その他

ボボボーボ・ボーボボ



その日私はハンペン様のオフィスに続く廊下を無心に進んでいた。
片手に持参した、毛狩り報告書をハンペン様に提出するためだ。
私達、Aブロック隊長のハンペン様に仕える戦闘員は、こうして定期的に毛狩りをした地区や人数を報告書に起こしてハンペン様に提出することにしていた。そうして成果に応じ、私達は昇格することができるのだ。
私もまた、優秀なハンペン様の部下であることを自覚している一人だ。そしてその自信が、ハンペン様のもとへ向かう私の足取りを堂々としたものに変化させていった。

しかしハンペン様のオフィスに入った時、私はその異様な光景に固まった。
ハンペン様が、眠っている。大きな椅子に深く腰掛け、お腹の辺りで指を組ませながら。一見すると気づかないが、確かにハンペン様の両の目は閉じきっていた。
いつもなら椅子の背もたれをこちらに向けているか、デスクで何か考え事をしているハンペン様。あるいは柔道着に身を包み、熱心に修行にはげむハンペン様が、今このとき、私に完全なる無防備さを晒していた。

だが私はうろたえこそはしなかった。
ハンペン様。名前を呼びながら、私はデスクに近づいていった。書類を握る手の力が強くなった。
デスクの目の前にきて私はもう一度ハンペン様の名前を口にしようとした。しかしその時、ある好奇心が私の口をつぐませたのだ。

―ハンペン様の頭は本当にハンペンなのだろうか。―

私の奥底で自重されていたものが、突然むくりと頭を上げた。
さらにそれの襲来を知らせるかのように、次には私の空っぽの胃袋が低いうなり声をあげたのだ。確か今朝は何も食べなかったような。

―食べたい。―

生まれて初めて強く欲求した記念すべき瞬間だった。
だが正直に言えば、この感情は今回が初めてではなかった。ハンペン様を初めて目にしてから幾度も私の内側からこみ上げてきた、禁断の感情だ。しかし私は次第にそれを抑える方法を掴み、汚れた自分を封じ込めていた。
だがそんな努力などたった今全てが無駄になった。今はただ、その禁制された衝動を実行するに恰好のシチュエーションを得たのを喜ぶと同時、内側で膨れ上がった好奇心が大きな音をたてて爆発した。

今ならバレないかもしれない。私は報告書をデスクに置き、ハンペン様の顔を窺いながら、デスクと彼の間へ回り込んだ。
正式名称のわからない、"腕を置くところ"に両手を置いて、少し体を乗り出すように体制を変える。好奇心が勝れど、極力ハンペン様には触れないように。

まずはじっくりとハンペン様の顔を観察する。
よく見るとハンペン様の顔一帯にはうっすらと無数の傷が刻み込まれていた。大きいもの小さいもの関係なく、しかし到底ハンペン様の皮膚を切り裂くことはできなかったのだろう、それら全ては浅い傷ばかりだ。
ハンペン様は私に過去を語ったことはない。尊敬してはいるが私も自ら知ろうとは思わない。
しかしこれらは少なくとも、ハンペン様がこの地位を手に入れるのにどれだけ過酷な道を歩んできたのか、その証拠なのだろう。

ということは、ハンペン様の顔は見かけ以上に頑丈なのではないか。
試しに頬を優しくつまんでみると、それなりに伸縮性はあるが、あきらかに私の知る頬の硬さではなかった。
皮膚もまるで鮫肌のように鋭く、やはり固い。人間のきめ細かさなど当然無い。

私は再びハンペン様の寝顔とにらめっこをして、それから意を決してハンペン様に顔を寄せた。
片足を椅子に乗せて、さらに体を乗り出す。革製の椅子が、私の体重に耐えきれずぎしりと耳障りな音を鳴らした。だが幸いにハンペン様は未だ夢の世界にいるようだ。
私はごくりと固唾を飲んだ。

欲望を纏い、私の唇が選んだ場所。それはハンペン様の唇だった。
もちろん、唯一柔らかそうな箇所であると判断したためであり、決して何かやましい気持ちがあったわけではない。しかし好奇心と食欲に操られた私は、そんな茶番的考えを一度も持たなかった。
真っ白な薄長いハンペン様の唇に触れる、私。そしてほんの少し隙間を作り、そこにハンペン様の上唇を挟んだ。
恐る恐る口の中へ招かれた物体を、私は軽く甘い噛みで歓迎する。
思った通り、ハンペン様の唇は柔らかかった。かと言って、せいぜい軟骨くらいの固さはあった。
触れた私の舌先が程よい塩気も感知する。おいしい。それが、素直な感想だった。
我慢できない私はついにハンペン様の顔を両手で鷲掴むと、上唇に吸い付いた。ハンペン様の固い唇を、舌で舐めたり、ハんだりして、私は魅惑的なハンペン様の味を楽しんだ。はたから見れば濃厚なキスだが、唯一の違いは私の頭を支配するものは食欲ということだ。
あはは!。その頭の中で私は快楽の笑い声をあげていた。エクスタシーの時間は五分、十分、いや一時間にも及んだように思えた。

だが物事には必ず終わりが来てしまう。それを悟ったのは、ふと快感に閉ざしていた目を開けると、確かにハンペン様と目が合った時だ。
一瞬気のせいかと再び目を閉じようとしたが、虹色の脳みそを覚まして、今度は目を見開くと、やはり確かに、ハンペン様もまた目を開き、いつもの冷ややかな瞳で私を見つめていた。
その瞬間、私は「うわあっ」と飛び上がると急いでデスクの前へ移動―と言うよりは避難―した。同時に、ハンペン様も体を起こし椅子から立ち上がった。

「申し訳ございません!」

とっさに頭を下げることができた私を、今となっても誉めてあげたい。
申し訳ございません。私はその言葉を何度も繰り返した。いや、本当はそんな謝罪だけでは済ませたくないほど酷く恥じていた。
見られてしまった、ハンペン様に。きっとあの時思わずハンペン様の唇を強く噛んだからに違いない。リスクは重々予想していたはずだが、実際にそうなるとは思っていなかったのだ。

「面を上げい」

十分に威圧的な重たい声で、ハンペン様は慈悲深く言い放った。
素直に従い、ゆっくり顔を上げてみるとハンペン様はデスクの向かい、空になった椅子の隣に仁王立ち、こちらに背を向けていた。

「お主は今何をしていた」

振り返らずにハンペン様は問いかける。
私は腰を曲げたまま「はい」と声をあげた。それは震え、乾いた喉から無理やり声を絞り出したせいで一瞬上擦っていた。
怯えていることなど丸わかりだったが、私はぽつりぽつりと事を全て偽りなく素直にハンペン様へ伝えた。報告書の件から、ずっと秘密にしていた感情まで。
こういう時ハンペン様は嫌に弁明されることを酷く嫌悪していることを、私は知っていた。とは言うものの、部下が自分を食材を見る目で見ていたことを告白されて良い気になる者も少ないであろうとは思うため、それに関しては多少言葉を飾らせてもらったが。
だがそれが功を奏したのか、私が話を止めた後のハンペン様は特別激昂あるいは軽蔑する素振りも見せず、いつの間にかただ腕を組んでこちらを向いたまま、考えるように目を閉じていた。
室内を満たした重く息苦しい空気に、私は密かに二度目の固唾を飲んだ。
まさか、やはりハンペン様はお怒りになられたのか。そう冷や汗を流した時、ハンペン様は目を開けて私をまっすぐに見据えた。

「わしは今昔、弁当に添えられたただのハンペンに過ぎなかった」

語りだしたハンペン様。
思わずまばたいた私を横目に、ハンペン様は再び背を向けると続けた。

「だがわしを摘んだ箸は無慈悲にもわしを川へ落とし、そして運命は、わしに過酷なる弱肉強食の世界で生きることを下したのだ。
幾万もの奴らがわしを食そうと牙を向けてきた。悲しいかな、わしも最初は奴らから逃げるので精一杯だった。だが、すぐにわしは、この世界で生きることを決意した。わしは戦った。お主も見たであろう、この顔の傷はその過程でつけられたものだ。そして、残酷な世界を、これで」

ハンペン様は右手拳を持ち上げた。

「この拳だけで生き延び、今の地位を手に入れたのだ。
しかしわしは、そのせいで捨て去らねばならぬものがあった。食としてのプライドだ。だが、そんなもの今にしてみればただの自己陶酔よ。今のわしには必要無いものだ。食物連鎖の頂点、食王にまで上り詰めたわしは、もはや全ての者を食らうのみ。わしを食そうとするなどそれこそがわしへの最大の陵辱行為。片腹痛いわ」

そう言い終わるとハンペン様はゆっくりと拳を下ろした。
気づけばハンペン様の背中はじわりと哀愁を漂わせ私の視線を引きつけていた。
一方の私もまた、ハンペン様の想像よりも遥かに哀れでいて、しかし強く「逞しい」と思わせる過去に驚愕した。私のありふれた家族話よりも、ハンペン様の語りは私の胸を痛みで締め付けた。
私は喉の奥が苦しくなり、下瞼に熱が溜まるのを感じた直後、僅かに涙を浮かべて床に崩れ落ちた。そして深々と頭を下げると「本当に申し訳ございませんでした」と心から謝罪した。
なんと下劣極まりない行為であったか。私は先程よりも遥かに自分の罪深さを悟った。私がしたことはハンペン様の生き様を安易に汚すこととなったのだ。
しかしハンペン様はどこまでも慈悲深いお方で、私のそばまで歩みよると私の目線までしゃがみ込み、顔を上げさせた。
はたと混じり合うハンペン様の瞳は変わらず冷ややかであれど、私に恐れを与えなかった。

「だがな、ユメ」

そしてハンペン様は私の名を呼び、続けたのだ。

「わしに未だハンペンとして、食としての魅力を見いだしたお主、未だ見ないほど度胸があると言ってやろう。気に入った」

「え……」

「その心に免じて、今回だけは多目に見てやろう。だからもう泣くな。お主ら、わしの可愛い部下に泣かれるのは好かぬ性分なのだ」

「それは恐縮ながら、私を許してくれるのですか?」

ハンペン様は初めて見る笑顔を表すと、ああ、と頷いた。
まさにハンペンのように柔らかく、温かなその雰囲気に、いつしか私もまた顔色を明るくさせていった。
ありがとうございます!。短い言葉ではあれど精一杯の感謝を込めて最後に深々と頭を下げると、ハンペン様は照れくさそうに顔を逸らしたと同時立ち上がり、それを隠すようにこちらへ背を向けた。

「勘違いするな。許すと言っても、お主がわしのプライドを汚したことに変わりはない。よって、考えていた昇格は当分無しとするからな」

「はっ!それはもう、重々と承知しています」

ハンペン様は既に、いつもの威厳ある声色で吐き捨てた。
私もまたすぐに立ち上がり、もう一度だけハンペン様の背中へ腰を曲げた。

「ならさっさと仕事に戻れ。わしへの罪滅ぼしと思い、今まで以上に貢献するのだぞ」

「はい、ハンペン様!」

失礼いたします、と、その言葉を最後に私はその場から立ち去った。
静寂した部屋に一人ハンペン様が残される。しばらくした後、ふと彼が自分の唇に触れ、微笑したことなど当然私は知る由も無いのだった。

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