
Bookso beautiful yet terrific.
昼休みの中庭のベンチで静かに本を読む人間の女の子がいた。彼女のことは生徒同士の噂話程度に知っている。この学園で唯一の女子生徒、オンボロ寮の監督生さんだ。確か彼女は訳あって異世界からこのツイステッドワンダーランドに迷い込んでしまったらしい。真偽は分からないけど。それよりも、である。ヒューマノイドの僕が言うのもおかしいけれど彼女ときたら作り物みたいに表情を変えずに本のページを捲っている。ふわりふわりと風に遊ばせる髪を後ろできゅっと一つに結っており、彼女の動きに合わせるように襟首のリボン状に結ばれたタイが動いた。姿勢を真っ直ぐに正して座る姿は兄さんとは真逆だった。ふいに、彼女がこちらを見る。長い睫毛に縁取られた大きな目が数回瞬きし、逡巡するように眉を僅かに寄せてから彼女の口が動いた。
「こんにちは」
表情のわりには穏やかで優しい声音だった。僕は自分で勝手に彼女のことを見つめていたくせに、いざ声をかけられるとどうしようか躊躇う。でも、真剣な様子で本の世界に耽っていた彼女のことが気になり、僕はよし!仲良くなるぞ!と決意してはふよふよと吸い寄せられるように飛びながら彼女の側へ行った。
「こんにちは、オンボロ寮の監督生さん」
彼女は手元に広げてあった本に栞を挟んでから閉じる。彼女の物と思われる栞はハートとスペード柄が描かれたトランプをモチーフにしたかわいらしいデザインだった。
「はじめまして、だね?」
「うん。はじめまして、だよ」
彼女がじっと僕を見る。少しだけ考える素振りを見せた彼女は改めて僕に向き直った。
「私は名前。あなたのお名前を聞いてもいい?」
「僕はオルト。イデア・シュラウドの弟だよ」
よろしくね、と僕は彼女に手を差し出した。彼女は相変わらず表情を変えないまま僕の手に自分の手を重ねて握る。よろしく、と返した彼女は挨拶が済むとすぐに手を離した。会話がそこで止まったので僕は先程から気になっていた彼女の手元の中にある本に視線を向ける。本の表紙を見た僕はすぐに膨大な情報を有する人工知能の中から該当するデータを探し出した。
「おうじさまとおひめさまのないしょのこい。これって児童文学だよね?」
検索の結果、彼女が読んでいる本は児童文学だった。この本はよくエレメンタリースクールに通う子供達向けに図書室に置いてあることが多い。いくら彼女が異世界からやって来た人間だとしても、この本はお世辞にも16歳の女の子が読むものとは思えない内容だった。だから僕は一般論として彼女に確認しただけだった。しかし、僕の言葉を聞いた彼女は口を閉じる。それから眉を寄せながら少しだけ逡巡する素振りを見せつつ優しい手つきで本の表紙を撫でた。
「こういうお話、好きなの」
ゆっくりと口から出た彼女の声は抑揚がなかった。怒っているわけでもなく、ふざけているわけでもなく、ただ、淡々とした物言いだった。僕は彼女に断ることなくベンチに座る。彼女の隣にぴったりとくっついて座りながら僕は彼女の顔を覗き込んだ。
「この本の映画なら観たことあるよ。兄さんが子供の頃に僕に教えてくれたから」
彼女は表情を変えないまま僕に視線を向けた。一方僕は彼女の手を本の表紙から退かし、ページを捲る。それからまた彼女に視線を合わせた。
「ねえ、僕も読んでいい?」
彼女の目が数回瞬きしてから、ゆっくりと頷く。短いけどはっきりとした声音で返事をくれた。
「いいよ」
それを合図に僕は本のページを捲る。僕の指の動きに彼女の視線が追う。特に何かを話すわけではなかったが僕と彼女はしばらく二人でベンチに座ったまま本の世界へ落ちていった。
次の日、昨日と同じ時間に中庭の前を通ってみた。もしかしたら、今日もこの場所で彼女が本を読んでいるのではないかと思ってやって来た。昨日の彼女のペースを見ているかぎりまだ本は読み終わっていないはず。しかし、その考えは外れて中庭のベンチに彼女の姿がなかった。
お目当ての人物がいなかったので僕は当てもなく学園の敷地内を適当に散歩に出かけた。すると、人通りが極端に少ない各教材の資料置き場になっている棟の方から複数の生体反応を感じた。僕はまた血気盛んで有名なサバナクロー寮生あたりが喧嘩しているのかなと思って暇潰しついでにそちらへ足を向けた。
「かかってこい!!!」
一際大きな声で言ってのける台詞を聞きながら僕はあーあと思った。やっぱり喧嘩中かなあと考えながらそーっと通称資料倉庫棟の廊下を進む。廊下を進みながら何処から声が聞こえるのだろうと思いながらおそらくサバナクロー寮生だろう人物達を探す。兄さんが与えてくれた僕の優れた聴覚は室内ではなく室外からわあわあ騒ぐ声を拾った。僕は廊下の窓から下を見る。そこにはやっぱりマジカルペン片手に相手にかかっていく複数人のサバナクロー寮生を見つけた。しかし、僕はサバナクロー寮生がかかっていく相手に気づいて目を見開いた。複数人から飛び掛かる勢いで囲まれた人物は僕が先程探していた彼女だったのだから。
「か、監督生さん!?」
慌てた僕は廊下の窓を開けてそのまま外へ飛び出した。彼女がいる場所に向かって急いで降下する。しかし、僕がその場に到着した時には最後の一人となったサバナクロー寮生がばたりと地面に倒れるところだった。それ以外にも地面には複数人のサバナクロー寮生が倒れ伏している。そこにただ一人だけ立っている人物が僕を見た。右手に長い木の棒を持ったまま表情を変えず僕に視線を向ける人間の女の子の姿に僕は身体を硬直させていた。
「監督生さん?だよね?」
確認しなくても彼女であることは分かっている。しかし、この状況に僕の情報処理能力が追いつかずつい言ってしまった。一方、僕に呼ばれた彼女は相変わらず表情を変えず木の棒をその辺に捨ててから死屍累々と倒れ伏しているサバナクロー寮生達を踏み越えて僕の元へやってくる。僕の目の前で立ち止まった彼女は少しだけ背を丸めて自身のスカートの汚れを払った。
「お散歩?」
なんてことないように聞かれたので僕はさらにびっくりして目を大きく見開いた。僕の視覚データはすぐに解析されてサバナクロー寮生達の怪我の程度を把握する。どうやら、全員気絶だけで済んでいた。彼女の身体をスキャンすると何処にも異常は見つからない。というか、普通の女の子なら男数人の姿を目撃すれば何かしら反応すると思うのだけど。僕の追いつかない感情処理能力を知らないだろう彼女は返事をしない僕の顔をちらりと見る。それから特に何を言うわけではなく後ろを振り向き、地面に倒れ伏しているサバナクロー寮生達の元へ戻った。
「はい」
すっと彼女の両手が地面に向かって伸ばされる。その色白の綺麗な両手に複数の方向からごつごつとした骨張った手がたくさん伸びてきては掴んだ。
「おまえどういう体力してるんだよ」
「だからラスト・サムライとか呼ばれちゃうんじゃね?」
「もう少し手加減しろよな。まったく」
彼女に掴んだ手を引っ張られながら男達が口々に何かしら言いながら地面から立ち上がった。全員立ち上がったのを確認してから彼女はぱっと手を離した。
「レディにラスト・サムライって呼ばないでよ。これでも気にしているのに」
不満そうに口にした彼女の言葉を聞いたサバナクロー寮生達は軽く笑った。相変わらず状況が理解できない僕は瞬きだけを繰り返す。それに気づいた彼女を含めた一同が僕に振り向いた。
「え?おまえまさかイグニハイド寮生にも喧嘩売ったのか?」
「失礼ね。違います」
「俺達だけじゃあ物足りなかったか。悪かったな」
「誤解される言い方やめて」
サバナクロー寮生達に耳打ちされた彼女の眉間に皺が寄る。僕はその場にいる全員の顔をぐるりと見回してから尋ねた。
「何をしてたの?」
彼女が彼等に何かされたわけではないことは彼女の身体に害がないので分かっている。ただ、僕には知らない彼女と彼等の関係が気になっただけだった。だから、興味本位。何故か僕の口から紡ぐ音声がいつもより淡々としたものだったけど。彼女はサバナクロー寮生達の顔を見る。サバナクロー寮生達も彼女の顔を見る。それから全員が僕に向き直った。
「サンドバッグだけど」
「練習試合だけど」
サバナクロー寮生達と彼女の言葉が重なった。低い声達はサンドバッグと、鈴のように綺麗な声は練習試合と、双方内容は異なっている。僕は思わず首を傾げた。
「どういうこと?」
僕が聞き返すと彼女がサバナクロー寮生達を見る。すっと細められた目に男達は揃いも揃って身震いした。
「監督生が剣術の稽古が趣味だって聞いたから、たまに昼休みに付き合ってやってるの。監督生の周りにいる友人達って、ひ弱そうだし」
サバナクロー寮生の一人がそう言った。僕は内容を理解しようと瞬きする。彼女はサバナクロー寮生達から視線を外して僕を見た。
「そういうこと。エースとデュースに頼むより、腕っ節に自信がある彼等に頼んだ方が私も心置きなく叩き込めるし」
「俺等としてはもう少し手加減してくれてもいいと思うけど」
彼女の言葉にサバナクロー寮生達が揃って大きな溜息を吐いた。一方、彼女はサバナクロー寮生達に振り向いて頬を緩めた。
「いつもありがとう。また、よろしくお願いします」
一瞬だけ柔らかく表情を崩した彼女に、サバナクロー寮生達がぴしりと固まった。それから頬を赤くしたり耳や尻尾をぱたぱたと動かしながら、おうとかまたなとか、各々彼女に声をかけてその場を去って行った。
「くっそ強いくせにあいつ笑うとかわいいんだよなあ、まったく」
「少しはマドンナって呼ばれてることに気づけっつーの」
「俺、監督生より強くなったら告白するぞ!!!」
わらわらと歩きながら口々に言うその言葉に僕はむっと顔を顰める。かわいいマドンナとか思うなら男数人でマジカルペン片手に飛び掛かるのはダメじゃないか。
「で、あなたはここで散歩?」
サバナクロー寮生達の会話を聞いているのかいないのか分からないけれど特に反応しないまま彼女がじっと僕を見つめてきた。その表情は先程と違い緩く崩してはいない。あいつらに向けた表情を僕には見せないのかと思うと腹が立った。
「僕、監督生さんのこと探してたんだよ」
いつも通りに明るく声を出した。腹が立つ内心は見透かされないように。彼女は数回だけ瞬きして口を開く。
「私を?どうして?」
「昨日の本の続き、また中庭で読んでるかなあと思って」
僕の言葉に彼女はああと思い出したような表情を浮かべる。それから眉を僅かに寄せた。
「あの本ね、放課後オンボロ寮に戻ってから読み終わっちゃってさ。読みたかったの?」
「そうだったんだ。実はね、監督生さんの感想聞こうかなあと思って」
感想?と小首を傾げた彼女は右手の指の付け根を顎につけてしばし考える素振りをみせる。それから僕に視線を合わせた。
「素敵なお話だったよ」
「ええ!?それだけえ!?」
とってもありきたりな感想を彼女が表情を変えずに言ってのけるので僕は思わずツッコミを入れる。ちょうどその時、予鈴が鳴った。昼休みが終わる。
「それじゃあ、私はもう行くね」
ひらりと手を振ってから足早に去って行く背中に僕は呆然としたまま見送った。変わった人だなあ、うちのマドンナってやつは。と、思いながら。
次の日の昼休み、僕はまた彼女の姿を探した。まずは中庭のベンチに向かうが、彼女はいない。それならばと次は資料倉庫棟の裏を覗きに行った。そこにも彼女がいないし付き合わされるサバナクロー寮生達もいない。どうやら今日は練習試合とやらは行っていないようだ。僕はうーんと首を捻りながら当てもなく校舎の中をうろうろする。教室、運動場、体育館、実験室、何処を探してもいないのでもしかして体調を悪くしてオンボロ寮に戻ったのかもしれないと考えた。しかし、その考えは図書室の前の外廊下を通り過ぎてから間違いだと気づいた。ここ二日間で覚えた生体反応を感じた僕は通り過ぎかけた図書室の窓から室内を覗いた。すると、ほんの一瞬だけど席につく彼女の姿を見つけた。僕は慌てて元来た場所を引き返し図書室の中へ足を運ぶ。ほんの一瞬だけ見えた場所を目指すとそこには背筋を正して席に付き、本の文章をなぞる彼女の姿があった。
「監督生さん、」
こんにちは。声をかけたいのにそれ以上は言葉が出なかった。本の世界に夢中になっているだろう彼女の横顔に僕は口を引き結ぶ。色白の頬に赤みが刺し、大きな瞳の奥はじんわりと熱を帯び、うっとりとした表情は夢を見ているかのような女の子のそれだった。その姿は僕がここ二日間で見た彼女とは思えないほど全くの別人のようだった。ふいに、夢から覚めたかのように彼女の顔が上がり僕に視線を向ける。彼女は数回瞬きをしたあと、すぐに表情を引き締めて口を開いた。
「こんにちは。あなたも読書?」
「う、うん!そんなところ、かな?」
相変わらずの変化の乏しい表情だった。僕はたった一瞬で消えた彼女のあの表情が忘れられないままとりあえず彼女の向かいの席に座る。彼女の読みかけの本をスキャンすると、出てきた検索結果は童話だった。
「王子様が迎えに来てくれるまで。今日はそれを読んでいるんだね」
彼女は僅かに眉を寄せる。僕は瞼を閉じて調べたものをした。彼女にお勧めの本を探して。見つけてから瞼を開ける。彼女の大きな瞳と目が合った。
「その本が読み終わったら、僕のお勧めを読んでほしいな。きっと、監督生さんが気に入ると思うよ」
途端に彼女は数回瞬きをする。それから躊躇う様子を見せてからゆっくりと瞼を伏せた。
「笑わないの?」
「なんで笑うの?」
彼女の問いに僕は首を傾げる。瞼を開けた彼女の瞳と再び目が合った。
「似合わないって、よく言われるから」
あんまり表情は変わらないのに大きな瞳の奥が寂しそうな色をしている気がした。
「監督生さんが好きな本を読めばいいんだよ。似合わないなんて、勝手言わせておこう。ね?」
彼女の頬が緩んだ。ほんの一瞬だけど、柔らかい表情に変わる。その表情は昨日サバナクロー寮生達にお礼と共に向けたものだった。
「ありがとう」
彼女の言葉を聞いた瞬間、とくんと胸の部分に何かが鳴った。
この日を境に僕達は昼休みに図書室で待ち合わせるようになった。毎日のように僕が彼女が好みそうな本を探して彼女に渡す。受け取った彼女は昼休みに本を読んだり、その時には読まず放課後オンボロ寮に戻ってから読んだりをしていた。周りの迷惑にならないように、おしゃべりがしたくなったら図書室から中庭のベンチに移動して二人並んで座った。彼女がサバナクロー寮生達と剣術の稽古をする日は僕も一緒についていく。
気がつけば、僕は彼女と出会った日から夢中になりながら彼女のことを追いかけている。
交流する回数を重ねるうちに自然と彼女のことを知るようになった。彼女が異世界からツイステッドワンダーランドへ迷い込んだのは本当の話だった。
「私の家は江戸時代から続く剣道場なの。といっても、時代の流れもあって途切れてしまうこともあったけど、細々と続けている。だから道場主の娘として産まれた私も物心ついた時から竹刀を握ってた。これでもね、二刀流もできるし居合いだってできるんだよ」
ある日の昼休み、中庭のベンチに座りながら彼女が自分のことを僕に話してくれた。
「学校もずっと女子校育ちで、男の子と話すのは道場仲間だけ。そのせいで、学校でラスト・サムライって呼ばれるようになっちゃって。世界的な俳優、ケンさんじゃないのにね」
表情をあまり変えず淡々と話す彼女の横顔を僕は頷きながら見つめる。
「愛の告白ってやつも男の子からされたことないのに女の子からはいっぱいしてもらったの。それは喜ばしいことに違いないんだけど」
ふっと彼女の表情が曇る。僅かに揺れた大きな瞳を僕は見逃さなかった。
「道場主の娘だから必死に稽古して強くなった。大会だって常に負けないように優勝だけを目指してきた。男女の差なんか関係ないって証明してきた。だけど、」
そこまで言ってから彼女はハッとしたように顔を僕に向けた。眉を下げて曖昧な表情に変わる。
「私ばかり話してごめんね。あなたが聞いてくれるから、つい」
予鈴が鳴る。彼女がベンチから立ち上がった。僕は思わず彼女の手首を掴んだ。
「僕、監督生さんとお話するの楽しいよ。それに、監督生さんのことをもっとたくさん知りたい」
なんて言えばいいのだろうと僕は考える。彼女はきっと、探しているのかもしれない。ラスト・サムライではなくお姫様として受け入れてくれる王子様のことを。
「僕はそのままの監督生さんが好きだよ」
言ってから、頬に熱が集まった。あれ?今とんでもないことを口走った気がする。それに気づいた瞬間、僕は慌ててベンチから立ち上がって彼女の前にふよふよ浮く。
「あ、あのね!深い意味はないんだ!えーと、その、」
特に慌てる必要もないのに僕ときたら訂正しなければと感情を掌るプログラムが騒ついている。一方、彼女は表情を変えないまま数回瞬きを繰り返す。それからゆっくりと頬を緩めた。
「ありがとう」
僕に掴まれた手とは反対の手を伸ばし僕の頭に触れた。優しい手つきで頭が撫でられる。兄さんにいつもされるみたいに。
「う、うん!」
返事をしながらも僕の頬がさらに熱を持った。電子回路が故障したのかと思った。彼女は僕の頭を撫でる手を外し僕に掴まれた手もそっと離す。ひらりと軽く手を振ってから彼女は中庭から去って行った。
放課後、珍しく彼女が図書室にいた。いつもだったらすぐにオンボロ寮に戻るのに、今日は寄り道しているらしい。たくさんの本が並ぶ本棚を前にして彼女が数冊の本を抱えながら眉を寄せている。僕は周りの利用者達に迷惑がかからないように極力小さな声で彼女に声をかけた。
「監督生さん。どんな本を探してるの?」
僕は彼女の抱える本を覗き込む。数冊の本はどれもかわいらしい題名のおとぎばなしだった。
「王子様が迎えに来てくれるような、そんなお話がいいなと思って」
彼女の瞳の奥に熱を感じる。それを見た僕は確信した。
「監督生さんは、王子様に憧れているんだね」
彼女が僕を見た。僅かに彼女の顔が強張る。僕は彼女の表情を見てようやく気がついた。彼女は好きものを好きと言えずに強くなる道を歩んできたのだろう。ラスト・サムライなんて呼び名は彼女に夢を見させないための呪縛のようだ。
「任せて。僕が監督生さんの憧れの王子様を探してあげる」
僕は彼女が抱える数冊の本を持った。手持ち無沙汰になった彼女は躊躇うように手を宙に切る。少し逡巡してから彼女が表情を崩した。
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて私にお勧めの本を探してもらおうかな」
僕の思考回路が一瞬停止した。でも、すぐにハッとしてから僕は彼女の好む本を頭の中で検索する。彼女が憧れる王子様ってやつを僕も知りたくなった。
翌日、彼女が箒から落ちたと彼女と練習試合とやらをするサバナクロー寮生達から聞いた。
何故そんなことになったのか尋ねると、休み時間に空を飛んでみたいとぽつりと呟いた彼女の声を拾った彼女のクラスメイト達が揃いも揃って空の旅へと誘った。当然彼女は断ったけれど、納得のいかないクラスメイト達はじゃんけんデスマッチとやらを開催し、見事勝ち取ったディアソムニア寮生のクラスメイトが意気揚々と彼女を箒に乗せて飛び立った。彼女はあまりの高さに普段あまり変わらない表情を恐怖に染めて一緒の箒に跨るディアソムニア寮生のお腹に後ろから抱きつくように両手を回したらしい。
「いや、あれ、くっそ羨ましかった」
「だって、普段つーんとした監督生から大胆に抱きつかれるだなんて」
彼女のクラスメイトであるイグニハイド寮生達が野次を飛ばしたのは言うまでもない。実は、彼女が箒から落ちた原因はそれだった。自分の背中に当たる彼女の豊満な胸の膨らみに動揺したディアソムニア寮生が魔法の加減を間違えたのだ。その結果、バランスを崩した二人は空から地面に向かって落下。それをたまたま通りかかったバルガス先生が気づき、ディアソムニア寮生を魔法で助け、彼女も両手で抱きとめた。所謂、お姫様抱っこである。
「何をしているんだ!!!おまえ達は!!!」
二人を助けたバルガス先生は周囲にいた彼女のクラスメイト達を捕まえて当然怒った。その間、怒りをほんの少しだけ沈めて自らの腕の中にいる彼女に向かって声をかけた。
「もう大丈夫だ。安心しろ。このまま保健室へ行って大事ないか診てもらうおう」
というわけで、彼女は現在保健室にいる。
話を聞いた僕はすぐに保健室へ向かって飛んでいった。最高速度で宙を飛ぶ僕を見た生徒達が何だ何だと驚きを露わにさせながら道を譲ってくれた。
「監督生さん!?大丈夫!?怪我してない!?」
保健室の扉を思いっきり開けるとガコンと鈍い音がなったが気にしてはいられない。数あるベッドの一つに腰掛けた彼女は僕に振り向いた。その彼女に向かって深々と頭を下げて謝るディアソムニア寮生がいる。
「バルガス先生が助けてくれたから大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
早口に言った彼女は目の前で頭を下げ続けるディアソムニア寮生にすぐさま向き直る。普段表情の変化をさせない彼女にしては珍しく慌てた様子だった。
「私も軽率なことを言ったしさ、ごめんなさい。だからもう、気にしないで」
「いや!あれは僕の不注意だ!監督生に怪我をさせていたらと思うと気が気じゃない!」
「怪我もないし本当に気にしないで。それに私、自分の身体が頑丈なの自覚あるから」
「しかし、それでは、僕の気が済まない」
目の前で繰り広げられている言い合いに僕は彼女が元気そうでよかったとホッとした。会話の内容からしてこのディアソムニア寮生が彼女の豊満な胸に気を取られて彼女諸共箒から落下した張本人なのだろう。
「僕、責任を取るよ」
ディアソムニア寮生が彼女の真っ白い手を両手で包み込んだ。ディアソムニア寮生の口が動く。
「監督生、いや、名前さん。僕と結婚しよう」
彼女が瞬きした瞬間、ディアソムニア寮生が保健室の壁を突き破って何処か遠いところへ飛んでいった。彼女が僕を見る。僕は最大から出力を低下させながら彼女に向かってにっこりと微笑んだ。
「今のお友達、何か言いかけてたけど監督生さんは聞こえた?」
「責任を取るまでは聞こえたんだけど、それ以降はあなたの魔導ビームとやらのせいで聞こえなかったよ」
彼女は風穴が空いた保健室の壁に視線を向けながら眉を寄せる。
「彼、怪我していないといいけど」
それから彼女は再び僕を見た。少しだけ苦笑いを浮かべながら。
「事情は分からないけど、誰かに向かってビームを打ってはいけないよ。おわかりだね?」
何故か彼女の背後にリドル・ローズハートさんの幻覚が見えた。僕はとりあえずしゅんと肩を落としてみせる。反省してますと意味を込めて。
「ごめんなさい」
よろしいと彼女が頷く。それから彼女は表情をやんわりと崩して僕を手招きした。
「お見舞いに来てくれたんでしょう?」
僕は彼女の側までふよふよ浮かんでいく。彼女の身体をもう一度スキャンしてみる。故障箇所は何処にもないので本当に無事のようだ。
「怖かったでしょう?」
「そりゃあ、結構な高さから落ちたしさ。でも、」
彼女の大きな瞳の奥が煌めいた。それを隠すように長い睫毛に縁取られた瞼を閉じる。
「正直に言うと楽しかった。魔法士はみんな箒で空を自由に飛べて羨ましいね」
ゆっくりと彼女の瞼が開く。僅かに睫毛が震えた。
「監督生さんが空を飛ぶことに憧れているのは知らなかったなあ」
率直な感想だった。彼女と話すようになってから一度も空を飛びたいなんて話題が出てこなかったので。僕の感想を聞いた彼女はうーんと首を捻る。
「幼い頃から白馬に乗った王子様に迎えに来てほしいなんて憧れはあったけど。でも、箒もいいかなあと思って」
ふいに、彼女の頬が赤く染まる。何かを思い出したようにハッとした彼女は両手で頬を押さえた。
「お姫様抱っこ、初めてされた」
ん?と思いつつ僕は彼女の顔をじーっと見つめる。今の彼女の表情は夢を見ているかのようにとってもかわいい。だけど、それに浸っている場合ではない。僕は嫌な予感がしつつも尋ねずにはいられなかった。
「もしかして、箒から落ちたところを王子様に助けてもらいたい。と、思ってる?」
王子様、と小さく呟いた彼女の顔がさらに赤くなった。まさかと思いつつ僕は再度尋ねた。
「監督生さんの理想の王子様って、バルガス先生みたいな人だったりして?」
彼女が顔を上げて僕を見る。少しだけ躊躇う様子を見せてつつも、恥ずかしそうに顔を両手で覆った。
「白い歯で爽やかに笑う色黒で筋肉質の王子様にずっと憧れていたの」
がーんと言いたくなった。たぶん、彼女のことを影ながらマドンナって呼んでいる人物達が聞いたら卒倒するだろう。彼女の夢を否定するわけではないが、はっきり言ってあんなにムキムキマッチョの王子様の物語なんぞツイステッドワンダーランド中探してもないと思う。
とりあえず僕は、兄さんにムキムキマッチョのギアを開発してもらうよう頼むことにした。
今日も今日とて兄さんは非対面授業に精を出している。そんな見慣れた兄さんの姿を一人寮に残し僕は校舎へ向かう。すると、これから体力育成に向かう一年生達に出会した。確か、今すれ違ったのはA組の生徒。つまり、彼女が在籍するクラスだ。僕は生徒達を追ってグラウンドに移動した。すると、そこには運動着に着替えた彼女が準備運動をしているところだった。
「あ、」
監督生さん。と続けようとして動きを止めた。彼女の足元には魔獣、その側には二人の男子学生がいた。僕の知る情報だと、魔獣がオンボロ寮のグリムさん、男子学生はハーツラビュル寮生のエース・トラッポラさんとデュース・スペードさんだった。
「名前、今日こそは負けないぞ」
「元ヤンと鍛え方が違うの。剣道場で培ってきた体力を舐めないでいただきたい」
ぐっと拳を握るデュース・スペードさんに対して彼女は表情を変えないまま言葉を返す。それを眺めていたエース・トラッポラさんは呆れたように苦笑いを浮かべてから無遠慮に彼女とデュース・スペードさんの肩を組んだ。
「はいはい。青春だねえ。つか名前、おまえ、最近リドル寮長に似てきてね?」
「それオレ様も思ってたんだゾ。こいつと話してるとリドルと話してるみたいなんだゾ」
エース・トラッポラさんがおもむろに彼女とデュース・スペードさんの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。彼女とデュース・スペードさんの嫌がる声が重なった。
「それ、俺も思った。ローズハート寮長に仕草が似てるというか」
「似てないから」
彼女とデュース・スペードさん双方から手を払われたエース・トラッポラさんはすぐにしゃがみ地面に立つグリムさんの小さい頭をわしゃわしゃ撫でる。今度はグリムさんから悲鳴が上がった。
「おい名前!デュース!オレ様を助けろーーー!!!」
ぎゃあと喚くグリムさんをエース・トラッポラさんが楽しそうにぐしゃぐしゃぐしゃと撫で続けている。一方、グリムさんに助けを求められた彼女とデュース・スペードさんは全く気にする素振りをみせず二人で世間話しながら準備運動を続けていた。
「名前で呼んでる」
仲のいい三人と一匹に僕は何故かもやもやした。遠慮のない間柄の彼女達に何かが湧き上がってくる。何かは、分からないが。僕はぎゅうと拳を握りしめる。それから急いでイグニハイド寮へ戻った。
グラウンドに再び行くとA組の授業が始まっていた。僕は慌てて彼女の姿を探す。すると彼女はこれからグラウンドを周回するところだった。
「よーし!俺はデュースと名前、どっちが勝つか賭けようかなあ?」
そう言いながらエース・トラッポラさんがまた彼女に肩を組んだ。僕は思わずむうっとした。監督生さん、と言いかけて口を噤む。僕だって、あのトランプ兵達より彼女と親しくなりたい。そう思った瞬間、ほとんど無意識に彼女の名前を呼んでいた。
「名前さん!僕と一緒に走ろうよ!」
エース・トラッポラさんの腕から逃げながら彼女が僕に振り向いた。一瞬、目を大きく見開いた。それから数回瞬きをしてから彼女が控えめに頬を緩めた。
「こんにちは。今日はいつもと格好が違うね」
「うん!アスレチック・ギアだから、足が地面に着くんだ。だから、思いっきり走れるよ!」
エース・トラッポラさんとデュース・スペードさんとグリムさんはそれぞれ目を丸くして僕を見る。それから二人と一匹は耳打ちし合った。
「噂で聞いたことある。色んな学年の授業に自由に出入りできる生徒がいるってさ」
「僕も聞いたことあった。イグニハイド寮の子、だよな?」
「名前とずいぶん親しそうなんだゾ」
ひそひそ話は僕の聴覚を前にしては無意味だ。だから僕は見せつけるように彼女の色白の手を取った。
「行こう!名前さん!」
握られた手と僕の顔を交互に見た彼女は小さく笑った。
「一緒に頑張ろうね、オルトくん」
彼女の微笑みと初めて呼ばれた僕の名前に僕は顔が熱くなった。思考回路が真っ白になっていく。胸の辺りがどくどくと不可解な音を激しく立てていた。
「おい見たか!?監督生の顔!!!」
「え?え?はあ?嘘だろ!?」
とんでもなく騒めくクラスメイト達なんか目もくれず彼女は僕と手を繋いだまま走り出した。
「デュース!先に行っちゃうから!」
首だけを後ろに向けた彼女が楽しそうにデュース・スペードさんに声をかけた。その瞬間、デュース・スペードさんが固まる。そのデュース・スペードさんの肩をポンと力強く叩いたエース・トラッポラさんは足元にいるグリムさんのお尻も叩いてからにやりと口角を上げた。
「俺達のマドンナ、横から掻っ攫われてたまるかっつーの」
ある日のこと。勇気を振り絞った僕は週末に彼女をお茶会へと誘った。移動教室の途中で僕に呼び止められた実験着姿の彼女がぴくりと頬を動かした。
「ごめんなさい。週末は予定があって」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女の隣にいた二人と一匹は顔を見合わせる。それから彼女の肩を無遠慮に組んだトランプ兵二人はにやりと口角をあげた。
「悪いな、オルト。名前は俺達が先約済み」
「週末はなんでもない日のパーティーに招待しているんだ。ローズハート寮長直々に」
あきらかに勝ち誇った顔を見せるエース・トラッポラさんとデュース・スペードさんに対して僕はむうっと頬を膨らませる。そもそも、いつも三人と一匹で行動しているのだからたまの週末くらい僕に彼女との時間を譲ってくれてもいいじゃないか。
「なんか火花が散っている気がするんだゾ」
ぼそりと呟いたグリムさんの言葉に同意する人はいない。僕とトランプ兵二人の視線がかち合ったままバチバチと音が鳴りそうだ。
「それじゃあさ、オルトくんも一緒に行こうよ」
彼女に視線を向けると彼女は表情を変えずに僕を見ている。彼女と目が合った僕はぱあっと表情を明るくさせながら彼女の両手を握った。
「うん!僕も行きたい!兄さんに聞いてくるね!」
彼女の頬が僅かに緩む。しかし、それに浸る時間はもらえずに僕の手はエース・トラッポラさんによって彼女の手から引き離された。
「つーか、俺達で勝手に決めちゃあダメでしょ。リドル寮長に聞かないと」
「それもそうだね。リドル先輩にメッセージ送ってみるよ」
エース・トラッポラさんの指摘に彼女は淡々と返しながらすぐに実験着のポケットの中に手を入れてスマホを取り出す。画面を操作すると、瞬時にピコンと軽快な音が鳴った。
「あ、返信きた」
「はっや!!!」
「ケイト先輩からだけど」
「なんで!?」
エース・トラッポラさんのツッコミに触れず彼女はスマホの画面を見続けている。そのスマホの画面をグリムさんを抱っこしたデュース・スペードさんが覗いた。
「そういえば、これから二、三年生は寮ごとに合同授業だったな」
「だからかな。けーくんがオッケーしたからお友達も連れておいで!当日待ってまーす!って返信きてる」
彼女はスマホの画面から視線を外して僕を見る。やんわりと表情を和らげた。
「週末、一緒にパーティーに行こう。あ、でも、ちゃんとお兄さんに聞いてからだけどね」
僕が頷こうとしたらグリムさんが大きな声を出した。
「早く行かないとクルーウェルに鞭で叩かれるんだゾ!!!」
グリムさんの言葉にエース・トラッポラさんとデュース・スペードさんが心底嫌そうに顔を歪めた。
「早く行くぞ!みんな!」
デュース・スペードさんがエース・トラッポラさんの背中を押し、続いてエース・トラッポラさんは彼女の実験着の袖を強く引っ張った。エース・トラッポラさんに引っ張られた彼女は僕に視線を向けてからひらりと手を振った。
「またね、オルトくん」
僕は思わずむうっと頬を膨らませる。あまりにも親しい三人と一匹の姿に腹が立った。
「僕も行く!」
彼女の手を引っ張り廊下を早く進む。そのせいでエース・トラッポラさんの手が彼女から離れた。
「私達、これから錬金術の授業なんだけど」
「だから、僕は途中で兄さんのところに寄ってプレシジョン・ギアになってくる!」
繋いだ手からは彼女が困っている雰囲気を感じ取った。でも、ぎゅうっと彼女の手を握って離さない。よく分からないけれど、彼女が誰かと親しくしている姿を見ていると苦しくて悔しくなった。
週末、僕はオンボロ寮へ彼女を迎えに行った。そこには既にハーツラビュル寮服を着たエース・トラッポラさんとデュース・スペードさんがいた。
「よし!全員揃ったな!早く行こう。ローズハート寮長も名前達が来るのを楽しみにしていたぞ」
デュース・スペードさんがぽんと軽く彼女の肩を叩く。エース・トラッポラさんはにいっと口の端を上げながら僕に肩を組んできた。
「今日、すっごくいいもの見れるから、楽しみにしてな」
「いいもの?」
僕が聞き返してもエース・トラッポラさんはそれ以上言わず僕から離れた。
ハーツラビュル寮に着くとまっすぐにパーティー会場へ案内された。薔薇の花々に囲まれた広い庭園で開くなんでもない日のパーティーに僕は目を瞬いた。だって、イグニハイド寮だとこんな光景は見られない。
「オルトもよく来てくれたね。歓迎するよ」
リドル・ローズハートさんは僕に声をかけたあと、彼女に向き直る。その表情はずいぶんと優しいものだった。兄さんが、僕に向ける時みたいに。
「今日はたくさん食べていくんだよ。どのケーキが一番おいしいかまた僕に教えてほしい。次回のなんでもない日のパーティーでトレイに用意させよう」
「私はどのケーキもおいしいし好きですよ」
彼女の頬がやんわりと緩んだ。それを見たリドル・ローズハートさんは嬉しそうだった。
「ちょっとリドルくん。名前ちゃんといちゃついてないで乾杯しようよ」
「だ、誰が!い、いちゃついなんかない!」
ケイト・ダイヤモンドさんに指摘されたリドル・ローズハートさんの心拍数が乱れた。僕はじっと二人のやり取りを眺める。僕と同じようにその様子を見ていた彼女は否定も肯定もせずに表情を変えないまま近くにいたトレイ・クローバーさんに声をかけた。
「トレイ先輩の作ったケーキ、食べるの楽しみです」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
トレイ・クローバーさんは軽く笑い、騒ぐリドル・ローズハートさんとケイト・ダイヤモンドさんに声をかけた。
「というわけで、乾杯するぞ。二人とも、早くグラスを準備してくれ」
ようやく騒がしいやり取りが止まる。それから各々グラスを持ち、ハーツラビュル寮生全員を含めたパーティーの参加者が乾杯と声を上げた。僕の隣でグラスに口をつけようとした彼女が僕に振り向く。
「どうしたの?何か、違うの取ってくる?」
心配そうに眉を下げた彼女に僕はハッとする。彼女は僕の手の中にある並々とジュースが注がれたグラスを見ていた。そこで僕はしまったと理解した。本当だったらこのまま誤魔化してやり過ごすつもりだったけど、彼女相手にはそれができなかった。
「実は僕、経口摂取機能がついてないんだ」
数回瞬きをした彼女は顔を強張らせた。
「ごめんなさい、知らなかった。じゃあ、パーティに行くの、無理強いしちゃったよね」
「ううん!違うよ!最初に名前さんをお茶会に誘ったのは僕の方だもん」
彼女の表情が曇る。どうしたらいいかと悩むように瞼を伏せた彼女に僕は後悔した。そりゃあ、経口摂取ができないヒューマノイドとお茶会なんておかしな話だ。だけど、と僕は顔を上げる。持っていたグラスを手近なテーブルの上に置き、僕は意を決して口を開いた。
「僕、どうしても、名前さんと一緒に過ごしたかったんだ。名前さんとお茶して、時間を忘れておしゃべりがしたい」
彼女の瞼がゆっくり開いて僕を見た。僕は思わず彼女の両肩を両手で掴んだ。
「だから、悲しそうな顔しないで。僕ね、名前さんの笑った顔が大好きだよ」
数回瞬きをした彼女は口を引き結ぶ。その瞬間、彼女の頬が一気に赤く染まった。彼女の反応に僕は首を傾げる。そして、今言った言葉を思い出して僕の頬に熱が集まった。
「ありがとう、かな?」
「どういたしまして、かな?」
ぎごちなく会話する僕達をハーツラビュル寮生達がじーっと見つめている。その一角で、顔を真っ赤にさせながらウギギギ状態になっているリドル・ローズハートさんを必死に抑えるトレイ・クローバーさんとケイト・ダイヤモンドさんがいた。
「ボクは認めない!!!絶対に認めない!!!名前にはその時がきたらボクが然るべき相手を見初めてあげるんだ!!!絶対に!!!」
「落ちつけリドル!!!まだ決まったわけじゃない!!!」
「そうだよリドルくん!!!まずは落ちつこう!!!ね!?」
そんな先輩達を尻目にエース・トラッポラさんは深々と溜息を吐いた。
「あーあ。おもしろいもの、こっちが見せつけられたって感じ」
その後、一先ず騒動が落ちつきなんでもない日のパーティーが再開した。テーブルの一つに席をついた彼女の目の前には切り分けられた色が艶やかに美しい苺のタルトがあった。いただきますと口にした彼女はまずはティーカップに注がれた紅茶を飲む。僕は彼女の隣の席に座り、彼女の顔を見つめている。
「あんまり見られると恥ずかしいんだけど」
「経口摂取できない僕はこうしていたいんだけど、ダメ?」
ティーカップを手にしたまま彼女は眉を寄せる。それから仕方なさそうに眉を下げた。ティーカップをソーサーの上に戻した彼女は今度は綺麗に磨かれたフォークを手に持つ。苺のタルトをフォークで一口サイズに切り分けてからゆっくりと食べた。
「おいしい」
苺のタルトを口に入れた瞬間、彼女の目尻が下がる。ほんのりと赤く頬を染めて、口元が綻んでいく。まるでとろけるように表情を崩していく彼女の姿に僕は大きく目を見開いた。なんて、愛らしい顔をするのだろう。僕の胸の部分がエラーを起こしそうになるほど不可解な音を刻んでいく。そんな僕の気を知らない彼女は蕩けるような幸せそうな表情のまま苺のタルトを食べ進めていった。
「な?おもしろいものが見れただろ?」
ふいに、エース・トラッポラさんが僕の肩を組んで言った。僕は視線を彼女から外さないまま小さく頷く。
「あいつがあんなにかわいい顔するって知ってるの、ハーツラビュル寮生だけだと思うぜ」
それは嫌だなと思いながら眉を寄せる。そんな僕の様子を眺めながらエース・トラッポラさんは言ってのけるのだった。
「俺達のマドンナなんだよ、あいつは」
それは牽制だったのかもしれない。だけど僕は、そんな牽制をおとなしく聞くことができなかった。だって、気づいてしまったから。
僕は、名前さんのことが好きなんだ。
彼女に恋したと気づいてから僕は悩んだ。僕はヒューマノイドだ。ヒトである彼女に恋する資格は僕にはない。だいたい彼女だってロボットから好かれても困るだろう。彼女はあまり気にしてはいないが、そもそも彼女はナイトレイブンカレッジの紅一点。あまり豊かではない表情ではあるが、ほんの一瞬だけ触れる彼女の優しい雰囲気に憧れる男子生徒は多い。エース・トラッポラさんの言う通り、彼女はみんなのマドンナだ。だから、誰かのものにはしてはいけない。それがロボットである僕ならば、尚更だった。
悩みに悩んでも、どうすればいいか分からなかった。こんな気持ちになったのは兄さんに造られて目を覚ましてから一度もなかったから。
数日間、僕は悩んだまま彼女に会うわけにはいかず避けた。そんな時、僕に声をかけてきた人物がいた。
「何なの?そんな辛気臭い顔して」
腕を組んで僕を見つめるヴィル・シェーンハイトさんの姿に僕は首を傾げた。
「辛気臭い?僕が?」
「他に誰がいるのよ」
廊下のど真ん中で腕を組んで立っているだけのヴィル・シェーンハイトさんはそれだけで絵になった。流石世界的カリスマ俳優。存在感が凄い。
「まあ、言いたくないならいいけど。ただ、周りに悟られたくないならシャキッとなさい」
それは僕の態度が周りの人間に滲み出ているという意味だと理解した。僕は悩む。いっそのこと、誰かに言ってしまった方が答えが出るのではないかと。
「兄さんにはまだ話してないんだけど」
「あら。イデアより先にアタシでいいの?」
ヴィル・シェーンハイトさんの言葉はもっともだ。本当なら、こんなに大切な話は誰よりも先に兄さんに言うべきだと思う。だけど。ぐっと拳を握ってから僕はヴィル・シェーンハイトさんを見上げる。ヴィル・シェーンハイトさんは茶化すわけでもなくただじっと僕を見つめたままだった。
「ヴィル・シェーンハイトさんがいいんだ。僕の話、聞いてくれる?」
ヴィル・シェーンハイトさんの頬が緩む。それから優しさを携えた目を僕に向けた。
「いいわよ。ついてきなさい」
僕に背を向けて歩き出したヴィル・シェーンハイトさんの背中を追う。頭の中に兄さんの姿が浮かんだので声に出さないで謝った。ごめんなさい、兄さん。それでも、僕を造ってくれた兄さんにはまだ伝えられない。僕の気持ちがはっきりと定まってから、兄さんとちゃんとお話をしたいから。
ヴィル・シェーンハイトさんについて行くとポムフィオーレ寮の庭園の一角に辿り着いた。
「ここはアタシのお気に入りの場所で寮長の仕事をしたり課題もしたりするの。だから、ポムフィオーレ寮生も近づいてこないわ。まあ、ルークだけは例外だけど」
ヴィル・シェーンハイトさんに促されながらガゼボの下に作られた椅子に座る。テーブルを挟んで反対側の椅子に座ったヴィル・シェーンハイトさんは早速話すように促した。
「で?悩みごとは何なの?」
単刀直入に聞かれた言葉に僕は瞼を閉じる。うまく言葉が出てこないけど、と決意して瞼を開ける。僕は一生懸命今の気持ちを言葉に乗せた。
「僕、ヒトに恋しちゃったんだ。でも、どうしたらいいか分からなくて」
僕はヴィル・シェーンハイトさんに話した。彼女のことが好きだと気づいただけで、これ以上望みはないこと。ヒトである彼女にヒューマノイドの僕が恋をする資格がないことも分かっていること。ヒトである彼女は僕なんかよりいくらでも人間の男性を選べること。それを分かっているのに、事実を受け入れようとしているのに、身体中の回路が拒否を示していること。そして何より、僕にとっての一番が兄さんで変わりないはずなのに、同じくらい彼女のことを考えてしまうこと。
一語一句、ヴィル・シェーンハイトさんは頷く。やがて、僕の話を聞いたヴィル・シェーンハイトさんはばっさりと言ってのけたのだった。
「アタシに相談するよりも前に、答えは決まってるじゃない」
ヴィル・シェーンハイトさんは表情を変えないまま僕の顔を凝視する。
「好きなんでしょう?名前のこと」
「そうだけど」
「アンタのお兄さんは、弟の恋を応援できないほど狭量の男だったかしら?」
「でも、僕は、」
僕は思わず俯いた。俯いた先に見える僕の手は機械仕掛けだ。こんな手で彼女を抱きしめてしまったら、彼女は怖がるだろう。
「名前さんの憧れる王子様にはなれないよ」
「笑えるわね。何故王子様にならなければならないの?」
ヴィル・シェーンハイトさんが深く息を吐いた。僕が顔を上げると相変わらず真剣な瞳がこちらを向いたままだった。
「アタシだったら王子様になんかなってやらないわ。お姫様が王子様に憧れるのなら、お姫様を横から掻っ攫うヴィランになる。だって、ヴィランがお姫様に恋しちゃいけないなんてシナリオ、何処にもないもの」
ずいと、ヴィル・シェーンハイトさんが少しだけ近づいた。テーブルを挟んだ向こうから覗く双方が鋭いものに変わった。
「もっと欲しがりなさい。もっと欲張りになりなさい。いつかのことなんて考えないで、今だけでもいいから、好きな人のことを求めたらいいのよ」
僕はハッとした。それに気づいたヴィル・シェーンハイトさんは頬を緩めてから姿勢を正す。
「ほら。答えはとっくに出ているじゃない」
僕は立ち上がってからヴィル・シェーンハイトさんに深々と頭を下げた。
「ありがとう、ヴィル・シェーンハイトさん。僕、兄さんに話してくる」
僕がポムフィオーレ寮を去ったあと、ヴィル・シェーンハイトさんはガゼボに向いているセキュリティカメラに向かって視線を投げた。
「と、言うわけみたいよ」
カメラの向こうの人物は固まっている。その意味をまだ、僕は知らない。
イグニハイド寮に戻った僕は正直な気持ちを兄さんに話した。
「僕、名前さんのことが好きなんだ。名前さんがヒトで僕がロボットだということも分かってる。それでも、僕は、この恋を大切にしたい。名前さんに僕の気持ちを、分かってほしいんだ」
僕の話を聞いた兄さんは椅子から落ちた。目を真ん丸に開いたかと思えば物凄い早さで瞬きを繰り返した。
「え、えーと、あの、その、」
兄さんが頭を両手でがしがしとかいた。というか、掻きむしりだした。僕は黙って兄さんの言葉を待つ。兄さんは凄く悩んだ表情をしたままその場から動かない。やがて、時間だけが過ぎていく。兄さんはようやく口を開いた。
「オルトの気持ちが本気なんだって分かってる。だから僕は、オルトの恋を応援するよ」
兄さんが僕を見る。僕とお揃いの色した瞳がゆらゆらと揺れていた。
「頑張れ、オルト」
僕はうんと大きく頷いた。
それからの僕には最強の味方ができた。彼女が今食べたいスイーツ、制服デートがしたいという願望、最近彼女を狙う輩など、兄さんから流される彼女の情報を元に僕はどんどん彼女に近づいた。ちなみに、その情報源は何処からと聞くと、彼女本人からと兄さんが答えた。
「兄さん、名前さんと話すような仲だった?」
「知り合い程度には」
彼女のことを話すと兄さんは笑う。至極楽しそうに笑う姿を見て、僕も嬉しくなった。僕の好きな人を僕の大事な人が受け入れてくれる、そう思える僕は幸せ者だった。
紆余曲折あって、僕は晴れて彼女と恋人同士になった。ヒトである彼女がロボットである僕を求め受け入れてくれて嬉しかった。
「本当はさ、オルトと名前が付き合うの反対だった。俺もデュースも、名前の幸せを願ってる。かっこわるいのは重々承知。それでも、大事な親友がおまえがいいって笑うから。俺達は受け入れるよ。だから、約束してほしい。名前のこと、絶対に幸せにしろよな」
僕と彼女の交際を知ったエース・トラッポラさんに言われた言葉に、彼女の側にいつもいるトランプ兵達がどれだけ彼女のことを大切に思っているか知った。だから、僕は決意した。いつか来る別れよりも、今はただ彼女のことを心から愛し大切にすることを。
ただ傍にいておしゃべりするだけで十分だった。それが僕以外の誰かに向ける親しみを込めた表情が許せなくなった。そして、僕だけを見てくれるようになった彼女。それなのに、いつのまにか僕は欲深くなってしまったようで、満足できなくなっていた。
ヒトとロボットは違う。ヒューマノイドの僕が兄さんの所有物という枠組みから外れて勝手気儘な行動をすることは許されない。分かってはいるのに、彼女のことをもっと触れたくなった。人間みたいに。
僕の我儘を受け入れた兄さんは僕の身体を作り変えた。彼女のことを丸ごと愛せるように。おかげで僕は彼女とキスもセックスもできるようになった。初めは兄さんのベッドの下に隠してある漫画を参考に行動を起こしてみた。残念ながらロマンチストの彼女は嫌だったようで激しく抵抗した挙句に逃げられたけど。だから、僕は、少しずつ学んでいった。彼女とする回数を重ねていきながら、どうすれば、キスもセックスも彼女が好むやり方になるのだろうと考えた。
結局は、考えるだけ無駄だった。あの天然記念物並みのロマンチストである彼女はいつだってお花畑の中でうっとりとするほど眩い星空の下でキスがしたいって人だ。そんな所を探して出向くまでキスがお預けなんぞ僕が堪えられない。
結果的に、僕は彼女に人目も憚らずキスすることにした。軽いキスくらいなら周りに見せつけるようにしてやった。深いキスはベッドの上で。本当は、真っ白いシーツの上で窓から見える星空を背景にセックスしたいという彼女の願望だったけど、無視。雑然とする兄さんの部屋で、ゲーム機で散らかる兄さんのベッドの上で、甘さなんか与えずに激しく抱いた。ちょっと泣きそうな顔してロマンチックじゃないと不満を溢す彼女にどうしても意地悪したくなっちゃったからこればかりはやめられそうにない。
彼女の素肌から感じる体温と、握り合う手と、柔らかい唇の感触。それを知れば知るほど、僕はどんどん欲深くなった。
気がつけば月日は流れていた。彼女と僕の交際は続き、長期休みに入る時は彼女を嘆きの島へ招待した。相変わらず仲がいい僕と彼女の姿に兄さんはひひひと笑っている。
幸せに浸っていた僕が目を覚ましたのは彼女がナイトレイブンカレッジを卒業するまで残り僅かとなった頃だった。
「結局、元の世界へ帰る方法、見つからなかったなあ」
卒業を間近に控えた彼女は表情を変えずに淡々と言った。その横顔につらくないの?と問おうとしてやめた。彼女は元々異世界からツイステッドワンダーランドへ迷い込んだ人間だ。彼女が元の世界へ帰ってしまったら、またラスト・サムライなんて呪縛に縛りつけられる日々に戻るに違いない。
「卒業したら、名前さんはどうするの?」
僕の質問に彼女はああと口を開く。それからなんてことないように続けた。
「学園長の鶴の一声のおかげで、剣術の指導者の道に進むことにしたの。私の知る剣道とはまた違った動きだから一から学ぶことにはなっちゃうけどね」
「鶴の一声って?」
「その剣術教室、学園長の知り合いが先生なんだって」
なるほどと思いながら彼女の言葉に相槌を打つ。とりあえず、異世界に帰れなくなってしまった彼女の未来がちゃんとあるなら安心だ。だけど。
「そこで指導者として認められたら、ナイトレイブンカレッジで体力育成の教師として迎えてもらえるの。学園長との、約束だから」
「凄いね!そっかあ。名前先生って呼ばれるんだ」
彼女のことを応援しているふりをした。本音を言えば、彼女には何処にも行かないでほしい。どうせ元の世界へ帰れないのなら、僕の傍から離れないで。
彼女と会話してからそんなに日が経たない時のこと、僕は兄さんに呼ばれた。
ナイトレイブンカレッジを卒業した兄さんの現在は、嘆きの島に戻り家業を継いでいる。そんな兄さん専用の研究室に、僕は兄さんと二人だけで向かい合ってテーブルについていた。
「オルト。大事な話があるんだ」
兄さんは目をぎゅっと閉じる。深く息を吐き、また顔を上げる。覚悟を決めたように僕を見た。
「名前氏を。いや、名前を僕の妻に迎える。彼女が卒業したら、このままシュラウド家に入ってもらおうと思っているんだ」
予想もしなかった言葉だった。だって彼女は、今もずっと僕の恋人だ。兄さんだって当然知っている。
「どうして、そんなことを言うの?」
「オルトと名前がこれからも一緒にいるためだよ」
兄さんから間髪入れずに返ってきた。僕はわけが分からないまま混乱する。人工知能がエラーを起こしかけた。
「兄さん。僕、兄さんの言っていることが分からない。分からないよ」
「順を追って説明するから、よく聞いて」
兄さんの表情がとても苦しそうに歪んだ。
僕と彼女が心の底から愛し合っているのは兄さんには痛いほど分かっている。だから、彼女が元の世界へ戻れないまま学園を卒業するなら、彼女と僕を結婚させればいいと兄さんは考えた。しかし、問題がある。僕はロボットで彼女はヒト。たとえ彼女が異世界人であっても人間である以上いくらでも結婚する方法がある。一方僕はロボットだ。ロボットはヒトではない。どんなに方法を探しても僕がいるこの世界でも彼女がいた異世界でもロボットが結婚するなんてできない。
では、形はなくても僕と彼女の間だけで結婚の契りを交わせばいい。という問題ではない。はっきり言えば僕は兄さんの所有物だ。いつか来る未来、僕の所有権を持つ兄さんが亡くなったら、僕はシュラウド家の誰かに引き取られることになる。どんなに僕が嫌だと拒んでも、ロボットである僕に拒否権はない。そして、僕と結婚の契りを交わした彼女ではあるが僕を引き取る資格は彼女にはない。何故なら、ただの口約束だし、ましてやロボットが相手の口約束だ。結局は僕と彼女の関係は書類上他人なのだ。
そこで兄さんは考えた。書類上とシュラウド家の前では兄さんと彼女が結婚する。そうすれば、兄さんが先に亡くなっても彼女はシュラウド家の人間だ。しかも、僕を造った兄さんの妻だ。つまり、必然と僕の所有権は彼女に移る。
「オルトと名前の結婚式は悪いけど公にはできない。それに、僕と名前の結婚式だって誰かに見せたくない。だから、結婚式は三人でやろう。僕と名前の分と、オルトと名前の分。婚約指輪も結婚指輪も僕達二人から彼女に贈ろう。名前は、天然記念物並みのロマンチストだからちゃんと素敵な夢を見させてあげないと。どうせあの子はフラワーシャワーや風船落としとか絶対に憧れるタイプだからね」
結婚式の話をする時の兄さんが幸せそうに見えた。だけど。と、兄さんは続けようとして黙り込む。再び、まるで苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。僕は何も言わず兄さんを見る。たぶん、僕が考えていることを兄さんは言いたいのだろう。僕達三人の、これからを。やがて、兄さんは躊躇う素振りを見せつつも、ゆっくりと口を開いた。
「僕はシュラウド家の血筋を途絶えさせるわけにはいかないんだ。僕は近い将来、子供を成さないといけない。しかも、一人だけできたからおしまいというわけにはいかない。それに、一回で子供ができるわけじゃない。つまり、子供ができるまで繰り返しその行為をしなければならない。その意味、分かるよね?」
兄さんが僕から視線を外した。やっぱりそうかと思いながら兄さんの言葉を頭の中で復唱する。要するに、だ。
「兄さんの妻となった名前さんとの間に子供を設けるために二人が性行為するんでしょう?しかも、一度や二度だけでは済まない、と」
どんなに彼女のことを愛していても、どんなに彼女と身体を合わせても、ロボットである僕とヒトである彼女の間には子供ができない。だから、これは、シュラウド家の血筋を守ることに必要な行為だ。跡継ぎである兄さんに課せられた義務だということも分かってる。
だけど。だけど!!!
「それを僕に了承しろと?あのロマンチストの名前さんにも同じことが言えるの?」
僕は視界がぐらぐらと揺れたまま兄さんを見た。兄さんはまだ視線を外している。
「ごめん」
兄さんの瞼が閉じる。ぎゅっと目を瞑る様はとても苦しそうだった。やがて、兄さんが瞼を開く。その瞳には何かの覚悟を決めたかのように熱が篭っていた。
「オルト。僕は、おまえにちゃんと話さないといけないことがある」
兄さんは僕に向き直った。いつもおどおどしている時とは違い、真っ直ぐに背筋を伸ばした兄の姿に僕は目を見開いた。兄さんは、本気だ。人工知能でも直感した。
「僕が名前を妻にするのはオルトと彼女のためだと言った。だけど、理由はそれだけじゃない。僕は、」
兄さんが深く息を吸った。じっと僕を見る。僕と同じ色をした瞳が僅かに揺れた。
「シュラウド家の血筋を守るためだけだとしても、僕は名前以外の人間とキスもセックスもできない。だから僕は、名前を妻に迎えることを選んだ」
え?と思う僕に兄さんは追い討ちをかけるようにはっきりと告げた。
「僕は名前のことを、ずっと、好きだった」
脳内にエラーが発生した。兄さんが?名前さんのことを?僕は混乱する。だって、兄さんはずっと僕と彼女の関係を応援してくれていた存在だった。だから、信じられなかった。信じたく、なかった。
「オルト。オルトの大切なヒトを、好きになって、ごめん」
兄さんが頭を下げた。深く、深く。それだけで兄さんが冗談を言っていることではないと理解した。
「ねえ、兄さん、」
兄さんの肩がぴくりと揺れる。僕は恥ずかしそうに笑う彼女の姿を頭の中に浮かべながら瞼を閉じた。
2022.09.20
Title by chocolate sea