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OFF
オフィスは沈黙に包まれていた。
手にした書類に目を通す男。横長のデスクを挟み、その様を唾すら飲めずじっと眺めるエマ。
男の荒い呼吸とエマの控えめな呼吸が入り混じるこの空間は重い空気で形作られていた。
「あ、あのうデーダンさん…」
「黙れ!」
「はいいっ…」
恐る恐るエマは男を呼んだが、デーダンと呼ばれた男は書類から目を離さずエマに人差し指を突き刺して怒鳴った。
少ししてデーダンは書類をデスクに置き、エマを睨みつけて言う。
「要するにお前らの給料を増やしてほしい、と?」
「は、はい…」
「やっぱりか。この手紙は乳児が書いたような汚ねぇ字をしてるクセに長ったらしい文章でできているから当たってるか不安だったぜ」
デーダンの酷評にエマの背はまた少し縮まった。
「だがな、俺が出す答えはただ一つ。…こんなものよこすくらいならさっさと持ち場に戻って仕事してこい!」
「そんな、デーダンさん…!」
「黙れ、この箱頭!」
デーダンの怒りでできた拳がデスクに叩きつけられ、エマに小さな悲鳴を挙げさせた。
「てめぇらは空っぽの頭で何も考えず手先を動かすだけなのに、いっちょ前に"もっと給料をくれ"と言いやがる。そんなに欲しいなら泉の肉をボトルに詰めろ!鉱山から煙を溜めろ!牛の内臓弄ってメタルを集めろ!話はそれからだ」
「だけど私達はちゃんと、し、仕事を…」
「出ていけ」
「デーダンさん…」
「そのアホ面引っさげてとっとと出ていけっつってんだ!ケツ穴に靴突っ込まれたくないんならな!」
「は、はい申し訳ございません!」
デーダンが細く鋭い爪でファックサインを出した時、とうとうエマは逃げるようにオフィスのゲートへ走った。
失礼しました。軽く、しかし腰をしっかりと曲げてエマはゲートの前でデーダンにお辞儀をし、今にも燃えてしまいそうな頭をなんとか堪え、足早にオフィスを後にした。
「使えねえエルセン共め…」
深く吐息しながらデーダンは椅子に腰を下ろし、苛立ちと呆れをありありと感じさせる声色でそう呟いた。
■
まるで怪物から命からがら逃げ出してきたかのようなエマを最初に出迎えたのは、彼女に依頼した一人のエルセンだった。
「あー…どうでした?」と指先を弄びながら訊くエルセンにエマは黙って首を横に振った。「そう、ですか…」とエルセンも気まずそうに俯く。
「デーダンさんは、わ、私達は能無しだって…なのにいっちょ前に給料を、その、せびるって…」
「そうですか、デーダンさんが…」
エルセン特有の遠慮がちな物言いでエマは先程怒鳴られた要約を告げた。
周りにいた数人のエルセン達もそこへ近づき、エマの言葉に皆一様に「そうですか…」と嘆息して俯いた。
しかしエマは他のエルセン達に申し訳なさを感じる反面、デーダンへの仄かな怒りも持ち合わせていた。仕事熱心な彼女にとって特に『何も考えず手先を動かすだけ』という節は不愉快だった。
「あー…でも、私…その、もう一度デーダンさんのところへ行ってみます…もしかしたら、あの、成功するかもしれません」
「えっ…もう一度、い、行ってくれるんですか?」
「あー…はい」
エマの答えにエルセン達は顔を上げた。先程よりかは嬉しそうだった。
「じゃあ、明日の午後に行きますね」とエマはスケジュール帳を取り出し、真っ白だった明日のページに『デーダン』と加えた。エルセン達はそれを一瞥してエマに感謝の言葉を述べながら散り散りに持ち場へ戻っていった。
エマの行動的な性格は他のエルセン達に無いものであり、また長所でもあった。
そして日が落ち、上り、再び頭上を照らし始めた頃。
郵便局の受付として働いているエマは腕時計に目を通し、そろそろ予定の時間になることを確認して休憩を取り、アルマにあるデーダンの個人オフィスへ向かった。どうやらデーダンはクイーンからの仕事を掛け持ち、今日一日シャチハタのオフィスへは来れないらしい。
シャチハタからアルマへ電車に乗り、アルマからオフィスへ続く道中エマは各々作業をするエルセン達にちらほらと目をやった。
皆淡々と仕事場だけに視線を合わせ、精一杯働いている。しかしその顔に喜びはあまりなく、大半が若かりし夢や希望を失いかけていた。
その一員でもあるエマは自らも同じ道を辿るであろうことに不安や恐怖にも似たものを感じながら、半ば諦めもついていた。
生涯ゾーンにその身を捧げてきたデーダンと同じく、自分達もゾーンの歯車として生き、絶えていかなければならなかったからだ。
「…あれ」
肉の泉付近を歩いていた時、ふいにエマの口から間抜けな声が零れ落ちた。というのも、遠方に見える人影が彼女にそうさせたのである。
「あ、デ…デーダンさん?」
それは道端に静止し、肉の滝を眺める紛れもないデーダンであった。
恐る恐る名前を呼んだエマに気付いたデーダンは先日とは打って変わり、どこか穏やかな顔色をしている。
「お前は…」
「あー…エマ、です。あなたに、あの、先日手紙を渡した…」
デーダンはエマの体を見通すとただ一言、ああ、と思い出したように彼女に指を指した。
「あの時のノータリン女か」
「え…あ…は、はい…」
「怒鳴ってすまなかったな」
え?とエマはそらしかけた視線をデーダンに戻した。そしてここにいるのは確かにあのデーダン監督官であることをまじまじと確認する。
デーダンはその態度に苛立ちを覚えたようで「そんなにジロジロ見るな」と乾いた鳴き声をエマに聞かせた。エマも「は、はい」と今度こそ視線を逸らした。
「ところで、何でお前がここにいる。郵便局は向こうだろうが」
「あの、またデーダンさんに、そのー…お話があって…」
「また給料の話か…あれだけいっておいて懲りない奴だなエルセン共は」
「あ…う…す、すいません…」
「おい、何でお前が謝るんだ」
今にも泣き出しそうなエマにデーダンは焦るように近付き、時折小さく痙攣する肩に手を乗せた。
エマは一度体を震わせたが大した抵抗もせず、涙の滲む目元を指で拭いながら顔を上げた。
「あの…デーダンさんこそ、ど、どうしてここに?」
「俺か?休憩時間さ。煙草でも吸おうかと思ったんだが、肉の味をダメにしちまうからな」
ゾーンの物に気を使っているんだなんて。デーダンの穏やかな一面を垣間見て、エマは久しぶりに尊敬の念を覚えた。
そのままデーダンは滝を、エマは定まらない虚空を眺めながら、肉がぶつかり合う音のする中二人に沈黙が訪れる。
「エマと言ったか。お前さん、ペダロには乗ったことあるか?」
「え?ペ、ペダロですか?」
少しして最初にそれを破ったのはデーダンだった。
彼からの唐突な問いかけにおろおろと言葉の意味を探るエマに、デーダンは極めて簡素に「ああそうだ」と肯定した。
「ただこうしてジッとしてるだけじゃつまらねえ。せっかくだ、一緒にペダロに乗らないか」
「あー…それは、あの…私と、ということですか?私とペダロに?」
「お前さん以外に誰がいるんだ。どうだ、乗るか?」
「あの、でも、そんな…」
眉を下げ指を弄ぶエマに構わず、デーダンは呼び出し装置でなみなみと敷き詰められた肉の上にペダロを出現させた。あう、デーダンさん、とエマが戸惑う内にデーダンは中へ乗り込み、ペダルに足を掛ける。そして「エマも来いよ」と隣を開けながら手招きをした。
ペダロに乗る?デーダンと?冗談じゃない。もし肉の海の中へ突き落とされたらどうしよう。『お前は用済みだ』と罵られたら?
ぐるぐると思考巡るエマ。しかし乗った後も怖いが、断ったらもっと怖い。
バーント化するかしないか、直前になりエマは意を決して恐る恐るデーダンの下へ近付いていった。
デーダンは遠慮がちにペダロの縁へ手を伸ばすエマの腕を引き、半ば強引に搭乗させた。反射的にエマの体は強張り、ペダロから下半身を突き出す代わりに頭がデーダンの膝上に落ちる。だが「あ、す、すいません!」と急いで体を起こす彼女にデーダンは満更でも無さそうだ。
「もう少しリラックスしたらどうだ」
「あの、えと…すいません」
デーダンの提案にエマの体が小さく震える。
ペダロが発射し、しばらく経ってもエマはまだ顔を紅潮させ、デーダンの隣で膝を抱き寄せ縮こまっていた。
「俺が怖いか?」
「え、そんな…」
「隠さなくて良い、本当は俺もわかってんだ。小さな事で散々怒鳴り散らす上司に敵意を抱かないエルセンなんていやしねえ」
エマは黙ることしかできなかった。
その反応を受けたデーダンはペダルから足を離し、泉の中心に静止して深く息を吐いた。そして色の無い空に顔を上げて言う。
「実はな、さっき少し…昔のことを思い出してよ。聞いてくれるか?」
「は、はい」
「お前らが産まれるずっと昔、俺ぁクイーンからこのゾーンを与えられた。信じらんねえと思うが、ゾーンはまだ荒れ放題で、とても作業できる場所じゃなかったんだぜ」
「じゃあ、あー…どうやってゾーンを、キレイにしたんですか?」
エマの問いかけにデーダンはしばし彼女を見つめたまま固まっていたが、途端に何かが切れたように大笑いした。
「おいおい、俺を誰だと思ってやがる?クイーンに選ばれたゾーン1のロイヤルガーディアンだぞ。もちろんそれなりの苦労はあったが、魔法使いのように土地を肥やして、建物を建てて、お前らや家畜をミニチュアみたいに設置したのさ」
「つまりデーダンさんは、か、神様ってことですか?神様と、私はペダロに?」
「まあそんな感じだな」
上機嫌に鼻下を指でこするデーダン。一方エマは言葉にならない緊張感からデーダンを見つめたままわなわなと口を疼かせている。
「当初俺は入社したてのお前らみたいに夢に満ち溢れててよ、ゾーン1を工場だらけにしたのもお前らに仕事の喜びを楽しんでほしかったんだ」
「仕事の喜び、ですか」
「そうさ。誰でも仕事が持てて、家族を養い、調和を維持する。それが俺の夢だった」
なのに…とデーダンは口ごもり、それ以上何も言わなかった。しかしエマには彼の言わんとしていることがわかった。
つまりデーダンは、そうさせたいがために重労働を強いていた自分に後悔しているのだ。仕事の喜びは与えられることによっても得られるが、自らがそう感じることも重要である。苦汁を飲んでやるようでは、皆無気力でただ手先だけを動かすロボットになる。喜びも、夢も希望もそこには無い。そしてそうさせたのは紛れもない監督官、デーダン本人であった。
エマはデーダンに対し怒りを感じていたが、彼の本当の思いを知るとそんな感情は振り払われた。
エマの疑念は怒りから、デーダンの愛情に応えられずにいる罪悪感へと変わっていった。
「あ、あの、デーダンさん」
「何だ」
恐る恐る声を発し、エマは一呼吸の後続ける。
「私、この仕事が好きです。時々屈折もするけど…でも、あの、デーダンさんの利益になりたいので…」
「…それは同情してくれているのか?」
「ど、同情なんかじゃ、ありません!私は、デーダンさんが与えてくれたこの仕事に喜びを、か、感じていますよ」
デーダンはエマに顔を向けたまましばらく沈黙していた。エマはその視線に恐怖と羞恥心を感じ、じりじりと緩い炎を纏いつつある顔を伏せることしかできなかった。
「ありがとな」
しかし返答はエマが思っていたよりも暖かく、愛に溢れていた。暴君である彼がこれほどまでに甘く優しい言葉を掛けてくるとは、エマには到底想像もつかなかった。
ぽんっとデーダンの細く大きな手のひらが頭に乗せられた時、とうとうエマの頭から白い煙が立ち上った。デーダンも恥じらいに膝を抱き寄せるエマを見てほろ苦く口元を緩ませた。
と、突如として熱く火照ったエマの頭上に一滴の水が滴り落ちる。続いて二、三とその数は増えていき、最終的には弱い雨がゾーン1に降りしきった。
デーダンはそれに小さく舌打ちをするとペダルに再び足をかけ、泉の沖へペダロを走らせた。小規模な場が幸いして時間は掛からなかった。
「ほら」
「え、あ…」
ペダロから降りた後、エマの体を生暖かいものが包み込んだ。見るとすぐ隣にデーダンの筋肉質な脇腹がある。少ししてエマはやっと自分がデーダンと一つコートの下にいるのだと悟った。
「デ、デーダンさん」
「風邪引いちまうだろうが。おとなしくしてろ」
「あ、う…」
「へへ、暖けぇだろ?駅まで送ってやるよ」
デーダンの体を押して抵抗するエマの腰に長い腕がまわり、彼女の体は容易にデーダンの脇下へ引き寄せられた。
エマもそれ以上抵抗はせず、絶えず震える心臓がデーダンに聞こえないことを祈るばかりであった。
そしてアルマ駅についた時、デーダンはコートから自身の体を引き抜くとその全てをエマの頭に掛けた。
「貸してやる。ちゃんと返せよ」
困惑した表情で振り向いたエマにデーダンはただ一言そう言って口角を上げた。
エマもぎこちなくも感謝の言葉を述べ、デーダンに微笑んだ。
「明日オフィスでな」
「は、はい…あの、またペダロ…一緒に乗っていいですか…?」
「いいですか、だって?もちろんだ。今度は滝の上まで連れてってやる。きっと気に入るぜ」
デーダンからの返答にエマは嬉々とする感情をコートの襟に留めた。
電車が来たことを確認し、デーダンは振り返り際片手を上げ足早に来た道を戻っていった。
エマはボーっと頬を赤らめ、デーダンの背中が見えなくなるまでその場にただ立ち尽くしていた。
降りしきる雨に合わせ、その心臓はデーダンへの新たな思いから未だ小刻みに脈打っていた。
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