Bookso beautiful yet terrific.

 少し高い位置にある本に手を伸ばしたら横から伸びてきたほっそりとした指にぶつかった。僕が手の主を見ると彼女もハッとしたように僕の方に向く。それからお互いに伸ばしていた手を引っ込めた。

「お先にどうぞ」

「雪男くんこそ、お先に」

一つの本を巡り暫しの間お互いに譲り合う。しかし、埒の開かない展開が何だかおかしく思えて僕は笑った。すると彼女もまた僕につられるようにして笑ってしまう。顔をくしゃくしゃにして笑う姿に彼女がいつもより幼く見えた。任務の最前線でシュラさんと共に指揮官として腕を奮う彼女の姿を見慣れているせいで彼女の幼い一面が意外に思う。

「私、こちらの本と迷っていたの。だから、ちょうどよかったわ」

数ある本の中から二つ抜き取り、その内の一つを僕に手渡した。これは僕達が先程手がぶつかったきっかけになった本である。本の表紙にはファムファタルを知らないままでと印字されていた。僕が遠慮しようとすぐに本から顔をあげるがそれよりも早く彼女は僕に小さく手を振ってからさっさと去って行く。膨大な数の本棚の隙間を慣れたように歩き、すぐに貸し出しカウンターで手続きし、あっというまに図書館からいなくなった。ぼんやりとしていた僕も任務の時間が迫っていることに気がつき彼女から渡された本を持ってカウンターに行く。次に会った時に何かお返しをしなければと思いながら僕も図書館を後にした。
 結果的に彼女に返礼する日はすぐに訪れた。まだ任務が激化する前だったこの頃、よく祓魔塾の教師達と飲み会に行くことが定期的にあったのである。新人教師だった僕は神父さんに言われて先輩達のお酌に回り、やがて、シュラさんの隣で静かに酒を飲んでいる彼女のところへやって来た。

「何かおかわりを頼みますか?」

シュラさんは大きく手をあげて間髪入れずにビールと答えた。勿論、呂律は回っていない。一方彼女は大人しいままなので寝ているのかと思いながら僕は彼女の顔を覗き見る。その瞬間、彼女の身体が僕に傾いてくるので僕は咄嗟に両手を伸ばして抱きとめた。酒の匂いと共に彼女のシャンプーの香りが鼻を掠める。初めて大人の女性を抱きしめたのでドキドキした。もっともシュラさんは何回も介抱したことがあるがあれは大人の女性というカテゴリには入らない、僕の中で。

「雪男くん、優しいね」

えへへと顔を赤くして笑ったかと思えば彼女はさらに僕に抱きついてくる力を強めてくる。思わず喉の奥が鳴ってしまう。僕だって、思春期の男のわけだし。僕と彼女の様子を見ていたらしい神父さんに茶化す言葉をかけられながら僕は彼女の目を覗く。彼女の腕を振り解けないのは僕に多少なりとも下心があるからだろう。

「名前さん、帰れますか?」

「雪男くんと離れたくないからいいの」

返事にもならない言葉を彼女は頬を膨らませながら言う。こんなことを言われてドキドキするなという方が無理な話である。
 やがて、宴会がお開きになると彼女はシュラさんと肩を組んで自宅へ帰っていった。しかも、僕と離れたくないと宴会中僕のことを離してくれなかったのに、それはもうあっさりとしたお帰りで。

「疲れた」

小さくなる彼女の背中を見つめながら思わず呟く。しかし、やっぱりダメだった。シュラさんは電柱をバシバシ叩きながら大声で笑っているし、彼女は路上に寝そべって寝息を立て始めたのだ。結局放っておけない性分である僕は二人の腕を引っ張って自宅まで送り届けたのだった。


 久々に会った彼女はいつも通りだった。少々任務続きだった彼女が祓魔塾に戻ってきたので早速挨拶に向かうと彼女は相変わらずのお上品な微笑みを浮かべる。飲み会での醜態が嘘みたいだった。

「私、何か雪男くんに迷惑かけちゃったみたいで。ごめんね」

「いいんです、あの時のお礼でもありますし。あれから」

「だけど、私、どうやって帰ったのか覚えてなくて」

「は?」

大丈夫でしたかと続けたかったのに彼女の覚えてないという一言に何も言えなくなった。掌を頬に当てながら首を傾げる彼女の姿は気品に満ちている。道路のど真ん中で寝ていた酔っ払いには到底見えない。というか、よくよく考えると僕は本のお礼以上のことを彼女にしてやったような気もするのだが。ちなみに、彼女を自宅に送り届けると、彼女は僕の目の前で服を脱ぎだし素っ裸で僕に抱きついてきたけれど、勿論それ以上は何も起こってないが彼女が覚えていないのであれば言う必要はないだろう。事実、そのまま彼女は寝てしまったわけだし。僕も慌てて帰ったので断じて大丈夫。

「朝起きたら部屋着を着ていたの。私ったら、無意識に着替えていたみたいね」

正しくは僕が着替えさせたわけだけどね、心の中でツッコミながら僕は苦笑いを浮かべた。それにしても、彼女は酒に酔うといつもこうなのだろうか。彼女の飲み会の参加は初めてだったので彼女の酒癖についてはよく分からない。ただ、誰に対しても平気で服を脱ぎだすのはやめてほしいと思う。

「あ、そうそう。次回の任務、私と雪男くん一緒だって。よろしくね」

さらりと会話の内容を変える彼女に僕もすぐ切りかえる。彼女のマイペースはシュラさんほどではないが結構酷い。それでも僕は彼女のことを尊敬している。祓魔師としての彼女は大層立派な人だった。
 しかし、立派すぎる人は突然目の前からいなくなるものだ。彼女もまた然り。数日後、彼女は聖十字騎士団ヴァチカン本部へ移動になったのである。神父さん曰く、栄転というものらしい。


 次に彼女と再会したのは神父さんの葬式だった。立派すぎる人は突然目の前からいなくなるという僕の考え方は正しいようで、神父さんもまた前触れもなくいなくなった。喪服で現れた彼女は最後に見た日より疲れた顔をしていたと思う。思うというのは僕も神父さんの突然の死によりあまり周りを観察できる余裕がなかったからだ。

「獅郎さんにはシュラと一緒にお世話になったの。獅郎さんのおかげで雪男くんにも会えた。そして、獅郎さんは今度は違う出会いを示してくれている。本当に、素敵な人ね」

違う出会いと口にした時、彼女は遠くにいる兄さんに視線を向けた。何を思ったか分からない。彼女はいつも穏やかな表情をやめようとしない人だから、今日もそうだ。

「雪男くん、」

僕の頭をそっと撫でてくれた彼女に僕は涙腺が緩みそうになる。思わず瞼を伏せると彼女の微笑みが見えなくなった。

「一緒に頑張ろうね。私は、雪男くんの味方よ」

先々の不安が消えたわけではないが彼女の言葉は不思議なくらいすーっと僕の心の中に入ってきた。酔っ払うとだらしがないのに普段は人として素敵だと思う。だから僕は彼女の言葉を素直に受け入れた。


 神父さんが亡くなり、兄さんと同じ学校に通うようになり僕の生活は一気に変わりつつあった。そしてシュラさんがヴァチカンからやって来て、しばらく経った後、彼女も日本支部に戻ってきたのである。あの穏やかな顔で笑う彼女が傍にいると心強い。そう思っていたのに彼女との再会は僕が想像していないものになった。
 彼女がフェレス卿の私室にいると聞いた僕はすぐに彼女の元へ迎えに行った。僕が到着すると彼女がちょうど扉の向こうから姿を現したので僕は嬉しさに思わず頬を緩ませる。

「お久しぶりです、名前さん」

声をかけた。彼女の焦点が僕に向けられる。すると、彼女はゆっくりと唇に弧を描いて微笑した。

「雪男くん、久しぶりね」

目が笑っていない。穏やかな笑顔を携えているがその表情は最初から決められた形で作られた人形のようだった。元々人形のように美しい人だったと言えばそれまでなのだが、もっと彼女は人間らしい人物だったはず。普段はお上品だけど、時折顔をくしゃくしゃにして笑うようなお茶目な人。僕が尊敬できるかわいい人だったのに。

「大きくなった。でも、愛らしいままだわ」

さらりと言ってのけるが彼女は僕を見ていない。ずきりと胸に痛みが伴ったのは気のせいではないだろう。僕は彼女の形だけのお世辞に乾いた笑いを向ける。すると、焦点の合わない目がようやく僕に向けられた。

「雪男くんはそのままでいてね」

唐突に言われた言葉はまるで毒のように僕の全身にまとわりつく。薄っすらと微笑みを浮かべた彼女から妖艶な雰囲気が感じ取れた。途端に僕の身体が沸騰したかのように熱くなる。初めて見る彼女の姿に僕は瞬きすることも忘れてしばらく魅入っていた。


 再会した日から当然彼女と顔を合わせることが多くなった。彼女も教師として祓魔塾で勤務している。勿論、お互いに祓魔師なので任務の際は共に行動する場合もあるのだが、あの頃と違って彼女から僕に声をかけてくることがなくなった。何故だか分からない。自意識過剰かもしれないが僕は彼女に気に入られていたはずだ。それなのに、彼女は僕を避けている。
 決定的なのは祓魔塾の教師達と飲みに行った時だった。相変わらずシュラさんは酒瓶を離さず酔っぱらっている。僕は何回も参加しているだけあり幹事の役割を与えられるようになっていた。もっとも、僕が未成年のためお酒を飲まず一番まともに宴席を仕切ることができるという理由が大きいのだろう。それよりも気になるのは彼女のことだ。僕が記憶しているのは彼女もシュラさんに負けず酒好きだったはず。それなのに、今日の彼女ときたら烏龍茶片手にひたすら食事に箸を伸ばしているだけだった。僕がどんなに彼女を見つめても彼女と視線が合うことはない。彼女は彼女の隣に座るシュラさんが絡んできても適当にあしらうだけだ。

「それじゃあ、私はシュラを送っていきます」

いつも通りお酒を思う存分飲んだところで解散となった頃、彼女もまたシュラさんを背負ってみんなに声をかけた。愛想笑いをみんなに振り撒いてから彼女はシュラさんと共に帰路へ足を向ける。僕は教師達を他の幹事に任せて慌てて彼女を追いかけた。

「僕も一緒に行きます」

背中からずり落ちそうになっているシュラさんの身体を直しながら彼女は立ち止まる。それから僕に向けた視線は酷く冷たかった。

「ありがとう。でも、大丈夫だから」

「いや、しかし、」

「平気よ」

僕の言葉を遮って返された言葉は拒絶だった。彼女からの拒絶に僕は足が凍りついたようにその場から動けずにいる。そんな僕に対し彼女は何も言わず踵を返した。ただただ、胸が苦しい。


 月日は流れ、季節は冬。最近身体の不調を感じるようになった。任務続きで疲れが出たせいなのか、頭の中も思うように働いてくれない。何となく、理由は自分でも分かっているような気がしたが気づかないふりをしていた。
 ある日の深夜、僕は些細なことで兄さんと喧嘩した。毎日苛立ちが治らない。まるで自分の中に別人が住んでいるかのように心の制御ができなくなっていたのである。家を飛び出した僕が宛てもなく彷徨い、無意識に辿り着いた場所は彼女の元だった。

「名前さん、いらっしゃいますか?」

彼女もシュラさん同様騎士団から与えられた住まいに滞在していた。深夜に訪ねてきた僕を彼女はわけも聞かずすんなりと部屋に入れてくれたのでホッとする。だけど、僕は彼女に拒絶されているはず。残念ながら今の僕に物事を冷静に判断する力はなかった。

「雪男くん」

部屋に入ったまま黙っていた僕に彼女から声がかけられる。そっと彼女に視線を合わせると彼女は柔和に目を細めてみせた。

「今日はもう遅いから、早めに帰ろうね。燐くんとも仲直りしないと」

やんわりと彼女の口から出てきたのはやっぱり拒絶だった。しかも、僕が何も言わずとも彼女は僕が兄さんと喧嘩したことを見抜いている。

「僕にはもう、名前さんしかいないんです」

拒絶されても僕が心の底から縋ることができるのは彼女しかいなかった。昔からそうだ。任務で失敗しても、神父さんに叱られても、僕には彼女がいた。彼女を失ってしまえば僕はこれから先どうすればいいのか分からない。何故こんなにも彼女を求めているのか理由を聞かれると困るが、例えるなら神様みたいなものだろうか。神様という存在は人間の中で無条件に受け入れることができる。欠落した部分があろうとも、それすら愛しいと思えるほどに。

「お願いです。僕を、助けてください」

神父さんの葬儀の時、彼女は僕の味方だと言ってくれた。あれは嘘ではないはずだ。僕が彼女の返事を待っていると彼女が深く息を吐く。全て息を吐き終えると僕にまっすぐ視線を向けた。

「どうして私のところに来ちゃったんだろう。私は雪男くんのことを突き離したのに」

一粒、彼女の頬に涙が溢れ落ちる。彼女は一度瞼を伏せてから再び僕を見つめて微笑んだ。先程と違う妖艶な笑みに頭が熱に浮かされたみたいにぼんやりとした。

「いいよ、おいで」

その言葉と共に僕の身体が彼女の細い腕の中に閉じ込められる。甘い香りが鼻を掠めた。僕は頭の中がくらくらするままに彼女に今の自分の状況を吐露してしまう。兄さんに対する劣等感、身体の異変、兄さん以上に悪魔の血が僕の身体の中に多くあるかもしれないという不安の大きさ。

「かわいそうに。変わってしまったのね」

僕の言葉を聞き終えた彼女が不意にそう呟いた。僕は彼女の表情を見ようとするがそれよりも先に僕がずって欲していた言葉を彼女は口にする。

「大丈夫よ、雪男くん。私はあなたの味方だから」

僕の頭が優しく撫でられる。その心地良さに思わず瞼を伏せると、彼女の鈴のような声が鼓膜を揺らした。

「一緒に行こうね。あの人が待っているわ」

何処と言わなくても分かる。行き先は啓明結社イルミナティ。悪魔の手に堕ちたかつての祓魔塾の教師もイルミナティと共に行動している。つまり、彼女もまた騎士団の裏切り者なのだろう。そのことを彼女にとやかく言うつもりはなかったし、聞く気もなかった。ただ僕が知りたいのはこれから先彼女が僕の傍にいてくれるかどうかだけ。

「名前さんは僕のことを拒絶しないでくれますか?」

「勿論」

「名前さんが傍にいてくれるのならば僕も着いて行きます」

瞼を開けて彼女の顔を覗き見ると相変わらず妖艶に微笑んでいる彼女の姿がある。僕は何かに取り憑かれたかのように彼女の背中に腕を回してぎゅっと力を込めた。彼女の言葉は間違っていない、全て正しい。そう思っているはずなのに彼女の瞳の中には別の誰かが僕に必死に訴えているような気がした。行っちゃダメだ、まるで悲鳴に似た叫びに僕は聞こえないふりをする。僕にはもう、甘い毒に縋ることしかできないのだから。


 腕の中で眠る彼の頬には涙の跡が残っていた。養父を亡くしてから苦悩ばかりに歪んでいた表情は今の彼にはなく穏やかな色をみせる。いや、正しくは考えることを放棄した故の表情なのだろう。

「ねぇ雪男くん。私ね、本当は、」

そこまで言いかけてやめた。彼女の脳裏には彼と図書館で会った日のことが浮かんだ。ファムファタルを知らないままでという本をお互いに手に取ろうとしていた。あの日、何となく吸い寄せられるように本に手を伸ばしたら彼と会ったのである。これは運命なのだろうか。しかしと彼女は頭を横に振る。あの頃の彼女はまだ純粋だった。そして、彼も。今はもう何もかも変わってしまっていた。それはお互いに。

「ファムファタルを知らないままでいたかった。そうすれば、私の人生も、あなたの人生も違っていたのに」

いつからかマタ・ハリのように生きるようになった自分と彼女の手に堕ちた彼に対し彼女は嘲笑う。彼女は腕の中の無垢を抱いてそっと目を閉じた。この結末もまた運命なのだろうと自分自身に言い聞かせながら。

2018.05.02
運命|救済措置様