Bookso beautiful yet terrific.

正直バカバカしいと思っていた。人参の飾り切りができなくても、出汁巻卵焼きなんか作れなくても、困ることなんかないじゃないか。腹立たしい気持ちと行き場のない劣等感を抱えたまま思いきり箸を突き刺すがこの感情を抑えることはできなかった。

「それ、おいしそうっスね」

さらりと言われたいただきますの言葉と同時に無残な形の人参が綺麗な指に包まれて形の良い唇の中へと吸い込まれていく。私が弾かれたように彼の目を見ると、彼もまたハッとしたように私の目を見る。それから顔を輝かせ、尚且つとろけるような笑みを浮かべてみせた。

「何これ!?めちゃくちゃおいしいっスよ!?」

「そんなわけない」

私の言葉に彼は小さく声を溢してから動きを止める。一方私はあまり食べる気がしないお弁当のおかず達に再び箸を向けた。彼は数回瞬きしたかと思えばゆっくりとした動作で私の隣に座る。穏やかな太陽の光が私と彼がいる屋上に降り注いでくれるおかげでアスファルトが心地良い程度にあたたかい。時折吹く風は暑くもなく寒くもなく申し分なかった。このお弁当さえなければ私の心も晴々していただろうに。

「なんでそんなにおいしくなさそうに食べるんスか?」

「おいしくないから」

思わず食べる手を止める。彼は私の箸を持つ手をじっと見つめた。不意に、彼は私の手の中にあるお弁当と箸を取り上げる。

「それじゃあ、これ、俺がもらってもいいっスよね?」

にやりと笑みを浮かべる彼に対し私は首を縦に振る。彼は私の了解を得てからすぐにお弁当を平らげてしまった。唐突に起きた現状に私は思考が追いつかないまま彼のことを見つめる。やがて、ごちそうさまと返ってきたお弁当はすっかり空っぽになっていた。

「本当においしかったっス。ごちそうさま。これがおいしくないって、体調でも悪いんじゃないっスか?」

「何処も悪くない」

「えー?本当っスか?」

私の顔を無遠慮に覗き込んでくる彼に対し私は負けじと彼を睨み返す。彼は一瞬だけきょとんとしたかと思えば今度は首を傾げてしまう。

「おいしくないだなんて、お弁当を作ってくれた人が悲しむっスよ」

「悲しむわけないじゃない」

「そんなことないっス」

「だって、それ作ったの、私だから」

飾り切りに失敗したせいで筑前煮の人参が不格好だし、出汁を入れすぎたせいで卵焼きは水っぽい、何より彩りが偏っているせいで見た目の美しさからかけ離れている。だからこれは失敗作だ。何度も言われ続けている言葉が頭の中に響いて消えてくれそうにない。

「そうやって祖父に叱られたの」

祖父に言われた言葉を彼に思わず口走ってしまったことを後悔しつつも、どうせ彼が私の愚痴なんぞ相手にしないだろうと思っていた。しかし、彼から返ってきた言葉は同情でも興味でもなく私の予想を遥かに上回るもの。

「そのお弁当、明日も作ってきてよ。俺が食べてあげる」

あっけらかんと言ってのける彼に私は訝しむ。彼は私の視線を遮るように片手を軽く振ってから同じことを二度と言った。

「冗談じゃないっスよ。俺、毎日名字さんの作ったお弁当を食べるから。それに、たぶん名字さんにとってもその方が良いと思うんスけど。ね?だから決まりっス」

無理に押し切られた約束に私は渋々首を縦に振った。それが私と彼の奇妙な関係の始まりだと気がつかずに。


モデル事務所に所属する彼のことを学校中で知らない人はいなかった。当然私も彼のことを知っている。何故なら雑誌やテレビで彼を見ない日はない。ちなみに彼が私のことを知っていたのは私がクラスメイトの一人だからだ。話は戻るが彼はあの日からずっと昼休みには毎日のように屋上にやってきて私からお弁当を奪っていく。その時何かしらの菓子を私に手渡すことを欠かさない。私が友達と一緒に過ごしていても彼は気にする素振りをみせず私が作ったお弁当を平らげていき、そしてお腹いっぱいなった彼はさっさと屋上を後にする。側から見れば私はある意味で彼のパシリみたいに思えるに違いない。実際私の友達からは私が彼にいじめを受けていると心配されることが多々あった。

「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないスか?」

ある日の昼休みのこと、今日は二人だけで昼休みを過ごしている。彼はいつものように私の作ったお弁当を食べながらそう言った。私は彼から渡された菓子に手をつけている。今日は何処ぞの和菓子屋で買ったらしい甘いカステラ。

「何のこと?」

「名字さん家はレストランを経営してるって風が教えてくれたっス」

どうやら彼に誤魔化しは効かないようだ。おそらく私の小学生の頃からの友人の誰かに聞いたのだろう。それにしても、風が教えてくれるわけがない。

「風の噂で聞いたって言いたいんでしょう?」

「どちらでもいいっス。それよりも、教えて」

彼からふざけた雰囲気が消えた。一瞬で空気が変わったのを感じる。彼は不思議な人だ。私が家族にさえも打ち明けていない悩みをあっさりと聞き出そうとする。それだけ彼のフレンドリーな雰囲気が私に限らず周りの人達を和ませる力を持つのだろう。

「それじゃあ、何のレストランかも耳に入っているでしょう?」

「うん。フランス料理って聞いてる」

噂話とは怖い。本人の知らないところでどんどん情報が漏れていく。私は頭の中に厳格な祖父の姿を浮かべながら口を開いた。

「祖父は名のあるシェフなの。だけど、当然生粋の日本人。だからまずは基礎として日本食を知らないとお店の味は教えられないって。これは私の父も同じように言われ続けてきた家訓みたいなもの、かな?」

「そっか。いつか名字さんもお店を継ぐんスね」

「まだまだ先の話だけどね」

「でも、すごい。かっこいいっス。そういうの、俺、尊敬する」

花が綻ぶようにパッと笑顔を浮かべた彼に私は心の底が少しだけ軽くなったような気がした。私にとっては深刻な話だけど彼にあっけらかんと言われると悩んでいたことがバカらしく思えてくる。現状は何も変わらないのに。

「そうと決まれば明日のお弁当も楽しみに待ってるっスね」

「なんか文脈おかしくない?」

「明日のデザートは何がいいっスか?」

「人の話聞こうよ」

屋上に響く二つの笑い声をこの日初めて聞いた気がした。それから時間が経ち、やがて、私と彼が中学を卒業する頃変化が起きたのである。私のお弁当作りは祖父にようやく認めてもらえるようになった。日本食の修行が終わり、これで私は次の課題へ進む。つまり、彼の突撃昼ごはんは無駄にならずに済んだわけである。


次なる課題は名字家の味を覚えること。その頃には私も彼も別の高校へ進学したので彼が私のお弁当を食べにくることはない。私もまたフランス料理を学び始めたのでお弁当を作ることがなくなった。その代わりなのか分からないが彼は週に一度私の家へやってくる。勿論、菓子を携えてくることも忘れていない。

「名字さん、開けて」

今日も私の自室の窓ガラスがコツコツ鳴る。カーテンを開ければ彼の悪びれない笑顔がそこにあった。どう考えてもこれは不法侵入だと感じつつも私は慣れたように窓を開ける。すると彼も慣れたように自らの靴を手に私の部屋の中へあがり込んできた。

「こんばんはっス。まだ起きてた?」

「これから来るって連絡があったからちゃんと起きてました」

「そりゃあそうっスね」

今日の彼は日付を跨いだ深夜にやってきた。別に彼の訪問は深夜に限ったわけではない。時間帯を特に気にすることなく早朝だろうが深夜だろうが関係なく突然現れて私に食事を作るよう要求してくる。私は自室が一階にあることを利用して、彼が訪ねてきた時は窓からこっそり彼を部屋の中に入れるようにしていた。こんな非常識な彼を家族に会わせるわけにはいかない。そのため彼には来る前日には連絡してもらうよう頼み、彼が来る前には軽い軽食を予め用意する。ちなみに、彼がきちんと前日に連絡を入れたことは数えるしかない。実際には到着二、三時間前に連絡することが当たり前になっていた。

「それにしても、よく食べるね」

「俺が大食いみたいな言い方はやめてほしいっス」

「否定はしないけれど。どちらかと言えば変な時間にご飯食べることがすごいという意味が強いかな」

彼は大皿に盛られたオムライスをスプーンですくいながら朗らかに笑う。成長期だからと適当な理由を述べてぺろりと完食してしまう。私は呆れながらも彼から貰ったコンビニで買ってきたプリンを口に運ぶ。結局彼と同じ時間に何かしら食べている私も大概である。そんなこんなで彼の訪問は結局これもまた高校を卒業するまで続いたのだった。


厄介なことに大学生になってもこの関係は続いた。意外にも彼の進学先は私と同じ大学で、しかも同じ外語をカリキュラムに組んでいる。私は主にフランス語だけど、彼は英語を始めとする様々な言語を学んでいるようだった。

「モデルの黄瀬くんだ!中学、高校の頃もかっこよかったけど、大学生になってからもっとかっこよくなったよね!」

学食で一緒に食べていた友人が遠くの席に座る彼を眺めながら興奮気味に騒いでいる。一方彼は大学に入学してからできた友達の輪の中で何やら楽しそうに笑っていた。きらきらと眩しいのは彼がモデルだからだと思う。私はといえば彼と中学の時の同級生であることを極力周りに言わないようにしていた。モテる彼絡みの話は万が一私に何かしら飛び火されても困る。例えば、私が彼と同じ大学にいるのは私が彼のストーカーだからと勝手な理由をつけて身に覚えがないのにいじめを受けるなど。

「それにしても、黄瀬くんって少食だよね。やっぱりモデルさんだとカロリーの問題があるからあまり食べちゃダメなのかな?」

友人の一言に私は首を傾げてみせる。特に興味がないという意味を示して。それから友人は再び彼を見つめながら疑問を口にした。

「黄瀬くんって潔癖症という噂があるよね。学食とかは食べるけど、基本的にコンビニなどの既製品しか食べないらしい」

そうなんだと相槌を打ちながら心の中でそんなわけないことを知っている。周りには言っていないが、彼は相変わらず私の家を訪ねては私の作った食事を食べていた。しかもあろうことか彼は私が大学を機に一人暮らしを始めたことをいいことに頻繁に私の家に通うようになったのだから。彼が潔癖症だなんてとんだ笑い話だ。

「いやー、相変わらず名字さんの作る料理はおいしいっス」

翌る日、本日も彼は突然やってきた。時刻は早朝。彼曰くサークルの飲み会で朝まで店をハシゴして飲んでいたらしい。おかげで彼が家に入ってきた途端部屋の中が酒臭くなった。それに、微かに女性物の香水も漂ってくるので案外何処ぞの女と一緒に朝を迎えていたのかも。

「食べたら早く帰ってね。私、今朝は教授に呼ばれていて遅刻するわけにもいかないから」

「えー?いつもより早く行くってことっスか?」

「そういうこと」

ついでなので私の分の朝食を作り、私は彼の向かい側の席につく。いただきますと手を合わせてから料理を口に運んだ。彼は私の顔をまじまじと見つめてからへらりと笑った。

「それじゃあ、俺も一緒に学校へ行くっス」

「は?」

「教授がどんな話をするか興味があるし。俺だって教授の講義を受けているんだから話を聞く権利があると思うっスけど」

めんどくさい彼の屁理屈に私は思わず溜息を吐く。正直この話は彼にとって楽しい話ではないし、私にとって真面目な話なのだ。

「行ってもつまらないと思うよ」

「それは俺が決めることっス」

「そうじゃなくて」

私は真っ直ぐに彼を見つめる。私は少し前から決まりつつある話をようやく彼に伝えることにした。

「修行先のお店が決まったの」

先程までへらりと笑っていた彼の表情が強張る。私はスッと短く息を吐いてから続けた。

「大学を卒業したらパリにある料理学校に入学するの。学校に通いながら有名店のシェフの元で修行が始まる。教授はそこのシェフと顔馴染みだから口聞きしてくれたというわけ」

私は再び食事を始める。一方彼は時が止まったかのように動かない。不審に思った私が彼に視線を向けると彼はいつものようにへらりとした笑みを浮かべてみせた。

「すごいっスね。名字さんはもう先が決まってるんだ。おめでとうって言えばいいんスかね?なんか、色々とすごすぎて何て言えばいいか分からないっスわ」

「黄瀬くんだって決まっているでしょう?今だってモデルで有名だし、芸能人というだけあってすごいと思う」

一瞬だけ彼の表情が暗くなる。だけどすぐに俺すごいっスと戯けてみせた。お互い忙しくなると共に食事することがなくなるのだろうか。なんだかそれが寂しく思えた。


大学を卒業してから私はすぐにパリへ出立した。彼の進路のことは特に聞いていない。時折くる彼からの連絡にモデルを続けていることが記載されているのでおそらく本格的に芸能活動に精を出しているのだろう。やがて、数年が経ち、彼と食事を共にしていた日々を忘れつつあったある日のことだった。私は料理学校を卒業しお店での修行に相変わらず精を出している。そんな時、お店の入口に設置してある鐘が軽やかに鳴った。ギャルソンのお客を迎える声が厨房に聞こえてくる。なんてことない当たり前の風景だった。注文を取ってきただろうギャルソンが厨房に顔を出す。しかし、注文内容を告げる前にギャルソンはシェフに小声で耳打ちした。私は見習い仲間と一緒に顔を見合わせて首を傾げる。すると、シェフは豪快に笑ってから私を呼んだ。

「君、お客様に顔を出してきてくれ」

「私が、ですか?」

「君以外ありえないだろう。失礼のないようにね」

にこやかに笑うシェフとギャルソンに押されて私は客席へ向かう。そこにはメートルもおり、メートルは一番端の席に座るお客を手で示した。私は促されるままテーブルへ向かう。

「お待たせ致しました」

困惑しながらもお客に声をかける。すると、お客は窓の向こうに広がる景色から私に視線を向けた。白い制服が陽の光のせいで輝いている。そのせいで、見慣れたはずの笑顔も眩しく思えた。

「久しぶり、名字さん」

フランス語で溢れかえっている世界に異質に響く母国語。私はここ数年ですっかり話さなくなってしまった日本語をようやく口にした。

「黄瀬くん、どうしてここに?」

「名字さんに会いに来た」

彼が着ている制服には見たことある日本の航空会社のロゴがデザインされていた。彼はいつものようにへらりと笑ってみせてからちらりと腕時計を確認する。それからまた顔をあげた。

「飛行機を着陸させてから真っ直ぐこの店に来たから制服のままなんだ。それに、まだ見習いの身だからすぐに戻らないといけないし」

「黄瀬くん、モデルの仕事は?」

「してるっスよ、一応ね。今は航空会社の看板モデルなんス。あ、でも、本業はパイロットだから、コスプレと勘違いしないように」

戯ける彼に私は思考が追いつかない。聞きたいことや言いたいことが色々あるけれど言葉にできなかった。喉の奥が詰まったみたいになるのは、異国の地で一人寂しかったからだろうか。そのせいで久々に再会できた友人の顔に目頭が熱くなったに違いない。

「そうそう、これ、おみやげっス。懐かしの和菓子っスよ。今回はいっぱい買ってきちゃった。栗菓子に餅菓子に色々」

私はただ頷くことしかできない。そんな私に彼はいつもの調子で言ったのだった。

「俺、お腹ぺこぺこっス。名字さんの作ったご飯、お願いします」

「かしこまりました」

震える声で何とか返事してから彼に背を向ける。だけど、またすぐに彼に呼び止められたせいで私は振り向いた。

「これ、忘れ物っス」

私の手に小さな箱が乗せられる。私が顔をあげると彼はほんのりと頬を染めてはにかんだ。初めて見た彼の表情に私は思わず瞬きする。

「今はまだお互いに見習いだから、これはいつかのための予約っス」

箱を開けると綺麗な宝石を散りばめた指輪が入っていた。私はまた言葉に詰まる。そんな私に対し、彼はいつものようにへらりと笑ってみせたのだった。


同じクラスだったからずっと気になっていた。普段は普通に過ごしているのに昼休みが近づくと途端に表情が暗くなる。俺が知る限り彼女に友達がいないわけではない。それなりに友人関係は良好なのに昼休みにみせる暗い表情が気になった。ある日の昼休み、彼女に声をかける勇気が出ない俺は思わず彼女の行き先をこっそり追いかける。今日の彼女は屋上で一人ランチタイムらしい。彼女はお弁当を開けた途端さらに表情を暗くさせた。勢いよくおかずに向かって箸を突き刺す姿はまるで何かに絶望しているように思える。

「それ、おいしそうっスね」

ようやく勇気を振り絞ってかけた言葉がそれだった。今にもお弁当の中身を捨てて、捨てたおかずを弔いそうな雰囲気の彼女をどうしても止めたくて夢中で具材に手を伸ばす。その瞬間、身体の中心が雷に撃たれたかのように衝撃を受けた。ありふれたお弁当のおかずなのにこんなにもおいしいのかと自分の舌を疑う。だけど、まやかしでもなくおいしいの一言に尽きる味付けに俺は手が止まらなくなった。結局俺はあっさりと彼女の料理の腕前のファンになったのである。やがて、俺は彼女の手料理以外食べられなくなった。こういうのが胃袋を掴まれたと表現するのだろう。そして、恥ずかしいことに彼女に恋をしていたとようやく気がついたのは彼女の料理が食べられなくなった大学卒業後。俺は料理以前に、彼女と共にする食事の時間が好きだった。彼女の存在がありつつも他の女と身体の関係を持った俺だけど、彼女に対する想いは本気だったのである。

「あの、突然すみません。日本人見習いの名字名前は今もそちらで働いていますか?」

パリの便に搭乗すると決まった時、俺は恩師から聞いた有名店のシェフに連絡した。予め恩師から紹介してもらっていたこと、そして彼女の勤務態度と腕前の評判が良かったことが重なりシェフは気さくに応じてくれたのである。そうして俺は彼女に会うためにパリへ向かった。彼女は俺のことを覚えているのだろうか、既に将来の伴侶が決まっているのだろうか、不安を抱えたまま例の店の扉を開く。すると、給仕係が俺の顔を見るなりにこやかに出迎える。俺は緊張しながらもモデルで鍛えた笑みを浮かべてみせた。

「先日シェフに連絡致しました黄瀬と申します。電話でお話した通り、俺の初恋の人を迎えに来ました」

給仕係が驚いた表情を浮かべてからすぐにシェフの元へ向かう。一方、共に話を聞いていた給仕長は俺に席を案内してから何やら楽しそうな笑みを浮かべた。

「あなた、まるで王子様みたいね」

王子様かどうか分からないが俺は曖昧な笑みを返した。給仕長が去ってから俺は窓際から見渡せるフランスの景色を目に焼き付ける。長かった、ここまで。自分の恋心を自覚するのも、どうすれば彼女に再び会えるのか考えるのも、今日まで必死になってやってきた。

「お待たせ致しました」

少し経ってから聞き慣れた昔のままの声が俺のすぐ隣から聞こえた。いや、フランス語でかけられた言葉だから少しだけ俺の知る声と違うかもしれない。彼女との日々が色褪せることなく脳裏に浮かぶ。昔のできごとだけで終わらせたくないから俺はモデルを辞めた。

「久しぶり、名字さん」

ぎこちない笑みではないだろうか。久しぶりに会う彼女の姿に胸が熱くなる。忘れられずどうしても離したくない人を目の前に俺は昔の自分を繕うのに必死だった。

2018.04.07
中毒|救済措置様