ENIGMA

「なまえ大丈夫?!」

ガタガタと大きな音を立てて虎杖は医務室のドアを開いた。任務の途中で別任務に行っていたなまえがご都合術式で幼児化したという話を聞いたからだった。先に医務室を訪れていた伏黒は、そんな彼の慌てぶりを見やって怪訝な顔を見せたあと、「とりあえず入れよ。中で説明してやるから」と言って、虎杖の脇腹あたりをつついた。その仕草にはっとして、虎杖は自分が汗だくでいることに気づいた。
当のなまえはというと、部屋の片隅に置いてあるパイプ椅子の上に座り紙コップに入れて貰ったココアを呑気に飲んでいる。年のころは2〜3歳といったところだろうか。誰が用意したのか白いワンピースを着ており、その姿も愛らしい。

「俺のことも覚えてねぇのかな〜」

ぽりぽりと頭を掻きながら、パイプ椅子の前に座り込んだ虎杖はなまえと視線を合わせる。言われていることが分かっているのかいないのか、なまえはきょととした顔をして、再びココアに口をつける。どうやら本当に中身も子どもになってしまったらしい、ということをようやく理解した虎杖と伏黒は目を合わせた後、肩を落とした。

「そう落ち込むな。強い呪霊ではなかったし、しばらくすれば元に戻るだろう」

あっけらかんと言い放った家入に対し、虎杖は「でも」とか「だって」とか言って反論しようとするが、家入は面倒臭そうに手を払う動作をするだけだった。伏黒と虎杖がここに呼ばれたのには理由があった。ここは高専で、大人はたくさんいるが、そのほとんどは任務に追われている。つまり、幼児であるなまえの面倒を見る人間が必要だった。本来ならば同性である釘崎に頼むべきなのだが、釘崎は泊まりで任務に赴いている。そこでお鉢が回ってきたのが二人だったということだ。


「とりあえずお前達は一旦帰れ」

なまえがこうなった原因の究明はこちらで行うと告げられ、二人は仕方なく立ち上がるしかなかった。去り際に見た硝子の手の中の報告書では今回の呪霊の詳細は記されていなかったので詳細はわからないままだったが、きっと大したことではないのだろう。虎杖は目の前の少女姿のなまえに「お兄ちゃんと一緒に来てくれる?」と言った。少女は少し首を傾げて何か考えているような顔をしたあとこくりと一つ肯いて「あい!」と答えてくれた。そして小さな掌を差し出してきて虎杖はその手を優しく握った。その光景を見て何故か胸の奥がちくりとするのを感じたものの、気づかないふりをして伏黒も医務室を出た。

「とは言ったもののどうすりゃいーの?」
「釘崎が戻ってくるまで俺たちでなんとかするしかないだろ」
「まぁそうだけどさ」

とりあえず寮に戻れば誰かしら居るだろうし、なんとかなるだろう。そう思って、二人は一旦寮へと戻ることにした。虎杖はなまえを抱きかかえ、歩き出した。

「うーん?なんか軽すぎね?」
なまえを抱え直しながら言う虎杖の言葉を聞いた瞬間に嫌な予感が走った伏黒であったがもう遅かった。
虎杖の腕の中から飛び降りたなまえはそのままとたとたと覚束ない足取りで木々が生い茂る方へ向かう。なにか見つけたのか?と思いつつ二人が駆け寄ろうとしたところで彼女はしゃがみ込み、地面に落ちていた何かを拾った。そしてくるりと二人の方に振り返り「どじょ」と言って拾ったものを差し出してきた。


「……どんぐり?」
思わず声に出してしまった言葉通り、彼女が差し出してきているのはまさしく山の中に生えているであろうどんぐりであった。虎杖はそれを受け取り笑顔で「ありがとう」と告げる。すると、なまえは再びしゃがんで落ちているどんぐりを拾うと、再び「どじょ」と言って手に持っていたそれを二人に差し出すのだが、正直全く意味が分からなかった。虎杖はとりあえず「くれるんだろうな。貰っていいんだよね」と言うと彼女の頭の上でぽんぽんと手を置いてやった。しかし、当のなまえは全く分かっていないようでにこにこと笑っているだけだった。


「伏黒サン?」
「なんだ?」
「俺これどうしたらいーの?」
「貰ったんだろ?大事にしてやれよ」
「けどさぁ……」

伏黒はなまえの方を見やる。虎杖もそれに倣って彼女に視線を落とす。なまえは相変わらずにっこりと微笑んでいるだけだ。
これは困った。伏黒とてこの少女の扱い方は分からないのだ。虎杖もそれは同様らしく途方に暮れているようだった。結局なまえが何を望んでいるのかもわからないので二人ともなまえがどんぐり拾いに飽きるまでその行為に付き合うこととなった。

***

なまえの面倒を任された伏黒だったが、実際問題何をすれば良いのか皆目見当もつかなかった。二歳児がここまで何を考えているのか分からない生き物だとは思っていなかった。人間ではなく、動物に近いような気がする。伏黒の式神は動物であるが、式神とそこまでコミュニケーションをとることはない。主従関係に尽きるからだ。それならこの動物のように理解不能な行動ばかりをするなまえをどうやって扱えばいいのか。今は幼いとはいえ、相手は同級生で女子である。選択を一つたりとも間違えるわけにはいかない。
そんなことをぼんやりと考えている時、突然腕の中できゃっきゃと楽しそうな笑い声が上がるのを聞いて、ふと我に帰る。先ほどから伏黒の頬を引っ張ったり髪の毛を掴んできたりと好き勝手なことをやってくれていたのはなまえであるらしい。
なまえの笑い声で我に返ったが、結局なまえが何がおかしくて笑ったのかは分からなかった。生きているだけで楽しいのだろうか。
伏黒としてはこんなにも幼子と接する機会はなかったし、そもそも自分の姉以外の家族はもうみんなこの世にはいない。今更どのように接すればいいのかわからないままだった。


「なあ、なまえお前なにやってんだよ」

いつもと違うふにふにのマシュマロみたいな頬に手を伸ばして、指の関節でそっと触れる。するとその指を捕まえようと、なまえが両手を広げてくる。そのまま手を繋いで、軽く振られたと思ったら、「めぐ!めぐ!」と言って名前を呼んでくる。そして再び「めぅ〜」と謎言語を発して笑う。
言動こそ今のなまえの面影すらないけれど、その笑顔には見覚えがあった。幼い頃のなまえはきっとこんな姿だったのだろうと考えれば目の前の宇宙人のようななまえがなぜかかわいらしく思えて来た。


「仲良くなってんじゃん、伏黒」

食事の支度をしていた虎杖が様子を見に来たタイミングで、なまえの相手を買って出た。しかし伏黒はすぐに「無理だ。こいつの言ってることわかんなすぎる」と言い捨てる。その様子を見ていた虎杖は少し驚いた顔をしてなまえの顔を見た。確かに言葉が通じているとは到底言い難いが少なくとも嫌われている様子はないように見える。そして、なまえは特に機嫌を損ねた訳でもなさそうで不思議そうにしている。
虎杖はしゃがみこんで彼女と視線の高さを合わせて話しかけてみたのだが、なまえはさも興味なさげに再び伏黒の手で遊び始めた。


「なまえ、お腹空かない?」
そう問いかけると、彼女は伏黒の手を掴んだまま、虎杖に向かってふるふると首を振った。そして「めぐ!」と言って伏黒の名前を呼ぶ。

「伏黒のこと、恵って呼ぶことにしたん?」
「いや、知らん」
「じゃあお兄ちゃんのことは?」
「ゆーじ!」
「お、正解。よくできました」

なまえは伏黒の腕の中からひょいっと降りると、虎杖の腕の中に収まった。するとなまえは嬉しそうに笑みを深める。そして、そのまま虎杖のつけていたエプロンのポケットの中を漁りだした。しかしなにもおもしろそうなものがないと分かるとひょいっと飛び降りてまた伏黒の元へと戻った。

「やっぱり伏黒がいいってよ?」
「俺は子供は別に好きじゃない」
「子供は?ならなまえは?」
「……嫌いじゃない」
「それ好きって言ってるようなもんじゃん」

ケラケラと虎杖が笑う。そこに悪意も嫌味もない。なまえのことを本当に好ましく思って言っていることが分かってしまうので余計に気恥ずかしかった。
気付けばなまえは伏黒の膝の上で小さく丸くなって眠っていた。同じように小さくなった親指を咥えて。

「早く元に戻るといいな」
「そうだな」

そんな会話を交わしながら小さななまえの頭の上を伏黒の大きな手のひらが往復した。
なまえが元の姿に戻ったのは、それから数時間後のことであった。
なまえを真ん中に三人で眠っている所を任務から戻ってきた五条が発見し、一悶着あったのは言うまでもない。

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