Bookso beautiful yet terrific.

 ヴィル曰く、彼女はじゃがいもよりはマシだがあの美しさは不完全で納得がいかないらしい。実際、俺もそのことには気がついていた。彼女はオンボロ寮に住んではいるが身なりにはずいぶんと気を遣っている。皺一つない制服に、手入れの施された髪に、手荒れのない白魚のような手、そしておそろしく整った顔立ち。そこまで見れば完璧だと言いたくなるがヴィルも俺もそれ以外を見て不完全だと判断している。
 ぼんやりと眺めている先には運動場で飛行術の授業に勤しんでいる1年生達の姿がある。真剣に飛行術を物にしようと取り組むデュースに、あっさりと箒に跨り余裕綽々に空を翔けるエース、一方でまだ箒にすら乗れない一部の1年生達は体力作りのために運動場を走らされていた。その中には魔力がない彼女の姿も当然ある。バルガス先生にもう何周走らされたのか分からないが、走っている1年生達はだいぶバテバテになっていた。しかし、長く美しい髪を後ろにきゅっと縛った彼女は表情を変えることなく走ったままだ。やがて、授業が終わると地べたには疲れきった1年生達が死屍累々と寝そべってしまう。それは飛行術を訓練していた者も、運動場を走らされていた者もみんな同じように。いや、彼女だけを除いて。彼女は疲れきったエースとデュースとグリムを宥めつつも彼女自身は地に膝をつけることはなかった。表情筋もいつもと変わらない。いや、寧ろ、今日もいつもと変わらないという表現の方が正しい。

「ヴィルも言っていたよ。彼女、まだ笑わない、ってね」

俺の視線の先に気づいていたルークが当たり前のように運動場を覗き込みながら話してくるので俺は思わず苦笑いを浮かべてみせた。

「確かに笑わないな。というかルーク、おまえのクラスはここじゃあないよな?」

「そこは気にしてはいけないよ」

「ルークは気にしなくても他は気にすると思うが」

にこにこときらきらした笑みを浮かべるルークの脳内には反省の文字はない。もっとも、俺のクラスメイトには神出鬼没のルークに対して疑問に思う人間は誰もいないが。

「彼女のあまり動かない表情筋はまるでドールのように美しい。実にボーテ!」

「俺は笑った顔の方が美しいと思うけどな」

一瞬、ルークの表情から笑みが消える。だけどすぐに笑みを浮かべてみせた。何も言わず曖昧な笑みを。その理由は簡単だ。俺も、ルークも、ヴィルも、もっと言うなら彼女に関わる全ての人間が分かりきっている。彼女が表情筋を崩し心から笑える日が来ることなんて、彼女が元の世界に戻るまで無いのだから。


 笑えばいい、綺麗な顔がもったいない。正直それだけの理由だった。
 何の因果か分からないが、ほぼ手違いに近い形で男だらけの学園に入学するはめになった彼女には心底同情した。俺にしてみればあちらが、彼女にしてみればこちらが異世界になり、訳も分からないまま彼女は自分の知る世界から知らない世界へ閉じ込めれたのだから何かと不便があるので助けてやらねばと思っていたのは事実。学園長は彼女の入学を渋っていたわりにはあっさりと魔法で女生徒用の制服を用意して彼女に与えてしまうのだからある意味危険人物だろう。エースとデュースという名の番犬とグリムという名の飼い猫がいなければ彼女はとっくに男共の餌になっていたに違いない。
 しかし、彼女はただ守られるだけのプリンセスではなかった。
 背筋をまっすぐに伸ばし、意志の強い瞳は先を見据え、常に高貴であろうとする。そして、たまに非道になる。それが彼女という人間だった。


 彼女に関することはわりとほとんど耳に入ってくる。彼女はオンボロ寮に住み、魔獣を飼い慣らし、自身は魔力もないのに名門ナイトレイブンカレッジに入学し当たり前のように1年生として切磋琢磨と学業に励んでいるので学園ではかなりの有名人である。とはいえ、それ以上の情報は他の学園の生徒達には入ってくるわけではない。俺の耳に入るのはそれ以上の情報、つまり、他の生徒達が知り得ない情報である。もっと簡単に言えば、彼女の親友と自負するエースとデュースから聞く彼女が時折溢す世間話程度に含まれる彼女自身の情報のことだ。

「あいつちょっとかわいい顔してるし、魔法も使えないから男に襲われそうになったことが二度も三度も五度もあったんすよ。勿論、俺とついでにデュースが守りましたけど!」

いつぞやのなんでもない日のお茶会でエースが何てことないようにぽろっと話すから流石に驚いた。話を聞いていたリドルは顔を真っ赤にさせてウギギギギ状態になるし、ケイトに関しては何か企んだ顔をするものだから寮長筆頭に何を仕出かすか分からない。勿論、俺だって他寮だし別の世界の人間とはいえ彼女がかわいい後輩の一人には変わりはないのでそんなとんでもない輩がいるのなら今すぐにでも殴り込みに行きたいものだ。しかし、エースの話には続きがあり、襲われかけた彼女がとてもかわいそうでした、というわけではなかった。

「あいつ、元の世界でフェンシングを習ってたんすよ。しかも、趣味が筋トレ。魔法なんか無くてもあいつめっちゃくちゃ強いし。肉弾戦になったらたぶん、か弱い俺も元ヤンのデュースも敵わないっすね。最初に襲われた時なんかその辺にあった鉄パイプで見事に男共を撃退してて寧ろこっちが引いた」

フェンシング?え?あの名前ちゃんが?ケイトが口をパクパクしながら言葉にならない声を溢すが俺も同じ意見である。リドルに至っては腕を組みながら、己を高める努力をしていることは感心だと頷いているがそういう問題ではない。

「襲いかかるたびにあんまりにも返り討ちにするから、今ではあいつに付き纏う挑戦者がいなくなりました」

至極真面目にデュースが言ってのけるのでどうやら彼女の自称親友達の話は本当のことらしい。なるほど。フェンシングを習得しているのならばあの姿勢の良さに納得がいく。まさに、高貴な騎士の姿である。だが、それが彼女のあまり笑わないし大して動かない表情筋の理由にはならない。いや、何度も男共に襲われかければ笑えなくなるだろうが。

「他に、彼女は自分のことを話してないのかい?彼女がここに来るまでにどのような人生を歩んだのか少し興味が湧いてくるね」

リドルの好奇心に火がついたようだ。そのささやか好奇心を見逃してくれないのが厄介な後輩達である。

「えー?もしかして寮長、あいつに惚れちゃいましたー?」

「おいエースやめろってば。大丈夫ですローズハート寮長!このことは絶対に他言無用です!約束します!」

にまにまと笑うエースと、ドンと強く胸を叩くデュースに対してリドルが顔を赤くしてウギギギとなっている。ケイトは特に止めるわけでもなく寧ろおもしろそうに成り行きを見守っていた。

「おまえ達、今すぐ首をはねてあげる!!!」

完全に、おまえの好きな人ってあいつなの?違う!いやいや好きなんだろ?だから違う!みたいなエレメンタリースクールに通う子供達の会話が目の前で起きている。ケイトは苦笑いを浮かべながら俺を見た。つまり、俺にこの状況を止めろと言いたいらしい。

「まぁまぁ。せっかくだから、次回のなんでもない日のパーティーに彼女を招待しようじゃないか。休みの日もオンボロ寮に閉じこもるのは彼女もそうだがグリムもつまらないだろう?」

リドルがまだ顔を赤くしながら違うと騒ぐがそこはもう放っておいていいだろう。しかし、この提案に一番喜ぶかと思っていた後輩二人はみるみる表情を曇らせていった。

「たぶん、無理だと思う」

エースが静かに言う。ケイトが理由を促すと今度はデュースが内緒話をするように声量を下げた。

「エースも俺も前からパーティーに名前を誘っていたのですが、一度も良い返事をしてくれたことがなくて。グリムだけは喜んでやって来ますが。あいつ、休日はずっとオンボロ寮に閉じこもり授業の予習復習に明け暮れてるって、グリムが言ってて」

確かに、彼女の成績は悪くない。この世界に来たばかりだというのに、魔法が使えないというのに、成績は上位にいる。おそらく、誰の力も借りずたった一人で努力しているのだろう。

「一人が好き、なのかな?ああ、でも、オンボロ寮にはゴースト達もいるし、名前ちゃんのペットみたいな存在のグリちゃんもいるから、静かではないのは確かだよね」

沈んだ空気を壊すようにケイトが冗談半分に言ってのけるが一度沈んだ空気はなかなか戻らない。きっとエースもデュースも、おそらくグリムも彼女を笑わせようと毎日必死なのだろう。口は悪いが根は良い奴等なのは二人が入学してきた時から知っている。
 その日以来、親友二人組はこれまで以上に彼女に構うようになった。そのかいあって彼女の表情筋はほんの時折緩むようになったが、はっきり言えば現状は変わっていない。
 やがて、季節は夏がやってくる。そのある日の週末、俺は何故か彼女と一緒に過ごしていたのだった。


 ナイトレイブンカレッジから程近い小さな街にはたくさんの店が連なっている。魔法薬学の材料だったり、魔法がかけられた雑貨専門店だったり。とにかくこの場所は全寮制の我が学園生徒にとってちょっとした憩いの場所だった。
 洋菓子作りの材料調達のため何軒か店を回っていた俺はふと菓子店のテラスが目に入った。街行く人々が暑い暑いと嘆きながら歩いてる中、テラス席に座る見知った顔は姿勢をぴしりと正しながら涼しい顔でティーカップに口をつけている。ティーカップを置いた彼女はフォークを持ち今度は色鮮やかなマカロンを口に入れた。ふっ、と表情が緩む。あの表情筋を崩し、優しい顔をした彼女に俺はどきりとした。笑ったのだ、あの彼女が。それに気づいた瞬間俺は居ても立ってもいられなくなりすぐさま菓子店に入り、テラス席に向かう。そして彼女の時間を邪魔している自覚がないまま勢いに任せて声をかけてしまった。

「マカロン、好きなのか?」

じわじわと暑い空気が漂う中、彼女は暑い素振りを見せずマカロンを味わっている。いや、正しくは俺がやって来たことを気にすることなく味わい続けている。しかし、表情は先程の緩んだものではない。俺の声を耳に入れた瞬間、表情が消える。口の中に入ったままのマカロンを咀嚼し終えた彼女はゆっくりフォークを起き、俺を見据えた。

「好きというわけではありませんが」

「でも、さっきは」

「トレイ先輩は買い出しですか?」

彼女は明らかに話を切り替えた。これ以上は聞いてほしくないといように。

「まぁ、そんなところだよ。ところで、一人か?」

とにかく今は彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。せっかく彼女と話す機会ができたのだから。

「そうです」

「じゃあ、俺も一緒していいか?」

「どうぞ」

手で示された向かいの席に俺も遠慮なく座らせてもらう。ちらりと彼女を見ると表情を変えないままティーカップに口をつけていた。いつもは後ろで纏めている長い髪は背中にゆったりと流されており、真夏の熱風に時折揺らされている。顔も少し化粧しているし、洋服は真っ白いワンピースを着ていた。いつものぴしりとした雰囲気ではなく幾分か緩みのある雰囲気に彼女も年相応の女の子だと気付かされる。しかし、背筋はしっかりと伸ばたまま姿勢が良いのでやっぱり彼女の本質は高貴のままだと思う。

「それは、紅茶か?」

「ハーブティーです。カモミールの」

「じゃあ、俺もそれにしようかな」

店員にカモミールティーを頼む。だけど、この暑さで喉が渇いていたのでアイスでと付け加えて注文した。程なくして注文したアイスカモミールティーが運ばれてくるのですぐにストローに口をつける。ひんやりとした喉越しのおかげで幾分か体温が冷やされていく気がした。

「カモミールティー、好きなのか?」

彼女の返事を待つ。彼女は少し考えてからティーカップを置く。

「好きというわけではありませんが」

マカロンの時と同じ言葉が出てくる。つまり、この質問すら答えたくないのだろう。

「そっか」

詮索してはいけない気がする。彼女はあまりにも、いや、ほとんどと言っていいほど彼女の世界のことを話したがらない。学園長相手でも、あまり覚えてないの一点張りだ。ならば、俺に何が言えるのだろう。何が聞けるのだろう。エースやデュースすら彼女自身の話をほとんど聞けていないというのに、まさしく今が二人きりなのにもかかわらずちゃんとした会話すらできていない俺に何ができるのだろうか。
 彼女の世界を土足で踏み荒らしたいわけではない。ただ、笑ってほしいのだ。綺麗な顔がもったいないから。
 無意識のうちにグラスに視線を落としていた俺は次の言葉を探しながら顔をあげて彼女を見る。すると、ぱちりと彼女と目が合った。あ、と言葉にならない声が出る。彼女は俺を見つめたあと、ゆっくりと目を閉じ、再び目を開けてから何処か遠いところへ視線を向けた。

「暑いですね、本当に」

ぽつりと彼女が溢す。熱風が俺の頬も彼女の頬も撫でていく。彼女の声は熱風には似つかわしくないほど冷たいものだった。優等生で努力家で、誰にも頼ることを知らない。彼女を見ているとリドルを思い出す。本当ならこのまま放っておけばいい。そうすればそのうち勝手に彼女が笑う日がくるかもしれない。しかし、それは俺の保守的な考え方に過ぎない。もしも、そのせいで彼女がいつかのリドルと同じ道を歩んだとしたら。

「聞いてもいいか?おまえのことを」

そう思ったら言わずにはいられなかった。いつかのリドルのように後悔はしたくない。たぶん、そうなった彼女のことを止められるのはエースとデュースだけで、俺ではないのことを分かっている。

「あまり、話したくないんです」

彼女からの返事はやっぱり拒絶だった。だけど、このままだと彼女は笑えない。

「どうしたら、俺に話してくれるんだ?」

ぴくりと彼女の頬が僅かに動く。ほんの少し驚きを露わにさせた彼女はすぐに表情を引き締める。

「聞いてもおもしろいものではありませんよ」

「それでも聞きたいと言ったら?」

また表情筋が僅かに動いた。今度は、明らかな嫌悪感を示している。その表情を見た俺は少し自分の頬が緩むのが分かった。確かに彼女の笑った顔が見たい、そう思っていたのは事実。だけど、これはこれでおもしろいものを見つけたと俺に悪魔が囁いた。

「お先に失礼します。では、また休み明けに」

彼女の表情は消えているが不快感が物凄く態度から出ている。いつもならありえない。あの彼女がここまで感情を露わにするとは。これはエースとデュースすら知らない。いや、グリムやオンボロ寮に住むゴースト達なら彼女とほとんど時を共に過ごしているから知っているだろう。それ以外でなら、人間らしい彼女を知るのはたった今ここにいる俺だけだ。

「悪いが、俺はしつこいぞ」

俺のグラスの中の氷がカランと溶ける。俺の口角が上がるのを見た彼女は静かに口を開いた。

「トレイ先輩って、もう少し穏やかな人だとエース達から伺っていたのですが、どうやら違うようですね」

「おまえもな。ただの良い子ちゃんじゃなくて安心したよ」

彼女は踵を返して店を出て行ってしまう。その背中を目で追いながら俺は背筋がぞくぞくするものを感じていた。きっとケイトに言えば性格悪いって呆れられるのだろうな。


 その日から俺は宣戦布告した通り、彼女にしつこく付き纏うことにした。彼女が週末になると早朝と夕方にオンボロ寮の近隣をマラソンしていることを知っていたし、得意のフェンシングの鍛錬している時間も、無駄にやり込む筋トレの時間も知っている。これらは全部エースとデュースとついでにグリムから情報を仕入れたものだ。

「え?トレイくん、もしかして名前ちゃんのストーカー化してない?あきらかに名前ちゃん嫌がってるよね?」

と、ケイトにすっごく引いた顔で言われているが、事実、彼女には物凄く嫌な顔をされている。彼女の貴重な週末を邪魔しては彼女の体力トレーニングに付き合いタオルやらスポーツドリンクやら軽食を差し入れしていた。たまにグリムも引いたように俺を見るのでそこはご馳走様を腹一杯振る舞うことで懐柔するので問題ない。すると、彼女の表情はますます苦々しいものに歪んでいく。うん、良い塩梅だ。

「あの子、最近とても表情が変わったわね。鉄仮面は剥がれたけど、あれじゃあちょっとかわいそうよ」

そう言ったヴィルも彼女の変化に気づいてくれて嬉しい。つまり俺は、彼女の動かない表情筋を壊すことに成功したのだ。残念ながら笑顔ではないが。これはこれで人間らしくて俺は好きだ。ただ、困ったこともある。彼女の表情がほんの少し豊かになると周りにいる人達にも影響することだ。
 特に、親友を自負していたエースとデュースは最近よく彼女と行動を共にするようになっている。いや、元々入学してからも一緒に行動していたのは事実だが、それとこれとはわけが違う。最近の二人は彼女の貴重な週末に共にオンボロ寮で過ごし、勉強会やら彼女の趣味の筋トレにも付き合っている。エース曰く、俺の腹筋が異様に鍛えられ始めていて怖いらしい。デュースも彼女のスパルタ筋トレメニューを毎週頑張って食らいついてこなすのだがいつまで経っても筋肉痛が治る気配すらないようだ。彼女は一体どんだけきついメニューを己に課しているのやら心配になるレベルなのだが。だからこそ、今では後輩三人はまるで本当の親友のようになったかのように見える。彼女の親友だからと理由なくても彼女の傍にいる権利があるエースとデュースは正直に言うと羨ましい。俺もお節介という理由ではなくもっと気軽に彼女の元へ行きたいが、とてもじゃないが腹筋バキバキに割れるほどのスパルタ筋トレメニューは遠慮したいわがままもある。
 さらに、困ったことが起きた。あの表情筋を崩すことのない彼女が不機嫌を露わにさせることが多く尚且つエースとデュースと気軽に話す姿が増えたのでどうやら彼女のクラスメイト達が親近感が湧いたらしい。あの鉄仮面の監督生も普通に人間なんだ、かわいいじゃん。ということで何やかんやと彼女と話す人間がどんどん増えていった。
 極めつけは、この暑さの中飛行術の授業をしていた時に起きた。あの暑苦しいと言っても過言ではないバルガス先生が熱中症で倒れたのである。その時彼女は右往左往する屈強な男子生徒達の間をすり抜け現れた。すぐにバルガス先生の胸板に耳を寄せて心音を確かめ、あろうことかあの筋肉達磨のバルガス先生をあっさりと俵担ぎにして大して動かない表情筋のまま医務室へ走って搬送したのだった。あの美しい顔立ちで颯爽と筋肉達磨を救助する一連の姿にその場に居合わせた面々は揃って惚けたらしい。しかも、ついた渾名がマッスルプリンスなのだから俺は話を聞いた瞬間複雑な気持ちになり頭を抱えた。

「え?RPGに出てくる大天使ミカエルみたいな顔してただの脳筋とか詐欺すぎない?マジで。拙者、寧ろ引くんですけど」

噂を聞いたイデアがオルトにボソボソと愚痴る姿を目撃した時は俺も思わず同意した。
 監督生改め密かにマッスルプリンスと呼ばれるようになった彼女に対し、性別変わってるじゃん!と若干哀れんだケイトだったが、最近の彼女が開き直ったように筋トレを何処でもするものだから結局ケイト曰く自業自得だよねで落ち着いた。
 当のマッスルプリンスはこの件以来さらに有名人になった。女だから襲ってやろうではなく、その美しく鍛えられたおみ足に踏みつけられたいというおかしな趣味を持つ生徒達に大層ご立派に崇め奉られるようになってしまったのだ。まるでその姿は教祖と信者のようである。もっとも、当の本人は勝手に教祖扱いされているとは露ほど気づいていないのだが。

「ちょっとトレイ、あれ、いいかげんにやめさせなさいよ。クラスメイト達とやっと親しく話すようになって微笑ましく思っていたら、あの子ってば筋トレしながら会話しているじゃない。制服も乱れるし髪も乱れるし、何よりスカートのまま片手で腕立て伏せってもうこっちが恥ずかしく見ていられないわ」

ヴィルが心底どん引いて俺に言ってきたが、彼女を変えはしたが残念ながら脳筋なのは元からだったので俺に止める術はなかった。
 最初に思っていた彼女に笑ってほしい気持ちは今も嘘偽りなく変わらない。そして笑うどころか常に不機嫌なオーラを纏ってしまったことには反省はしている。俺が彼女にしつこく構うから彼女があからさまに鬱陶しそうにしていることも分かっているが、それでもあの表情筋を崩せたことに変わりはないので正直言うと嬉しく思っていた。何故なら、結果はともかく彼女を変えるきっかけを作ったのはエースでもデュースでもグリムでもない。紛れもなく俺だからと優越感に浸っていた。しかし、それは、何故だか彼女の交友関係を広めるきっかけにもなり、いつのまにか彼女の周りには人集りができるようになっていたのだ。彼女自身は相変わらず口数は少ないが自分の周りに好意的にやってくる人達を無碍にはしない。筋トレしながら会話に耳を傾けているが彼女のあまり動かない表情筋を見ても嫌がっているわけではないと誰もが読み取れるようになっているほどに。つまり、最初にあった彼女を覆っていた壁が崩れ落ち始めていた。まるで、リドルと同じように。それは喜ばしいことだ。そう思っているはずなのに、俺はどうにも納得がいかなかった。彼女の人間らしさを最初に見つけたのは、俺だというのに。


 マッスルプリンスの信者にバルガス先生も入信しているとありえない噂話に頭を痛めつつも、今日も俺は、恒例になっている週末のオンボロ寮へ差し入れ片手に出向いていた。しかし、今日は賑やかな声は聞こえるが彼女の姿はない。代わりにいたのはオンボロ寮の談話室で我が物顔でグリムやゴースト達と寛ぐエースとデュースだけだった。

「今日は、全員揃ってないのか?」

とりあえずせっかくの差し入れを後輩達に渡すと、彼等は揃って遠慮なく軽食に手を伸ばしては頬張る。グリムは頬をぱんぱんにしながらもまるで彼女のように表情を変えないまま言ってのけたのだった。

「子分なら、今日は街に行ってるゾ。あいつにとって、大事な日だからな」

「大事な日?」

「あいつにも、触れてほしくないこともあるんだゾ」

だから、関わるな。言葉にはしないがグリムからそう言いたいことは感じ取れた。つまり、グリムは知っているのだ。彼女の秘密も、過去も、考えていることも。それが分かった瞬間、俺は心臓に沸々と湧き上がる何かを感じながら即座に踵を返した。エースとデュースは気まずそうに顔を見合わせていたが、俺を引き止めることをしなかったので、二人もグリムと同じ意見なのだろう。だから余計に悟ってしまった。俺だけなんだ、彼女のことを何も知らないのは。
 校外の街に行けばあの洋菓子店のテラスに彼女はいた。暑い日差しがパラソルで遮られているが、彼女のいる席は夏の熱風のおかげで相変わらず暑いまま。その姿を見つけた俺は躊躇なく店に入りそのままテラス席に向かい彼女の目の前に立った。彼女のテーブルの上には飲みかけのティーカップと食べかけのマカロンが残っている。彼女に宣戦布告した日と同じように。

「もしかして、カモミールティーか?」

それ、とティーカップを示すと彼女は表情を変えることなく肯定する。やっぱり、あの日と同じだ。白いワンピースも、背中に流した手入れした髪も、ほんのりと化粧した顔も、何もかもが。

「聞いてもいいか?おまえのことを」

向かいの椅子に座りながら彼女に問う。ぴくりと彼女の表情筋が動く。あきらかな不快感を表情に示しながら彼女はゆっくりと口を動かした。

「あまり話したくないんです」

あの日と同じ拒絶。それでも、俺は知りたいと思った。グリムも、エースやデュースでさえも彼女のことを知っているのに、誰よりも彼女の近い位置にいる俺は何も知らない。きっと彼女のことを知れば優越感に浸れるし、彼女自身がリドルに似たところがあるから放っておけないと思うし。そこまで頭の中につらつらと御託を並べているが、果たして、理由は本当にそれだけだろうか。正直、自分が何に対して僅かながらの苛立ちを感じているのか分からない。彼女の綺麗な顔が笑わなくてもったいない、それは確かに今も変わらない理由ではあるが。

「グリムは知っていそうな口ぶりだったぞ?」

ぴくりと彼女の表情筋が動く。俺は続け様に口を開いた。

「そのカモミールティーとマカロン、この間俺と会った時にも注文していたし、格好も同じだ。それに、今日の日にちは先月ここで会った日とも同じ。関係ないってことはなさそうだが?」

ぴくりと彼女の表情筋がまた動く。その表情にはっきりと嫌悪感が示されていった。

「そうだとしても、トレイ先輩に話したくありません」

「怖い顔だ」

「元々です」

熱風が吹き抜ける。彼女の言葉の冷たさと相対した温度に俺は頬が緩む。本当の彼女は実に人間らしくて、そして素直だ。自分の嫌だと思うことをはっきりと相手に伝えられるほどに。

「その顔、俺を嫌っている表情だな」

「笑いながら何を言っているんですか」

「そりゃあ笑うだろ。おまえにそんな顔をさせている原因が俺なんだから」

意味が分からないと言いたげに彼女の表情がますます歪んでいく。俺は止められない頬の緩みをそのままに彼女の食べかけのマカロンに手を伸ばし口に入れた。

「アプリコットのマカロンか。うまいな」

彼女の瞳が揺れる。これは初めて見る表情だ。ほんのりと細められた瞳の中に僅かに濡れた淡い輝きに俺の背筋がぞくぞくした。泣いているわけではない、でも、泣きそうというわけではない。つらいのに、愛おしくて、忘れられない大切なものに馳せている、そんな表情だ。この表情をグリムも、親友二人も知っているのだろうか。彼女には意地の悪いことをしている自覚はある。きっとグリム達は彼女のことを知っても、意地悪に煽ったりはしない。彼女の心の中にしまう大切な宝物をそっとそのままにするのが彼等の考え方だ。だけど、俺は、そのままにはしたくない。彼女の大切な宝物をしまっている引き出しを無理やりこじ開けて、その引き出しの中に俺のことも入れてほしいのだ。大切な宝物に突然巻きついた歪な鎖のように。

「トレイ先輩は、」

彼女の口が開く。俺を呼んでまっすぐに見つめてきたがまた口籠る。躊躇うように、考えるように、静かに瞼を伏せた。

「意外と、好奇心旺盛ですね」

しばらく、じっと何かを思うように彼女は睫毛を震わせたまま瞼を閉じたままだった。俺は何も言わずに彼女の綺麗な顔立ちを見つめる。次に目が合った瞬間、俺は下がる目尻も緩む頬も隠しもせず微笑んでみせた。

「おまえを見ていると、興味が尽きないことばかりだよ」

彼女が俺の言葉をどう捉えたのか分からない。純粋に興味か、ただの嫌味か、もっと違う何か。やがて、彼女の表情筋が崩れていく。できあがった表情は酷く優しくて、穏やかだった。それはそれは、とてもつらそうなほどに。

「そうですか」

ぽつりと溢した言葉がそれ以上紡がれることはなく、しばらくしてから俺と彼女は暑い日差しの中、並んで歩きカフェを後にしたのだった。


 二人で帰路を歩いたからといって彼女と俺の関係が大きく変わるわけではなかった。道中、あまり話さない彼女に俺が世間話をするだけの一方通行の会話だけでその日は終了した。あの時、少しだけ彼女の心の内を見せてくれた気がしたのだが、それは俺の思い上がりらしい。
 さて、彼女にとって大事な日を打ち壊した自覚はかなりあるのでグリムと親友二人からの無言の痛い視線をびしばしと受けるのは仕方ないので覚悟はしていたが、無言というのは結構つらかった。俺、おまえ達の先輩なんだけどな。
 そんなこんなで暑い夏が過ぎ残暑が厳しい季節の頃、ナイトレイブンカレッジでは新学期が始まろうとしていた。また彼女にどう構ってやろうかと思っていた矢先、その報せは耳に入った。

「ねぇねぇトレイくん!もう聞いた?名前ちゃん、元の世界に帰れるようになったんだって!」

報せを持ってきたケイトはにこにこと嬉しそうだった。まるで、自分のことのように。一方、俺も報せを聞いて笑みを浮かべた。そうか、そりゃあ良かった。そう言ったはずなのに、何故か心が重苦しくなっていく。彼女の笑顔を見てみたかったと思う心残りのせいだろうと思うが。


 マッスルプリンスがいよいよマッスル星に帰ってしまう!そんな!マッスルプリンス行かないでくれ!マッスルプリンスがいなくなってしまうなんて、これから先自分達を綺麗なおみ足で踏みつけてくれる御方に巡り合えないじゃないか!
 と、バルガス先生筆頭にマッスル宗教の信者達の悲痛な叫びが学園中で木霊していたが、あまり触れたくはない。そんなことよりも、俺は彼女の表情筋を崩すことには成功したが当初の目的を達成できていないことを悔いている。

「残念ですねぇ。教祖がいなくなってしまえば、グッズの売り上げが壊滅的に下がってしまいます。すぐに、次の目玉を考えなければ」

ぶつぶつと一人言を呟きながら歩くアズールと廊下ですれ違ったが、特に彼女のことについて話すことはなかった。
 情報が欲しい。彼女はいつ、帰るつもりなのだろうか。その疑問はあっさりと解決された。何故なら、最低限の荷物を持った彼女と廊下でばったりと会ったのだから。

「まさか、今日、なのか?帰るの」

「はい」

彼女は相変わらずあまり動かない表情筋のまま答える。いくらなんでも唐突すぎると思ったが、それは彼女の意志の強い瞳を直視した瞬間、何も言えなくなった。

「向こうの世界でも、元気でな」

精一杯の強がりで、先輩らしく彼女に別れを告げる。ふっと、彼女の頬が緩む。目尻を下げた彼女は幾分か柔らかい表情で口を開いた。

「お世話になりました。数々の差し入れ、ご馳走様です」

背筋がぞくりとした。心臓が激しく鳴り出し、身体中に熱が一気に駆け上がる。苦しい、とてつもなく苦しい、息すらもできそうにない。それはまるで水の中で溺れたかのように。一方彼女は折り目正しく一礼してから俺の隣をすり抜けて行ってしまう。コツコツと歩く音に釣られて彼女の背中を視線だけで追いかけた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、何の迷いもなく前を進む姿は相変わらずリドルと似ている。これから先、彼女がいつかのリドルと同じ道を歩まないことを祈るばかりだ。
 果たして、それでよかったのだろうか。俺は彼女のことを何も知らないし、彼女が帰ってしまえば別の世界の彼女とはもう二度と会うことはないだろう。ついでに言えば、たった今彼女は確かに微笑んでいた。つまり、俺の当初の目的も達成したことになる。ならば、俺は一体何を躊躇っているのだろうか。何を、考え込んでいるのだろうか。

「いつまでそうしているつもりだい?」

リドルの声が廊下に響いたのでハッとして辺りを見回すがリドルの姿がない。凛とした声がすぐ近くで聞こえたので俺に向けられた言葉だと思ったのだが、廊下の曲がり角にワインレッドの髪が微かに見えるのでどうやら俺に向けられたものではないらしい。では、一体誰に言っているのだろうか。

「君には君の事情がある。だから、ボクが口出す資格はない。でも、このままだと君達は必ず後悔するだろう。いや、分かっているから君の方はこれ以上踏み込みたくはないんだろうね」

廊下にリドルの声が響くが、相手の声は聞こえない。俺は勇気を振り絞って一歩、また一歩踏み出していく。俺の記憶が確かなら、リドルの陰が見え隠れしている廊下の曲がり角の先に向かった人物は二人いた。一人目はアズール。もしも会話の相手がアズールならアズールはずいぶんとゆっくり廊下を歩いていたことになる。では、二人目の人物ならば。たった今すれ違ったのだからまだ遠くを歩いてはいないはずだ。

「リドル先輩、これはずるいです」

リドルに近づくにつれて心臓が激しく鳴り出していく。いつもの高貴であろうとする雰囲気とは真逆の、酷く弱々しい声が俺の耳に届いた。

「トレイ先輩がそこにいるのを分かってて、私に話させようとするだなんて」

彼女の言葉が耳に入った瞬間、歩幅を早めて廊下の角を曲がる。そこにいたのは当然リドルと、先程すれ違った彼女だ。リドルは俺に振り向くことなく、真っ直ぐに彼女を見つめている。一方の彼女は現れた俺を見つけてびくりと僅かに震えた。その表情は、いつもの大して変わらない表情筋ではなく、瞳を涙で濡らし今にも泣きそうなもので、俺が初めて見るものだった。

「どうせなら言ってしまったらどうだい?それに、トレイも」

「俺も?何をだ?」

「まだ気づいてなかったのかい?自分自身のことなのに」

リドルが深々と溜息を吐いた。彼女がびくりと震える。しかし、すぐにいつものように取り繕い、彼女は表情を引き締めた。

「トレイ先輩にはお世話になりました。感謝しています。これが、全てです」

折り目正しく一礼をして彼女は踵を返して走り出した。リドルの前で堂々と廊下を走るのはまずいと思ったが、リドルは苦言を口にすることはなかった。その代わり、リドルは俺にようやく振り向く。その顔は明らかに苛立っているものだった。

「彼女も強情だが、君も大概だね」

「俺が強情?まさか」

「とにかく、早く追いかけるんだ」

「追いかけるって、」

「いいから早く!!!」

リドルが声を荒げた。まだ事態がよく分からない俺には戸惑うことしかできないが、脳内には走り去った彼女の背中が冷静に映し出されたままだ。俺のちぐはぐの感情に名前をつけたのは、リドルだった。

「ボクが知らないとでも思っているのかい?君が彼女に恋をしていることを」

え、と言葉にならない声を吐き出した。恋?俺が彼女に?そう戸惑っているはずなのに、実際の心の中はぐるぐると感情が回ることはなくずいぶんと冷静だった。リドルをその場に残して無意識のままに廊下を走り出すくらいに。


 どうやって元の世界に帰るかは聞いていないが、彼女の向かった先からして闇の鏡が絡んでいることは確かだ。俺は罰則覚悟でその辺に立て掛けてあった誰のか分からない箒を奪い勢いのまま跨った。走るより遥かに早さが増す。問題は、彼女に追いついたとして、彼女が何の躊躇もなく鏡へ飛び込んでしまったら彼女と話すなどできやしない。それだけは避けたかった。どうしても。
 箒で乗り込んだ先にはやっぱり彼女がいた。彼女はぐずぐずと泣くエースとデュースにハグをしてほんの少し表情を崩していた。その彼女が俺を視界に捉える。ハッとした彼女はこの世界の親友二人を離しすぐに闇の鏡に向かって走り出した。冗談じゃない。ここまで追いかけてきた先輩に何も言わず親友二人と抱き合ってお別れしてさっさと帰るとは、彼女は白状だ。そんなことは絶対に、俺が許さない。

「待て!名前!まだ行くな!」

俺は咄嗟にマジカルペンを取り出して彼女に向かって振り下ろす。しかし、それより先にたった今まで静かだった小さな影が物凄い勢いで彼女に向かって飛びかかった。

「嫌だー!!!オレ様嫌なんだゾー!!!子分とお別れなんて絶対に嫌なんだゾー!!!」

その瞬間、彼女の身体が鏡にぶつかり、闇の鏡が呪文を唱えた。それは俺も、当然事態を把握したエースとデュースも闇の鏡を止めるように叫ぶが間に合わず彼女の身体はあっさりと光の粒子に変わり消えていった。グリムと一緒に。その場に残されたのは何とも言えない空気感だけ。

「えっと、これは、ちょっとまずいような気が」

最初に口を開いたのは彼女が消える瞬間に完全に出遅れてやって来た学園長だった。エースとデュースは先程まで泣きべそをかいていたにもかかわらず、今はただ呆然としている。勿論、俺も。

「グリム、大丈夫なんだろうか?」

「だといいけどな」

「でも、あいつは」

「グリムだってそこまでバカじゃないと思うぜ。いや、バカじゃないと思いたいけど」

エースとデュースが呆然としながらもグリムの安否を心配している。その後ろで俺は黙ったまま闇の鏡を見つめた。役目を終えた闇の鏡はこれ以上何も話す気はないようで鏡面に現れようともしない。その時、トントンと軽く肩を叩かれたが振り向けなかった。何故なら俺は肩を叩かれる理由を知っているのだから。

「クローバーくん。ちょっと、いや、かなり、まずいことをしてくれましたね。怒らないので理由を教えてもらえますか?私、優しいので」

明らかに学園長の声が怒っている。俺は小さく息を吐いてからマジカルペンを握りしめた手にさらに力を込めたのだった。


 ナイトレイブンカレッジを卒業し、趣味だったお菓子作りを職に変え、今は実家のケーキ屋を手伝っている。まだ跡を継げるほどの腕前ではないので修行中の身と表現するのが正しいだろう。そんなこんなで彼女が元の世界へ帰ってもう数年経過していた。グリムも、あの日からこちらの世界で姿を見た者はいない。
 俺は今、彼女が消えた闇の鏡の前に立っている。手にはパティスリークローバーのロゴが入った箱を持ち、ついでに数日間滞在できそうなほどの荷物を詰め込んだリュックを背負っていた。

「クローバーくん、本当によろしいですか?」

学園を卒業してからもう何年も経っているのに学園長の見た目は当時と変わっていなかった。相変わらず仮面を被っているのでその顔がどうなっているかは分からないが。

「あいつらが元気でやってるか気になるし、ちょっと行ってきます」

「そんな旅行に行くようなノリで言われても」

学園長はそれ以上は何も言わなかった。それを合図に闇の鏡が呪文を唱える。光の粒子が俺を包み込んでいく中、学園長が口を開いた。

「名前くんとグリムくんにもよろしく伝えておいてください。絶対に無事です。それからクローバーくん、無理はしてはいけません。クローバーくんがあちらの世界の入口で望めば、この世界への道は必ず開きます。どうか、気をつけて」

学園長を見て俺は笑ってみせる。もう聞こえているか分からない言葉を返す代わりに片手を上げてみせた。行ってきます、心の中で呟いてから目を閉じる。その瞬間、頭の中が真っ白になり、光が弾け飛ぶ。身体が何処かへ向かって吹き飛ばされる感覚がした。


 いつか嗅いだことのある香りで意識が覚醒し始めた。心を落ち着けるカモミールティーの香りと、甘いスイーツの香り。だけど、嗅いだことない嫌な匂いがした。立ち込める砂埃の匂いと、火薬の匂い。ハッとして俺は思わず身体を起こす。寝心地が悪く身体の節々が痛いと思ったら俺は地べたに敷かれたビニールシートの上に雑に寝かされていた。見上げた空はあまりにも綺麗な星空で、近くではぱちぱちと焚き木が燃えている。辺りは鬱蒼とした木々に囲まれていた。ふらりと眩暈がして思わず眉間を押さえると、先程まで誰もいなかったのに突然気配を感じて目を開ける。ぱちっと目が合った人物は薄暗い夜の中でも目を惹くきらきらとした輝きで微笑んでみせた。

「やっと起きたみたいだね!マカロン、ごちそうさま」

え、と思いながら俺の周りをぐるりと見るがリュックはあるが例の菓子箱がない。よく目を凝らすと俺から少し離れた位置にある設置した簡易テーブルの上に見慣れた菓子箱があっさりと開けられてあった。

「ちょっと待ってて。そろそろ戻ってくるはずだから」

目の前にいた華やかな男は顔をあげて遠くを見る。すると、背筋をぴしりと正した人物がカツカツとブーツの音を鳴らして歩いてきた。

「名前!こっちこっち!彼、やっと目を覚ましたよ!」

名前を呼ばれた彼女はぴくりと反応して一度立ち止まる。それから再び歩き出し、俺の視線に合わすように地面に膝をついて真っ直ぐに俺を見つめた。すっかり大人になった彼女はさらに綺麗になっていた。相変わらず表情筋があまり仕事してなさそうだ。深く被った軍帽と、皺一つない軍服に、多少の汚れはあれど手入れされた軍靴。目の前にいる彼女はナイトレイブンカレッジに通うオンボロ寮の監督生ではない。とても立派で、高貴な騎士だった。

「お元気そうでよかったです。差し入れ、勝手にいただきました。ごちそうさまです」

「え?もう食べたのか?」

「ダメだったんですか?てっきり、私に持ってきてくださったとばかり思っておりましたが」

彼女の表情が僅かに緩む。これは意地が悪い。彼女は俺を困らせて楽しんでいる。

「うまかったか?」

「はい。とても」

「あの頃よりずいぶんと素直じゃないか」

「特に、変わらないと思いますけど」

ふふふと彼女が笑う。数年ぶりに会った表情が笑った顔だなんて心があたたくなる。俺も思わず頬が緩んだ。一方、俺と彼女を交互に見つめていた華やかな男はきょとんとしていたがすぐに微笑んでみせる。丁寧に手入れされた古い銃を大切そうに抱えてから彼女に声をかけた。

「名前、会えて嬉しいのは分かるけどほどほどにね。まだ作戦の途中だから。そうだ、さっき同僚が名前のためにカモミールティーを淹れていたから冷めないうちに飲んであげてね」

「分かった。ありがとう」

「それじゃあボクは、見張りと交代してくるよ」

アデューなんて軽やかな声をかけて華やかな男が去っていくので正直確信が持てなかった。でも、どうやら夢ではないらしい。そして、エースとデュースの話も本当だったのだ。

「おまえが軍人だったとはな。バルガス先生を俵担ぎにしたのも今思えば納得した」

「あの頃は軍人じゃなかったですけど。軍の養成学校の生徒でしたので」

「いや、俺達普通の学校の生徒からすればおまえは確かに軍人だったよ」

 彼女が去ってからエースとデュースから全部聞いた。元の世界の彼女は軍学校に通う生徒だったこと、元の世界にいる親友との約束で月に一度はお洒落してカフェに出掛けること、いつ元の世界に戻ってもいいように体力作りは欠かさなかったこと。それは全て俺の知らない彼女の秘密だった。ちなみに、あまり動かない表情筋は元からだそうで。
 善悪問わず誰かに声をかけられても、喧嘩を吹っ掛けられても、彼女は真っ直ぐに背筋を伸ばし平等に接していた。本当に、誠実で高貴な姿だった。誰にでもできることではない。だから、最終的には彼女の周りには人で溢れていた。彼女がツイステッドワンダーランドから去った後、誰もが悲しんでいた。俺も、できることなら彼女と離れたくなかった。

「マッスルプリンスって変な渾名をつけられたので、一応軍人扱いしてくださったことにします」

僅かに彼女の眉間に皺が寄る。まるで不服だと言いたげに。その姿は、見た目は成熟した女性なのに俺が知る数年前の彼女の幼さを思い起こす。あまり動かない表情筋ではあったが、それなりに幼さの色を映してはいたと思う。

「ところでトレイ先輩、ちゃんと帰る方法を知った上でこちらに来たんですよね?」

じとりと彼女が俺を睨む。本当に、あの頃とは考えられないくらい彼女の表情は豊かになった。大人の女性なのに、かわいらしい。そして、それはずっとひた隠しにして気づこうとしなかった感情を俺に思い出させた。

「一応聞いてはいるから心配するな。それよりも、」

伸ばした手は迷わず彼女の身体に回し強く抱きしめた。彼女の存在を確かめるように、痛いくらいにきつく腕に力を込める。彼女の身体はあの頃には匂わなかった硝煙の香りが混じっていた。それが俺の知らない彼女の世界を事実として突きつけてくるので、寂しく思った。だけど、それ以上に愛おしさが溢れてくる。

「会いたかった。愛しているんだ。ずっと、おまえのことを忘れた日はなかった。おまえが無事で、本当によかった」

一言、一言、噛み締めるように言葉を紡いでいく。彼女が消えたあの日から言えなかった言葉を、日々を、取り戻すように。彼女は俺にされるがままだったが、やがて、息を飲む気配がした。そっと胸板を押された瞬間、やっぱり拒否かと冷静に納得している俺がいる。

「何、言ってるんですか」

彼女が顔をあげて俺をじっと見つめる。瞳を滲ませ、睫毛を震わせていた。

「そんなこと言われたら、私、もう堪えきれません」

ぐいと俺の襟首を力強く引っ張られ、彼女の顔が至近距離でぴたりと止まる。綺麗な顔立ちがくしゃりと歪んだ。

「後悔しても、知りませんよ?」

「このままフラれた方が後悔する」

彼女の問いに間髪入れずに返事した瞬間、彼女との距離が無くなった。ごちんと歯が強くぶつかる勢いでされた口付けに彼女の余裕の無さを表している。当然、俺も余裕なんか無く、絶対に逃がさないのように彼女の両頬を両手で強く捕まえた。軍人の彼女と一般人の俺が口づけを交わしているところを他の軍人が見たら何を言われるかたまったものじゃない。客観的に見れば分かることだが、今の俺と彼女に考える気はさらさらなかった。
 空いた時間を埋めるように無我夢中でお互いの唇を貪っていたが、やがて、終わりを迎える。どちらからともなく唇を離すとぷつんと糸が切れた。俺も彼女も肩で息をしながらお互いを見つめると、自然と笑い声を上げていた。

「こんな戦場のど真ん中で何をやっているのやら」

「確かに、軍人には有るまじきことかもな」

まだ笑い声は止みそうにない。しかし、わざとらしい咳払いによって笑うのをぴたりと止めるはめになった。

「あのね名前、向こうで司令官が呼んでいるんだけど」

先程見張りと交換すると言っていたはずの華やかな男が気まずそうに言っている。視線の中に、ほどほどと言ったはずだと苦言が混じっていた。

「そろそろ奇襲かける頃合いかな」

彼女はやれやれと言いたげにその場から立ち上がる。俺は思わず彼女の手を掴んだ。

「頼むから、死なないでくれ」

彼女がきょとんと目を丸くした。そんな顔もするのかと思っていると、すぐに彼女の表情が緩んだ。

「死にませんよ。私は必ず、帰ります」

「だけどおまえは、今、」

「確かに私は今、軍人です。だからこそ、死ぬわけにはいきません。今度は私が、あなたを守りますから」

掴んだ手をそっと離される。彼女は再度微笑んでから彼女の傍に控える華やかな男を呼んだ。

「作戦の間、彼のことをお願いね」

「勿論。ボクに任せて」

「帰ったら彼にたくさんのスイーツを作ってもらうから」

「わーい!ボク、マカロンがいいな!すっごく楽しみ!」

「好きなだけ作ってもらえるよ。よかったね」

「うん!」

俺を無視して勝手に約束されてしまったが、本来俺はこの場所にいるべき人間ではないし、彼女達に守ってもらうのだから口出す権限はない。彼女と、目の前にいる線の細い何処ぞの王子様という出立ちの華やかな男はどんな関係なのだろう。あまりにも親しそうで少しだけ、いや、結構腹が立ってきた。
 ふと、華やかな男がこちらを見た。数回瞬きしてからすぐに苦笑いに変わる。それから彼女の目の前にもかかわらず言ってのけた。

「ボクと名前はただの同僚だから気にしないで。つまり、その、さ。あんまり怖い顔しないでほしいんだけど」

俺の嫉妬心は顔にもしっかり出ていたらしい。一方、華やかな男と俺の気を知らない彼女はあっさりと話を切り替えた。

「それじゃあ、私は行くね」

ひらりと手を振った彼女はさっさと背を向けて歩き去っていた。残されたのは華やかな男だけ。華やかな男はあからさまに気まずそうな顔をしていた。ふと、俺は大事なことを思い出す。未だに俺と目を合わせようとしない華やかな男に声をかけた。

「なぁ、グリムって知ってるか?」

華やかな男がようやく俺に振り向く。目をぱちぱちと瞬きしながら、ああと口を開いた。

「そうだよね。君も、向こうの世界から来たわけだし」

華やかな男が納得した表情をした瞬間、彼女が去って行った方角から複数の足音が響いた。同時に、話し声もたくさん聞こえてくる。その音に反応した華やかな男が俺にそちらを見るように促した。

「ちょうどよかった。紹介するね!第一部隊を束ねるグリム少佐だよ」

「は?」

輪の中心人物ならぬ中心魔獣はかわいらしい見た目には似合わない軍帽を被り、誇らしげに子分達に声をかけていた。

「おまえ達!よくやったんだゾ!帰ったら宴会だ!」

グリム少佐ばんざーい!!!と言う声がたくさん聞こえてくる。彼女の相棒は、今ではたくさん子分を束ねるさらに頼れる相棒になっているらしい。俺は思わず苦笑いを浮かべた。

「いや、本当、無事でよかったな」

俺に気づいたグリムが急に泣き顔になり、物凄い勢いで突進してきた。怖かったんだゾー!!!とわあわあ泣くので本質は変わらないのかと思った。グリムをあやしながら思う。これからどうなるのだろう、先は分からない。だけど、俺は後悔はしていない。彼女がいる世界で、彼女と想いが通じ合えて、これ以上の幸せはない。

「というか、おまえ、今は少佐だろう?おまえの子分達が驚いているじゃないか。早く泣き止まないと」

「トレイいいい!!!だってだってだってえええ!!!オレ様怖かったんだゾー!!!何回も死ぬかと思ったんだゾー!!!そのたびに名前が守ってくれたけど、あいつもたくさん傷だらけになるし怪我ばっかりするし!!!」

「そっかそっか。おまえも大変だったな」

中身は全く変わらないグリムに少しホッとした。
 さて、俺は立ち止まるわけにはいかない。どんな未来が待っていたとしても、明日は必ずやって来るのだから。

2022.08.06
Title by エソラゴト。