Bookso beautiful yet terrific.

 けたたましいサイレンの音が辺りに鳴り響いていた。住宅街の狭い道の間に折り重なるように止まるパトカーと、白い車。その白い車に運ばれていくストレッチャーからはだらりと細い腕が投げ出され、その後を追いかけようと幼い少女が周りの大人達の制止を振り解きながら泣き叫んでいた。

「お姉ちゃん!!!お姉ちゃんっ!!!嫌だ!!!嫌だ!!!離して!!!お姉ちゃんを助けてっ!!!」

 その光景が頭から離れないまま俺は無我夢中で手を伸ばしていた。目の前の小さな身体を抱きしめて目をぎゅっと瞑る。同時に耳をつんざくような悲鳴と激しいブレーキ音が辺りに響いた。


 ピ、ピ、ピ、と規則正しいリズムで刻まれる電子音が耳に入りそうっと目を開ける。真っ白い天井にここが病院だとすぐに気がついた。すると、周りに居合わせた数人の人達が何やら口々に言っては俺の元へ駆け寄って来る。俺の身体にしがみつくように抱きしめながらぐすぐす泣く母親に、普段穏やかな表情しか見せなかった父親が泣くのを堪えて俺の頭を乱暴に撫でたり、姉達が口々に良かったと安堵の声を出しながらもハンカチで目頭を押さえていた。父方と母方の祖父母も両家揃って病室に居る。それから数分もしない間に俺の家族にナースコールで呼ばれた医師と看護師がやって来て俺の容態を確認し、医師も安堵の表情を見せながら家族に異常ないと告げ、簡単な挨拶をしてから病室から出て行った。看護師は俺の腕に繋がれた点滴を確認したり、検温をパソコンに記録しながら落ち着いたねと朗らかな笑顔を浮かべながら声をかけてくれた。その後は退院までの流れと後日検査があるからと事務的な話を済ませて看護師も病室から退室して行った。
 残された俺の家族達は再び喜びを露わにさせながらベッドの周りを取り囲んで談笑を始める。だけど、俺には目を覚ましてからずっと気がかりなことがあった。

「ねぇ、あの子は?」

恐る恐る尋ねた言葉は情けないほど震えている。再び脳裏に過る少女の叫び声がやけに耳に残っていた。


 目を覚ましてから次の日に精密検査し、それから二日くらいしてから個室から大部屋に移された。整形外科病棟のベッドは珍しく空いてるらしく大部屋なのに同室の患者はいない。お見舞いに来てくれた家族も俺が無事に退院できそうだと分かるとそれぞれが安堵し、お見舞いの頻度も落ち着いた。再び全員揃って現れるのは俺が退院する日だと思う。母親だけは俺の着替えなど取りに来るのでせっせと足繁くやって来るが。
 そんなこんなで人生で初めての入院ライフに慣れつつあったある日のこと、大部屋にパジャマ姿の男の子が走ってやって来た。

「ご、ごめんなさいいいっ!!!」

泣きながら、しかも鼻水まで垂らしながら少年は俺の身体に襲撃するかのように抱きついてきた。少年の無事に嬉しいけど、今は素直に喜べない。肋骨がめっちゃ痛い、いや、めちゃくちゃ痛いんだけどこれ。

「分かった、分かったから、もう大丈夫だよ。それより、君は?痛い所とか、ないの?」

少年は俺の入院着にぐりぐりと顔を押しつけてから顔をあげて力強く頷く。

「お兄さんのおかげで、僕は平気だよ!」

ぐちゃぐちゃの顔でうんうんと頷きながら言う少年にとりあえず安堵。でも、こいつ、ちゃっかり俺の入院着で顔拭きやがったと内心苦笑い。

「退院はいつできるの?」

「えっとね、」

少年は一生懸命考えながら両手の指を順番に折り、それからまた顔を上げてにっこりと笑った。

「あと五日!先生が、喘息も診るからって!」

その時、開けっ放しの入口から無遠慮にスタスタと入って来る若い女医がやって来る。彼女が無表情ながらも眉間に皺を寄せているので俺は思わず背筋を正してしまう。それは少年も同じらしく急に元気の良い態度から一変してしゅんと肩を落とした。

「ごめんなさい」

彼女が何も発せず視線を少年に向けただけなのに少年の口から謝罪が漏れる。か細い声で謝る少年に対し彼女は相変わらず表情を変えず淡々と返した。

「あら、私が言いたいこと分かるようね」

少年は彼女と目を合わせようとしない。彼女は小さく息を吐いてから少年の背中に手を当ててポンポンと軽く叩いた。

「明日は、何も言われてないですよね?」

「え、」

何の脈絡もなく言われた彼女からの言葉に一瞬誰に向けて言われたのか分からなかった。でも、彼女の視線が俺に向けられているので俺に対してであることにようやく気づき、俺は頭の中で看護師に言われた予定を慌てて思い出す。明日は朝に採血を済ませたら後は自由だ。

「特には何もなかったと思いますが」

「だってさ」

俺の返事を聞いた彼女が再び少年の背中を軽く叩きながら口を開く。すると、少年はハッとしてから顔をあげて彼女を見つめる。

「いいの?」

恐る恐る尋ねる少年に対して彼女は少し表情を和らげながら首を縦に振る。それを見た少年は先程のように元気よく表情を輝かせながら俺に振り向いた。

「お兄さん!明日なら来てあげられるから!」

「は?」

「僕、今日はこれから診察なんだ。寂しいと思うけど我慢してね!」

「ちょ、」

「じゃあ、また明日!ばいばーい!」

「え、待っ、」

「先生!早く行こう!」

俺の話を聞かない少年は彼女の手を引っ張ってさっさと大部屋を出て行く。去り際に彼女が小さく頭を下げていった。というか、少年は明日も病室に来るらしい。別に俺、寂しいなんて言ってないしと思いつつもちょっとだけ口は笑っていた。
 次の日、少年は宣言通りに病室にやって来た。母親に買ってもらった折紙やトランプ、将棋盤にチェスなどを携えて。

「名字先生って怖いんだよ。だってさ、いつもね、」

少年はベッド脇の椅子に座り、唇を尖らせながら折紙を折っている。キリンや象を折りながら不貞腐れた顔で口をついて出るのは名字先生とやらの話だけ。どうやら少年はよく名字先生という主治医に怒られているらしい。昨日俺の病室まで現れた女医が例の名字先生だそうだ。ただ、少年が彼女に怒られるのは、検査前に勝手にジュースを飲んだり、病室を抜け出してナースステーションへ遊びに行ったり、小児科病棟以外を出歩いてみたり、話を聞いているとどう考えても自業自得だと思う。そう思いつつもあえて注意するのはやめておいた。

「じゃあ、今度から、俺の病室に来てくれないかな?勿論、先生か看護師さんにちゃんと伝えてから来てね。お兄さん、一人でいるの寂しいし」

寂しくはないがさらりと嘘を吐く。すると素直な少年は俺が寂しがっていると思い込みあっさりと約束してくれた。これで小児科病棟の先生や看護師達は少年を探し易くなっただろう。たぶん。
 結果、彼は退院までの日まで毎日のように俺の病室に現れるようになったのだった。


 年末年始の空港はたくさんの家族連れで大変混み合っていた。地方へ帰省する人々に、海外で新年を迎えようとする人々に、日本へ観光にやって来る人々に、老若男女問わず大勢の人々でロビーは賑わっていた。この日は空港でイベントを催していたこともあり空港のゆるキャラであるソラオくんの着ぐるみを被ったスタッフが子供達に風船を配って歩いていた。
 ちなみにそのソラオくんは、水色の雪だるまみたいなボディに丸眼鏡をかけたキャラクターなのだが、密かに社員達の間ではドラえもんとのび太を足して二で割ったキャラクターにしか見えないと囁かれている。
 その疑惑のソラオくんの背中を眺めながら副操縦士である俺は機長の一歩後ろを歩いていた。共に搭乗するCA達は離陸先である北海道へ着いたら何を食べようかと楽しそうに話しながら歩いていた。ふと、ソラオくんが両手いっぱいに持っていた風船を離してしまいロビーの天井に向かって鮮やかな風景が広がっていく。当のソラオくんは重たい着ぐるみで必死に手足を動かそうとしてジタバタと暴れている。みんなしてソラオくんの奇行に何やってるんだと苦笑いを浮かべた。当然、俺もその内の一人のはずだった。ソラオくんの視線の先には少年が風船を追いかけてガラス扉の向こうを走っていた。しかも、その少年は風船に夢中になっており道路に飛び出し、勿論道路は車が行き交っている。ソラオくんが何を訴えようとしていることに気がついた俺はバッグをその場に投げ捨てて少年に向かって走る。少年まであと少しの所で車が走って来た。それからは夢中で、体当たりするように少年を抱きしめて庇うしかできなかった。車のスピードから逃げられないことは分かっていたので後のことは考えなかった。
 あれから一カ月後、少年が無傷の代わりに肋骨にヒビが入るという代償を負った俺はようやく退院できた。しかし、主治医からは完治するまで絶対安静と診断を貰い会社からも所属するチームの機長からも自宅待機を命じられしばらくは退屈な日々を送ることになった。一方、経過観察と元々の持病の喘息の治療が終わった少年は早々に退院していった。退院する日も俺の元へやって来た少年は今度からは勝手な行動を慎むと宣言していた。本当かどうかは分からないが、今回の一件で自分の不注意と身勝手を反省したらしい。少年の両親にペコペコ謝れ、お詫びとお見舞いにとめちゃくちゃ高価な箱菓子を渡されたので、何となく少年がわがままに育った理由を察した。まぁ、俺がお金持ちのボンボンに対する偏見というだけではあるが。
 自宅で退屈を持て余しているとたまに機長を始めとした会社の人間がお見舞いにやって来てくれた。早く戻っておいでと口を揃えてみんな言ってくれるのでお世辞でも嬉しかった。
 そんなこんなで月日が経った頃、前触れもなくやって来た姉が俺に姪を押しつけて言い出したのである。

「悪いけど、今日の14時からこの子を予防接種に連れてって!」

「は?」

「予約はしてあるから!」

「ちょ、」

「私!今日は絶対に仕事休めないのよ!だから涼太お願い!あなたどうせ暇でしょ!」

じゃあよろしく!と言いながら姪を置き去りにして仕事に向かった姉に向かい、ちょ待てよ!と叫んだが姉の耳には届かない。俺の隣で一連のやり取りを見ていた姪は予防接種の問診票を俺に渡しながら至極冷静に口を開いた。

「保護者の記入欄のところ、叔父ちゃんの名前書いてもらってってママが言ってた」

渡された問診票とボールペンを手に取りながら思わず溜息を吐く。俺ね、今、自宅療養中なんだけど。
 ひょんなことから通院日ではないのに病院へやって来た。総合病院だけあって色んな科があり患者や医師、看護師も大勢で賑わっている。一緒にいた姪は市から配布されてる予防接種の問診票を慣れたように小児科の受付に出し、待合室に座る。他の科は午後も混んでいるが小児科は午後は予約制のようで待合室は俺達を含めて数組しかいなかった。よかった、早く終わる。ホッとしたのも束の間だった。

「嫌あああああ!来ないでえええ!」

え、と思いながら顔をあげると診察室から子供の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。すると、俺の隣にいた姪も先程までの冷静さが嘘のように俺の腕を痛いくらい両手で掴んでぐすぐすと泣き始めた。まるで拷問を受けたかのような泣き叫ぶ子供を抱えながら困り果てた顔をした母親が診察室から出てくる。それと入れ違いになるようにかわいい熊さんの柄が描かれたエプロンをつけた看護師さんが天使の笑顔を浮かべて姪を呼んだ。姪はもう診察室に入る理性もないらしくお化け屋敷へ無理やり入れられる子供のようにぐすぐすから喚くように泣き叫ぶに変わっていた。最終的には看護師さんと二人で力付くで診察室に運び、椅子からひっくり返りそうになるのを何とか堪えながら予防接種の時を待つ。数秒もしないうちにやって来た女医は表情を変えることなく注射器を手に持った。

「名字先生痛くしないでえええ!」

「大丈夫。痛いから」

プス。その瞬間、診察室は地獄絵図へと変わった。小児科医って大変なんだなって思った。いや、本当に。
 診察後、なかなか泣き止まず機嫌を治してくれない姪を院内のカフェに誘い、とりあえず姪の好きなメロンソーダとメロンパンを食べさせて何とか宥めている。そんなこんなで1時間くらいしてからだったと思う。見覚えのある女医がカフェにやって来たのは。

「あ、名字先生だ」

姪がグスグスと泣きながらメロンパンを齧り、彼女を呼ぶ。彼女は注文したコーヒーをカウンターから受け取りながら姪に振り向き、そして、俺とも目があった。


 整形外科に通院するたびに院内のカフェに寄っていたら彼女とよく会うようになった。最初は彼女が主治医を務めていた少年のこと、その次は予防接種で泣き叫んでいた姪のこと、そのまた次は俺の怪我の経過のこと。彼女の休憩時間に少しだけ話す程度なので特別親しいわけではない。ただ、たまたま共通点があった、それだけのこと。事実、彼女は俺と話す時も診察のように表情を変えず淡々と話すだけ。
 彼女と出会ってから数カ月、既に仕事に復帰していた俺もいよいよ通院が終了し、気がつけば病院へ行くこともなくなっていた。別に彼女に通院が終わったことを報告するわけでもなく彼女とは自然と疎遠になっていた。
 だから、本当に驚いた。会社帰りにたまたま立ち寄ったコンビニで彼女と再会したことを。

「家、近所だったんスね。びっくりしたっス」

薄暗くなった細い住宅街を二人揃ってコンビニの袋を持って歩く。彼女は相変わらず表情を変えず事務的に会話に応じるだけだった。航空会社で働いていると周りは自然と社交的な人ばかり集まるので彼女を見ていると暗い人だなんて思ってしまう。根暗ってわけではないと思うけど。
 ふと、後ろから車が走ってきたので俺は彼女の肩に手を置き壁際へ寄せる。俺達の横を通り過ぎた車は狭苦しい住宅街の道の奥へ吸い込まれるように走り去って行った。

「そういえば、昔、この辺で交通事故があって」

俺は彼女の肩から手を離し頭の中に浮かんだ話題を口にしながら歩く。

「中学生が車に轢かれそうになった小学生を庇って事故に遭ったって」

泣き叫ぶ少女の声が今でも忘れらない。周りの大人達の静止を振り切ろうとしながら泣き叫ぶ少女の姿が、当時母親との幼稚園の帰り道だった俺ですら覚えている。それならば、近所に住んでいる彼女だって知っているだろう、安易な考えは彼女の次の言葉で言うべきではないことにようやく気がついた。

「その事故に遭った中学生は、私の姉です」

ギクリとした。恐る恐る見た彼女の表情はいつもと変わらず淡々とした口調で続けた。

「公園で友達とサッカーしていたらボールが公園の外に転がってしまい、私は慌ててボールを追いかけたんです。そうしたら、ボールを追って道路に飛び出した私にたまたま学校帰りだった姉が気づき、身を呈して私を庇い、事故に遭いました。あの事故は、私のせいなんですよ」

なんてことないように言う彼女に俺はどう声をかければいいか分からなかった。迷いは行動に現れて俺の足は止まるが、彼女の足は止まらず歩き続けている。その背中に向かって口を開く。お姉さんはどうなったの?そんなこと聞けるわけがない。代わりに出た言葉は今聞かなくてもいい質問だった。

「名字先生は、どうして医師になったんスか?」

ぴたりと彼女の歩みが止まり、俺に振り向く。薄暗いせいで彼女の表情は分からなかった。

「あの時、父は姉を助けられなかった。私は父のように後悔したくなかったからです」

「お姉さん、を?」

「姉は元から心臓が弱かったんです。事故で負った怪我より、突然負荷がかかった心臓の方が深刻な状況でした」

「名字先生のお父さんも医師なんスか?」

「家は内科を専門としたクリニックなんですよ。私の父もかつて院長を勤めていました。残念ながら、小児科は専門外でしたので、愛する娘の一大事を助けることができませんでしたけど」

専門外、その言葉は酷く冷たく聞こえた。当たり前のことだけど医師にはそれぞれ学んできた専門がある。極端な話、同じ医師でも内科の医師に婦人科系の相談しても無理なわけで。でもそれは医師本人達が1番よく分かっているのだろう。愛する家族が専門外の病気を患ってしまったら自分の手で助けることができない。

「まぁ、専門だったとしても身内の執刀はできないのが医学界の決まりですが。さて、迎えが来たので私はこれで」

暗い気持ちになったまま迎え?と思いながら彼女の後ろを見る。すると再び前を向いた彼女に向かってトトトトと頼りない足音が近づいてきた。

「叔母ちゃんお帰りー!」

「ただいま。ママは?」

「もうすぐ来るよ!それより、この人だーれ?叔母ちゃんの彼氏?」

「いや、それはない」

ばっさりと切り捨てられた言葉にぽかんと口を開ける。急展開すぎる話に俺が着いて行けずにいると薄暗い道の向こうから少女の他にもう一人現れた。

「あら名前、お帰り。この子、名前の帰りを待ってたのよ。それより名前も角に置けないわね!家に彼氏連れて来るだなんて!やるじゃない」

「いや、それはない」

一人勝手にはしゃぎ出す女性に彼女は冷静に否定する。というか、2回も否定されるとちょっと悔しい。少しは照れてくれても良いではないか。俺、これでも元モデルだし。

「勤務先の病院の患者。たまたま住んでいた場所が近所だったの」

「そうだったの!すっごい偶然ね!」

すっかり蚊帳の外にされた俺は若干不貞腐れつつも姉妹の会話を見つめるしかない。そんな俺を余所に彼女は俺に唐突に話題を振ってきた。

「ちなみに、さっき話した事故に遭った姉です」

急展開パート2。待って待って、お姉さんって事故に遭ったあの心臓の弱い人のこと?お父さんが助けられなくて後悔してるあのお姉さん?

「そんなこと話してたの?そうです!私が事故に遭った姉です!」

そうです!私が変なおじさんです!みたいなコメディアンのノリで言われても反応に困りますが。

「ママもお医者さんなんだよ!それでね、パパもお医者さんだし、おじいちゃんとおばあちゃんもお医者さんなの!」

困惑する俺に少女が目をきらきらさせながら説明してくれた、聞いてもないけど。少女の説明に女性も補足してくれた、だから、聞いてないけどね。

「ちなみに、私も夫も内科医なの。専門は循環器よ。私の夫がクリニックの院長を務めているの。今度遊びにいらしてね」

いやいやいや、病院に遊びに行くとは色々とおかしいから!ってツッコミたいけど初対面の人に向かって言えるほど俺の肝は座っていない。

「夫も名前と同じ国立病院に勤務する医師だったんだけど、彼ったら私が実家のクリニックを継ぐ人じゃないと結婚できないと話したら病院辞めちゃったのよ。しかもね、おまえと一緒にいられるなら医師としてのキャリアなんぞ必要ないのだよ!って情熱的なプロポーズしてくれて。もう!真ちゃんったら男前!何度でも惚れちゃうわ!」

きゃーと言いながら両頬を両手で包みながら惚気る女性に対し、彼女は表情を変えないままハイハイと流す。それから彼女は呆気なく、じゃあ私はこれで、と言い残し女性と少女を連れて帰って行った。
 残された俺は頭の中がぼんやりとしつつも無意識に手は動かしていた。スマホを操作し懐かしい名前を見つけて電話をかけると相手は相変わらずの愛想のない声で応じる。

「ああ、もしもし、緑間っち?あのさ、聞きたいことあるんスけど、名字クリニックの現院長って緑間っち?国立病院辞めて、おまえと一緒にいられるなら医師としてのキャリアなんぞ必要ないのだよって奥様にプロポーズしたのって緑間っちのことっスか?」

電話の向こうから盛大に何かを吹き出し、謎の唸り声を上げたあと何も言わずに通話切られたのでどうやらそういうことらしい。いや、本当、熱々で何よりっス。


 なんやかんやあってまさかの彼女の連絡先を知ることになった。残念ながら知ったところで連絡する度胸が俺にあるはずもなく、ただSNSの友達登録がなされてるだけ。
 例の名字クリニックには俺が風邪ひいた時に行くようになり、ちなみに血圧が少し高めと医師に注意されたので月に1度は通院するはめになった。要するに、かかりつけってやつ。

「着陸先で不摂生な食事ばかりしているからその歳で高血圧や糖尿病の予備軍になんかなるのだよ。少しは反省するべきだ。バカめ」

名字クリニックの現院長である中学時代の友人は相変わらず辛辣に言ってきた。しかし、俺も言われっぱなしではいられない。

「青峰っちあたりに緑間っちが奥様にデレデレだって言ってやろうかなぁ」

「い、今!そんな話は関係ないのだよ!」

あからさまに動揺する友人に俺は苦笑いを浮かべる。別に本気で言い振らそうとは思っていない。俺は友人の幸せを心から祝っている。それよりも、だ。

「涼太くん!今日も夕食、食べて行くよね?名前も日勤だからもうすぐ帰ってくるし」

診察室の奥から彼女のお姉さんであり友人の奥様が声をかけてくる。白衣を着ているので勿論まだ仕事中にもかかわらず、そんなことを気にせず夕食のお誘いをしてくるのだから友人は顔を顰めた。

「まだ診察中なのだよ」

「別にいいじゃない。真ちゃんのお友達なんだから」

「ひ、人前で真ちゃん言うな!」

「え?ダメなの?真ちゃんったら照れ屋ね」

といいながらにこにこ笑った奥様は椅子に座る友人の首に腕を絡めながら抱きついた。俺の目の前でもお構いなしだ。呆れるくらい熱々っスね。

「じゃあ、夕食ごちそうになります」

「おい!?黄瀬!?」

「俺、待合室に戻るので。あとはごゆっくり」

「な、ななな」

顔を真っ赤にしながら奥様を引き剥がそうとしている友人を置いて診察室を出る。適当に待合室の席に座ると見慣れた姿が視界に入った。

「名字先生、こんにちは」

時刻はそろそろ18時になろうとしている。名字クリニックも診察終了時間だ。そのクリニックを閉める準備を勤務先の病院から帰宅した彼女が手伝っていた。

「ああ、黄瀬さん。こんにちは」

くるりと俺に振り向いた彼女が表情を変えず挨拶を返す。俺はほとんど勝手知ったるクリニックの閉める作業を手伝い始めた。

「今日も夕食誘われました?」

「そんなところっス」

今日も。その言葉通り、俺はクリニックに通うようになってから毎度夕食を誘われている。名字ファミリーと一緒に食卓を囲むので彼女の姉からはほぼ身内扱いされていた。残念ながらその夫である友人からは嫌そうな顔をされているが。

「もうすぐで診療時間も終わりますし、先にリビングで待っていましょうか」

「いいんですか?」

「はい」

表情を変えないまま手早く閉め作業をしてから彼女が俺にクリニックの隣にある自宅へ行くよう促した。俺は内心ガッツポーズを決めながらも表情には出さないように努めた。
 診療時間が終わり、名字家のリビングでファミリー全員と一緒に夕食を囲んだ。彼女の両親からも名前で呼ばれ、最近どう?なんて言われるからまるで俺もこの家の人間である錯覚に陥る。時折、友人の痛いくらいの視線を感じるがそこは気にしないようにした。ようするに、居心地がいいのだ。彼女の家族と一緒にいるのは。
 何度目かの通院と食事会の後に自宅に帰った俺に友人から連絡が入った。

「いいかげん焦ったいのだよ。はっきりしろ」

「はっきりって、」

「彼女、来週にはアメリカに研修に行くとのことだ」

その言葉にどきりとした。
 別に彼女と恋人同士になりたかったわけではない。最初は入院先の病院に勤務する医師だったし、気がつけばご近所さんで、彼女の家族と一緒に食事する仲になった。和気藹々とした家族の中に一緒にいると俺も楽しくて居心地がよかった。しかし、彼女がアメリカに行くのなら俺がクリニックに通う必要もない。では、何故、俺はクリニックに通っているのか。決して時間に余裕があるわけではない。俺だって航空会社に勤務するパイロットなのだから時間に不規則だし激務だ。それでも、適当に言い訳してなんとか時間を作ってはクリニックに行き、彼女の家にあがりこんで夕食を食べた。その理由は、一体何だというのだろう。
 そこで俺はハッとした。俺は、いつのまにか彼女と一緒に過ごすことが当たり前になっていたのだ。


 結局、彼女はアメリカに旅立った。研修期間は三年だと本人から聞いた。だから、俺は、笑顔で見送った。頑張ってください、俺も頑張るから、と。
 友人からは呆れたように溜息を吐かれた。彼女が留守の間でもクリニックに現れて名字家で夕食を食べるのかと。それに対し、俺はへらりと笑って答えた。

「いつか彼女が帰ってくるまで、待ってようと思って。本人からも、承諾済みだから」

2022.08.04
Title by chocolate sea