある?」
そんなこと突然言われても困る。会って数分もしないのに話が弾むほど俺は器用な人間ではない。
「また、会ってくれるのか?」
「会うわよ。だって、主治医だもの」
そういうことではない。でも、これ以上口にすることはできなかった。いや、させてもらえないと言う方が正しいのだろう。彼女はお先にと言ってスッと席を立つ。歩き去って行く後ろ姿は最後に話した中学生の時と重なる。細身のワンピースの下にあるスポーツメーカーのスニーカーに違和感を感じた。
何度も通院するに連れて違和感の正体に気がついた。彼女は会うたびに白衣の下に隠されたお腹がどんどん大きくなっている。それと同時に一つ一つの動作も緩やかになっていた。彼女に診てもらっているおかげで血圧など生活習慣病に関わる数値が下がりつつある。昼食も外食ではなく自分で弁当を作って持参しているので健康的だろう。ちなみに、部下の分もついでに作ってやっている。始めこそ部下は文句たらたらではあったが、今では自分でも手作りの弁当を作っては俺に披露してくれるようになった。メタボリックシンドロームだった部下もかなり減量している。
「彼、ずいぶんと健康的になりましたね。良い上司を持って幸せですよ、きっと」
相変わらず壁のある言葉使いではあるが彼女とは世間話程度の会話をするようになった。だけど、あの日以来、通院以外では会ったことはない。
「次回から医師が交代しますのでご理解のほどいただきますようお願い申し上げます」
いつもカタカタとキーボードを叩くだけだった横顔が珍しく俺に向き直りきちんと頭を下げている。彼女と再会してから季節は次々と去って行った。きっと彼女と会うことはもうないのだろう。
「分かりました。今まで、ありがとう」
彼女の頬が僅かに緩む。俺はその表情に思わず口を開くが、声には出さずまた口を閉じたのだった。
あれから主治医が変わってもきちんと通院を続けている。部下は美人女医ではなくおっさん医師に変わったことに不満を漏らしながらも通院していた。ちなみに、部下は週末になると俺と共に皇居ランナーと化しているのだから人ってよく分からない。そんなこんなで再び季節が巡った頃、今度は小学校の同窓会が開かれた。
出席者名簿に彼女は不参加となっていた。彼女の名前の隣には(旧姓 名字)と表示されている。分かりきっていた表示に内心沈みながらも俺は受付を済ませて同窓会が行われているホールへ進む。ホテルのパーティーホール一室を貸り盛大に開かれている同窓会はとても賑やかで楽しそうだった。口々に名前を呼ばれて俺もかつての友人達との輪に入り懐かしさに溶けてゆく。おかげさまで楽しい時間が過ぎるのが早く感じていた。
「いやー、それにしても、まさか赤司が独身で名字が先に結婚しちゃうなんて、人生って分からないものだな」
「あんなに征ちゃん征ちゃんって言ってた名字が」
俺は友人達に曖昧に笑って返す。しかし、その笑みはとある友人の言葉によって凍りついた。
「でもさ、こう言っちゃなんだが、赤司も大変だったよな。本当は名字にストーカーされて困ってたんだろ?」
背筋が凍る。頭にガンガンと鈍い音で叩かれる錯覚がする。胸が張り裂けそうになるほど痛い。俺は必死に平静を装いながら震えそうになる口を開いた。
「誰が、そんなことを?」
「中学の頃、噂で持ちきりだったぜ。まぁ、バスケ部の奴等は練習がきつくてそれどころじゃなかったし、赤司が知らなくても当然か。というか、赤司が名字にストーカーされて困ってるって言い出したんじゃなかったか?」
確かに彼女の真っ直ぐすぎる好意に困惑していたが嫌ではなかった。俺は寧ろ、彼女のことが。
「それで、名字っていじめられて、途中から不登校になったんだよな。でも、あいつ、今は医者だっけ?不登校のくせに大学まで行けたのかよって」
ゲラゲラと笑う友人の胸倉を思わず掴んだ。周りにいた女子達が悲鳴をあげる。俺を止めようと別の友人達が俺達の間に割って入った。
「彼女のことを、バカにするな」
テーブルの上に並べられていた食器がいくつか床に落ちては割れていく。その壊れた音は彼女の笑顔が消えた瞬間と重なるものがあった。彼女はどんな思いで噂話を聞いたのだろう。不登校になってしまうまでの間、彼女は。そこでハッとした。彼女はあの噂話を聞いた瞬間から、俺の顔など見たくもなかったのだ。
「おい!赤司!やめろって!」
友人達の静止が耳に入ったわけではない。俺の手は力をなくし相手の胸倉を離した。天国から地獄、まさにこのこと。つまり、彼女の笑顔を失くした原因は俺だったのだから。
煮え切らない態度を繰り返した俺が彼女から明るさを奪ってしまった。そして、彼女ともう二度と会うことは叶わないので俺は彼女に対して謝る機会もない。
「俺、おっさん医師に聞いたんすけど、名字先生、出産を機に退職したんですって。あーあ、まさか美人女医が人妻美人女医だったとは」
ある日の週末、部下は皇居ランナーに備えるべく準備運動していた。一方俺は適当な相槌を打つだけにとどめておく。
「一度でいいから笑った顔とか見たかったな。あの人、笑ったら絶対かわいいと思うっす」
「そうだろうな」
「でしょでしょ!また何処かで会えないかな。そしたら、今度はナンパしよう!人妻でもワンチャンあるかもしれないし!」
「ワンチャンなんかない」
「えー?そうかなー?」
「彼女はそんな軽い奴ではないからな。だからこそ、俺は名前のことを愛している」
先にスタートを切って走り出した俺の後ろを部下は何やら喚きながら慌てて追いかけてくる。みるみる開く部下との差は長年運動を続けてきた人間とつい最近運動を始めた人間との差を無情にも表していた。
「ちょっ!?赤司さんっ!?さらっと言ってるけどなんかおかしくねっ!?赤司さーんっ!ねぇちょっとー!赤司さーん止まってぇ!!!」
広い皇居沿いを青空の下走りながら思う。こんなふうに自分の感情を美しくまた醜いと思えるようになったのは彼女の真っ直ぐすぎる好意に触れたからだ。でも、もう遅い。煮え切らない態度を取らず、勇気を出して彼女の愛を受け止めていたならば今頃彼女は俺に笑いかけてくれただろうに。
中学時代の彼女の冷たい表情が頭に浮かんだ。今なら言える。この腕でしっかりと抱きしめて、あの6年間、俺だって彼女のことが好きになっていたのだ、と。
2020.04.15
天国と地獄|救済措置様