洋ゲー

Hollow Knight


「ふむ、ふむ……」

薄暗い書庫でクィレルは勉学に励んでいた。灯りは周りに置かれたフラスコから放たれる淡い緑色の光しか無い中、彼は誰もいない室内で机の上に置かれた本と睨み合っていた。
今朝彼の師であるモノモンから教わったばかりの箇所を復習する。自身の事をそれなりに学があると自負するクィレルではあるが、そんな彼を試すようにモノモンはあえて難解な問いかけをするのだ。彼女の下で学ぶのだからそれは嫌みではなくむしろ優しさなのだとクィレルには分かっていた。
クィレルはモノモンが自身に寄せる期待に応えたい一心でよくこうして他の生徒が帰ってしまった書庫に一匹残っては、人知れず努力をしていた。唯一の悩みと言えば夢中になりすぎるあまりつい睡眠を怠ってしまうところか。

そうしてこの日も消灯時間が過ぎた書庫内にクィレルは留まっていたのだった。
少し目の疲れを感じてクィレルは眉間を指でつまんでほぐす。何か温かい飲み物でも欲しいところだった。
書庫の休憩室に何か無いか探そうと考えていたクィレルだが、ふいに背後から気配を感じた。振り返った先には暗がりと未使用のフラスコの山くらいしか見えなかったが、確かに何者かが息を飲む声が聞こえた。
クィレルは怪訝そうに頭を掻いて椅子から立ち上がると、暗がりの方へ数歩近付いていった。

「誰かそこにいるのか?」

クィレルが呼び掛けるも返事は無い。しかし少ししてフラスコ棚の後ろからおずおずと人影が顔を覗かせた。目を細めてその正体を確認したクィレルは見覚えある姿に「おや」と声を漏らした。

「エマ、そなたであったか」
「……はい、クィレルさん」

フラスコ棚の後ろから現れたのはモノモンの生徒でありクィレルとは顔見知りのエマだった。彼女もクィレルのようにモノモンから一目置かれている虫の一匹だ。
クィレルは何らかの用事でモノモンを訪ねに行く際、殆どいつも彼女の側にいたエマのことをよく覚えていた。実際に言葉を交わしたのは数回程度だがクィレルのエマへの印象は良好で、大人しく聡明そうな女性といったところだった。
エマはクィレルの方へ近づいてくると先程まで彼が勉強をしていた痕跡を見やり、申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめんなさい、お邪魔だったでしょうか」
「いやなに、丁度一息入れようと思っていたところだ。気にしないでくれ」

明るく取り繕うクィレルにエマも頬を緩ませた。

「だが、そなたはここで何をしているのだ?拙者と同じく居残りをするような虫には見えぬが……」
「モノモン先生に言われてクィレルさんの様子を見に来たのです。きっとあの人は今日も書庫に残っているでしょうから、って」
「おや、マダムは気付いておられたのか」

これは参ったな、とクィレルは気恥ずかしく頭を掻いた。
この習慣はモノモンには内緒だったのだがどうやら彼女はお見通しだったようだ。

エマが言うにはモノモンはあまりクィレルに根を詰めて欲しくは無いらしい。大きな知識欲を持って勉学に励んでくれるのは嬉しいがたまには休息を挟むことも大事だ、ということを伝えるように言われてきたのだそうだ。
クィレルはモノモンの優しさとエマの気遣いに胸の内で感謝した。
そんなクィレルを横目に、エマは彼自身よりも彼がそうまでして熱心にモノモンの教えを身に付けようとする姿勢に関心しているようで、机の上に置かれたいくつもの本や内容を書き写した書類の束を興味深く眺めた。

「凄い。先生も仰っていたけれど、クィレルさんは本当に勉強熱心なのね」
「まだまだマダムから教わることは多く、覚えられていない物も少なくはないがな。エマこそ彼女の側にいるからには、やはり拙者と同じくその教えに虫一倍関心があるからではないのか?」

エマの方へ近付きながらクィレルは彼女に問いかけた。その言葉にエマは「えっ」と思わず顔を上げて彼を見つめた。淡い緑色に照らされた彼女の顔が僅かに赤らんでいるのが分かる。
エマはすぐ控えめに微笑むと再び机に顔を戻した。

「はい、私も先生から教わるのは好きで。こうして知らない事を知るなんて、とても楽しいじゃないですか」
「ああ、拙者もそう思う」
「私たち以上に先生も大きな目標を持っていらっしゃるようで……それが何かはまだ教えてくれないけれど、叶うならあの方の力になりたいんです。そのためには私も先生に追いつかなくちゃ、って」

美しい横顔でエマは語った。
クィレルは彼女の思いを聞いて納得していた。やはりこの虫は聡明だ、と。エマもまた彼女なりの理由を持ってモノモンを敬愛しているのだ。
ふとクィレルの頭に別の事が過る。こうして間近でエマを見ると随分と魅力的な女性だ。それまではモノモンと会うついで程度にしか彼女を意識していなかったが、クィレルはエマの睫毛の長さや節足のしなやかさに初めて目がいった。
自分でも気付かぬ内にクィレルはエマに見惚れていた。

「あ、ごめんなさい……」

しかしまるでそれ以上は観察するのを許さないかのように突然エマはクィレルへ顔を向けた。思わずクィレルの体が強ばる。
実際にはエマは急に黙り込んでしまったクィレルを怪訝に思ったのだった。

「私ったら自分の話ばかりしてしまいましたね」

そう言ってエマは謙虚に微笑んだ。
クィレルは向けられた意外な言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに冷静さを取り戻すと首を横に振った。

「いや、とんでもない。そなたは立派な意思を持っているのだな、エマ」
「ふふ、クィレルさんは優しいのですね」

再びエマが微笑む。しかしクィレルにはもう先程と同じようにそれを見ることができなかった。
気付けば自然と高鳴っている自身の心臓に、クィレルは密かに驚いていた。
それを知ってか知らずか、エマは突然クィレルの手を取ると華奢な両手で強く握ってきた。思わずエマの顔を見てみれば、こちらを真っ直ぐに見据えている視線にクィレルも目を逸らすことができず、しっかりと見つめ返す。彼女の瞳には強い敬意が見て取れた。そのままエマは口を開いた。

「同じ師を持つ者として、貴方の努力が報われるよう祈っています、クィレルさん」
「あ、ああ。そなたもな、エマ」

先程のように必死に冷静さを取り戻そうとするクィレルであったが、そんな彼にエマは明るい笑顔を見せた。
それからすぐに握られた手が離され、クィレルは一瞬ではあるもののどこか寂しさを覚えた。

「では、私はこれで。これ以上クィレルさんのお邪魔をしてはいけませんので。たまにはきちんと休息をしてくださいね」

そう言ってエマはその場を後にすると、去り際に「また次の機会に会いましょう」と一度頭を下げて暗がりに消えていった。クィレルもまたそんなエマに小さく手を振って見送った。

再び一匹となった書庫内でクィレルは椅子に腰を降ろす。机に置かれた本と書類の山を見やってまた勉強に戻ろうかと考えるものの、中々手につかなかった。顔色こそ落ち着いているが、その心臓は未だに少し鼓動を早めていたのだ。
先ほど握られた自身の手にクィレルはまだエマの温もりが残っているように感じられた。つい数分前の出来事が頭の中で何度も思い返され、クィレルの頬が無意識の内に緩んでいく。まるで一回り若返ったかのようだ。

「まことに、可憐な女性であったな……」

暗がりの中で淡く発光するフラスコの灯りをぼうっと見つめながら、クィレルはぽつりと呟いた。
静まり返った書庫内で、そうしてしばらくの間甘い思い出に浸るクィレルなのだった。

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