2023/07/15(Sat)

悪魔(未完)

※完結しておらず、中途半端なところで終わります
※スペインが悪魔(角分)
※ロマーノが記憶喪失
※どこなく薄ら暗い感じがするかもしれません


最初に見たのは、白い天井だった。
「目、覚めたんやね」
声が聞こえた方に顔を向けると、そこには男がイスに座っていた。黒いくせ毛の髪の男は、こちらを見る明度の高い緑の瞳から、ぽろぽろと涙を零している。それを拭うこともせず、男はにこりと優しい笑顔を浮かべた。その男の黒い髪の間から生えている二本の大きな角が、やけに目についた。
「どっかおかしいとこないか?」
問われていることはわかるが、どう答えればいいかわからず、口を開かない。すると男は立ち上がってベッドに腰かけた。ギシッと音を立てたベッドに、男の涙が落ちていく。
「なんか覚えてる?」
覚えているとは、何を。
視線を男から白い天井に移して、気が付いた。
最初に見たのは、白い天井だった。それ以前のこと、目を覚ます前に最後に見たものが何だったのか、思い出せないことに。

「俺はアントーニョって言うねん。それでお前はロヴィーノや」
ベッドに座らされた後、黒髪の男、アントーニョは笑顔でそう言った。そうしてこちらを指さして、名前は「ロヴィーノ」というのだと、教えられた。気が付くと、アントーニョの涙は止まっている。
「ロヴィーノは今、記憶を失ってる状態やねん。せやから自分が誰か、俺が誰か、そもそもここがどこかもわからんくて不安やと思うけど……俺らは前から一緒に暮らしとったんよ」
こちらを安心させるように笑って、アントーニョは頭を撫でてきた。されるがままになりながら、部屋を見渡してみる。部屋の中は片付いており、今いる大きなベッドの他に、本棚や机やクローゼットなど、必要最低限のものが揃えられている。窓から差す日は眩しく、まだ日が高い時間帯なのだということがわかった。
「不安やとは思うけど、何でも俺に聞いてくれたらええから……そもそもここには俺しかおらへんしな」
アントーニョへ視線を戻しても、彼は笑顔を絶やしていなかった。一見胡散臭いとも思えるが、不思議と彼に対してマイナスな感情は生まれていない。現状に対して不安や恐怖はあまりなく、ただただ戸惑いだけがあった。
「ロヴィーノ、お腹すいてない?」
問われて、腹を摩った。そう言われたらそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。首を傾げていると、アントーニョはサイドチェストを指さした。そこにはトレーの上に赤いスープとバケットがあった。
「トマトスープとパンやで。良かったら食べや」
アントーニョはさっき座っていたイスを引き寄せ、チェストのそばに置いた。ただただその姿を見ていたが、アントーニョに手を取られて、促されるままベッドから下りてイスに座った。アントーニョを仰ぎ見ると、食べてええよと言われたので、トレーにあったスプーンを手に取ってスープに口をつける。
俺が食べだしたのを見て、アントーニョは嬉しそうに笑いながらベッドに座った。逸らされることなく、アントーニョはただ俺が食べている様を見ている。その視線に居心地の悪さを感じながらも、食べるのを止めることは出来なかった。
懐かしい味がするような気がする。記憶がないのだから、懐かしく感じるものもないはずなのに、間違いなくそう感じた。手は止まらず、トレーの上はあっという間に空になった。それを見て、アントーニョは声を上げて笑う。
「ロヴィーノはなあ、トマトめっちゃ好きやってん。うまかった?」
「……たぶん」
返事をして、初めて自分がこんな声なのだと知った。アントーニョとは違う声だった。そしてアントーニョと同じく、男の声だった。自分は男だったようだ。そういえば自分はどんな顔をしているのか。気になって部屋をきょろきょろと見回すと、部屋の隅に鏡があるのが見えた。俺が立ち上がると、アントーニョは止めることはなかったが、同じように立ち上がって俺の後を着いてきた。
「ああ、顔見たかったんか」
姿見の前まで移動してから、アントーニョはそう言った。気が付かなかったというような言い方だった。
鏡の前に立つと、全身が映し出される。髪はアントーニョと違う色で、チョコレートブラウンに直毛だったが、一本だけ特徴的な毛が弧を描いている。瞳はアントーニョと似ているが、少し沈んだ緑色でオリーブに似ていた。背丈はアントーニョより低いようで、一緒に鏡に映り込んだアントーニョは、俺より頭一つ分ぐらい大きかった。
そこでふと、アントーニョの頭にある角に目が行く。それはまるで牛を思い立たせる立派な二本の角で、先端は鏡に入り切っていなかった。そして何故か、それは俺の頭にはない。
「……その角、なんで俺にはないんだ?」
不思議に思って鏡越しに目を合わせつつ問いかけると、アントーニョは苦笑して目を細めた。
「そりゃあ、俺とお前は違う種族やからなあ」
「そうなのか?」
「せやで。俺は悪魔やもん」
驚いて、鏡越しではなく直接顔を見た。相変わらずアントーニョは困ったように笑っているだけだった。その笑顔は人を騙そうとしている狡猾なものではなく、人が好さそうなやつがするものだと、記憶がないながらもそう思った。
「俺は悪魔じゃないのか?」
「違うで」
角は生えていないが、一緒に暮らしていたなら同じ悪魔なのかもしれない。そう思ったのに、アントーニョは首を横に振った。
「なんで違う種族なのに、俺たちは一緒に住んでたんだ?」
純粋な疑問だった。悪魔とは騙して人の魂を食らう悪い存在だ。そんなやつが食料である人間と一緒に暮らしていたなど、信じられない。けれどそんな俺の疑念を鼻で笑うように、スペインはけろっとした様子で口を開いた。
「家族やったからやで」
きっぱりと答えられると、返す言葉がなかった。なぜ悪魔と人間が家族になったのか、記憶がない俺に、その真実はわからない。ただアントーニョが嘘をついているようには見えなかった。
何より、家族という言葉がすとんと胸に落ちた。それはまるで自分の体がその答えに満足しているような、そんな妙な感覚で、それに戸惑いつつも抗うつもりはない。記憶がなくとも自分の体や心が、アントーニョという存在を不思議と受け入れているのだ。きっとさっきの料理で懐かしい心地になったのも、今までよほど食べてきた料理だったからだろう。
「また一緒に暮らそうな、ロヴィーノ」
手を差し出される。本来なら悪魔の手なんて取るべきではないのだろうが、行く当てもないし、何よりこの男を俺自身が拒絶していない。仕方なく、アントーニョの手を取った。悪魔との取引であろうと、今の自分に出来るのはこれぐらいしかなかった。



記憶喪失と言っても、基本的な知識は失われてはいなかった。あくまで失われたのは『ロヴィーノ』としての個人の記憶で、記憶喪失になったからと言って、全ての能力を失った訳ではない。お陰でアントーニョと普通に会話が成立するし、家の中にあるものの名称も理解できた。
「ここはキッチン。ロヴィーノは料理好きやってん」
「俺が?」
「そうやで。作るのも、食べるのもどっちもな」
家の中を説明するたび、アントーニョは懐かしいものを見るように目を細めて笑った。その場所でかつての俺がどうだったか、何が好きだったか、そんなことを語っては、愛おしいものに触れるようにロヴィーノの頭を撫でた。向けられるその溢れた愛情を感じるたび、くすぐったくなって頬が赤くなる。それを悟られないように顔を逸らすと、アントーニョは更に嬉しそうに笑った。
案内された家、というよりは屋敷と呼ぶほどの広さがあり、間取りを覚えるのに一苦労しそうだった。アントーニョはとりあえず主に使うキッチンとリビング、それにシャワールームとトイレだけ覚えておけばいいと言っていた。どうやら幼い頃、トイレの場所を覚えられなくてよく漏らしていたらしく、トイレは自室の近くにあるらしい。記憶がないので真偽はわからないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「……俺、本当にそんなことしたのか?」
「ほんまほんま。ちっちゃい頃のロヴィーノは、よう手かかったわ」
という割に、アントーニョの表情は楽しそうで、煩わしさは感じなかった。
「手がかかるのに捨てなかったのか?」
驚いたように目を開いたアントーニョが、初めて笑顔以外の表情を見せた。しばらくじいっとこちらを見つめた後、急にアントーニョは腕を伸ばして、抱きしめてきた。腕の力は強く振りほどけそうにない。仕方なく腕の中に納まっていると、アントーニョが頬ずりをしてきた。
「……俺がお前を捨てる訳ないやん」
「そうなのか?」
「そうや。何があっても、どんなことが起こっても……俺がお前を守ったる」
守るって、何から?
そう思ったけど、アントーニョが腕の力を強めたせいで、苦しくなって聞けなかった。それでもいいかと、その力強さに身を預ける。少なくともアントーニョは俺がトイレの場所がわからなくて漏らしても、記憶喪失になって全てを忘れてしまっても、俺を捨てないらしい。
「お前は俺の親なのか?」
苦しいながらそう尋ねると、アントーニョはやっと腕を緩めて、体を離した。向き合うと、アントーニョは少し困った様子で何かを考えている。
「親……ってつもりではなかったけど、俺はお前の親分やってん」
「それって親とは違うのか?」
「まあ似たようなもんやな。ロヴィーノは俺の子分やで」
親と子、親分と子分。その違いはわからないが、アントーニョの言葉を信じるなら似たようなものらしい。アントーニョの口ぶりからしても、俺が小さな頃から知っているようだし、本当に一緒に育ってきたのだろう。
「でもあんまり深く考えんでええねん。どんな形であれ、家族に変わりないねんから」
家族というものが、俺の知っている認識とアントーニョが言ってる内容と噛み合っていないように思う。家族とは血の繋がりがある一家のことを指す。でも俺とアントーニョはむしろ、同じところが何一つなかった。
「種族が違っても家族なのか?」
目を細めて、アントーニョは頷いた。
「せや。種族が違っても、血は繋がってなくても、俺たちは家族や」
そう言われると、そういうこともあるんだろうと頷くことしか出来ない。なにせ今の俺にとって、間違いなく目の前のこの男が全てだ。この広い屋敷の中、色々と案内されたがアントーニョ以外の誰かを見かけることはなかった。この屋敷には俺とアントーニョしかいない。そして俺には記憶がない。全ての真偽を確かめる術すらない。ならば今の俺にとって、アントーニョの言葉や語る思い出の全てが、真実になる。
なにより、家族だと語る時のアントーニョは本当に嬉しそうに笑う。それを見て、どこか安心している自分もいた。そんな気持ちがどこから生まれているのかわからないが、抱きしめられて嫌悪感を覚えていない時点で、真実の裏付けが出来ている気がする。
「お前は俺の大事な家族や。唯一絶対の、大切な子……」
アントーニョが俺の額にキスをした。何故か俺の体は慣れたように、そのキスを受け入れている。不思議だった。
「大袈裟だ……って言ってなかったか、前の俺が」
「よう言ってたわ」
声を上げてアントーニョが笑った。それにつられて俺も笑った。
疑問は残る。アントーニョが血の繋がらない家族だとするなら、俺の実の両親はどこへ行ったのだろう。俺は家族によって悪魔のアントーニョに売られてしまったのか、それとも捨てられたところを、哀れに思って気まぐれで拾って育てているのか。
わからないことばかりだが、それは追々聞けばいい。記憶がないのだからかつての家族に捨てられていても悲しくはない。なにより、悪魔だというアントーニョの愛情を受けていると、まあそんなことはどうでもいいか……と思ってしまうのだから、やっぱり不思議だった。



アントーニョは食事をする時も、風呂に入る時も、寝る直前まで俺にべったりだった。記憶がないのだからありがたいが、嬉しそうに俺の世話をするアントーニョを見ていると、記憶がないからそばにいるというより、以前からそうしていたのではないかと思えてくる。
「夕飯どうやった?」
ベッドに腰かけ、俺の頭を撫でながらアントーニョが首を傾げている。
「だからうまかったってば……」
素直に頭を撫でられつつ、アントーニョを睨みつける。この問いかけは二回目で、夕飯を食べている時にも既に一度聞かれていた。
睨まれていようと嬉しそうに笑っているアントーニョは、撫でるのをやめて俺の隣に横になった。
「ごめんなあ。嬉しくて何回も聞きたなってまうねん」
「嬉しいって……」
「ロヴィーノはパスタが大好きやってんで。変わってなくて嬉しいわ」
おそらくアントーニョの言ってることは嘘ではない。夕飯にでたのはトマトソースのパスタで、シンプルなものだったが食べた瞬間、じんわりと胸があたたかくなって泣きたくなった。ずっとそれを望んでいたような、アントーニョに抱きしめられた時の安心感にどこか似ている。
「そんなに好きだったのか……」
「せやで!毎日パスタ食べたいって言うぐらい好きやってん。ピザも同じぐらい好きやったと思うわ」
まるで自分のことのように、アントーニョは俺のことを口にする。何を聞かれても、今のところは明確な答えが返ってきていた。
「アントーニョは……」
言いかけて、口を閉ざした。つい思ったことを口にしてしまいそうになったが、急に恥ずかしくなって、顔を赤くしてアントーニョから顔を逸らす。すると不思議そうな声を上げて、アントーニョが顔を覗き込んできた。
「なに?なんで言うのやめたん?」
「別に……いいだろ」
「嫌やぁ。めっちゃ気になるやん。教えてや!」
がくがくと体を揺さぶられて、苛立って怒声を上げそうになるのを、ぐっと堪える。全然寝かせてくれる気がない。しばらく揺さぶられた後、観念してため息ついた。わざわざ改まって言うことでもないというのに、言うまで寝かせてもらえない勢いなので、仕方がない。
「大した事じゃねえけど……」
「うん?」
「アントーニョは……俺のことが、好きだったんだな」
記憶を失う前の俺の話をしている時、アントーニョは本当に嬉しそうだった。正直、それって鬱陶しいと感じてたんじゃないのかと思うような内容でも、困ったように笑うだけで、そこに嫌悪感は存在していないように感じた。その頃の記憶がないので、いくら語られても別の誰かの惚気話を聞かされている気分だが、あまりに幸せそうなのでこちらが恥ずかしくなってくる。
「なんや、そんなこと……」
何でもないことのように呟いて、アントーニョは俺の額にキスを落とした。そのままぎゅうっと、布団ごと体を抱きしめられる。
「せやで。俺はお前が、ロヴィーノが世界で一番好きや。お前さえおれば、他はもう何もいらんねん」
とんでもないことを言う。アントーニョはふざけて大袈裟に言っているのではなく、本気でそう言っているように聞こえた。驚いて言葉が出てこない。そんな俺を気にする様子もなく、アントーニョは抱きしめる腕の力を強めた。
「記憶がなくても、絶対お前のこと手放さへん……大事にするから……」
言葉に続きはなかった。大事にするから、の続きがひどく気になったが、抱きしめられたまま目を閉じた。なんだかアントーニョが泣きそうになっている気がして、聞けなかった。
そこでふと、そういえば俺はどうして記憶を失ったんだろうと、一番大事なことをやっと疑問に思った。一日過ごしてみて、身体的に痛みを訴えている場所はない。鏡で見ても体におかしなところはない様に思えたし、事故に巻き込まれたショックでという訳ではなさそうだった。
あまりよくは知らないが、記憶喪失というのは頭を強く打った時に起こる気がする。しかし頭にも痛みはないし、こぶが出来てる様子もない。記憶喪失って、それ以外にどんな原因で起こるんだろう。よくわからなかった。
疑問が生まれると、同時に不安が胸を覆う。けれどアントーニョの腕に身を預けると、不思議と不安は払拭され、安心感に包まれる。胸元に頬をすり寄せると、アントーニョの匂いがした。干したてのシーツに顔を埋めた時のような、あたたかくて優しい、太陽のような匂い。
その安心感に、じんわりと目元に涙が滲んだのがわかったが、睡魔に負けて体が動かない。
「……おやすみ、カリーニョ」
優しい声が耳元でした後、涙を拭われた感覚がして、意識はすぐ暗闇へ落ちていった。

※カリーニョ…愛しい人



声がして、ふっと意識が戻ってくる。
「……ロヴィーノ、朝やで」
覚えのある声に返事をする前に、体を揺すられた。目を開くと視界はぼやけ、こちらを見る影がはっきりと見えない。目を擦ってもう一度見ると、寝る前に見たアントーニョが笑ってこちらを見ていた。
そうだ、アントーニョだ。昨日のことを思い出してきて、やっと体を起こした。
「おはよう、ロヴィーノ。よう寝てたな」
「……おはよう。アントーニョ」
アントーニョは頬にひとつ、挨拶のキスを落とす。昨日からされているので驚かないが、そういえば一度もキスを返していないことに気が付いた。アントーニョが離れてしまう前に手を伸ばして、頬に軽くキスをした。すぐ顔を離すと、スペインは呆けた様子で頬に手を置き、固まっている。
「……アントーニョ?」
キスなんて別に特別なことでもないはずなのに、固まっているアントーニョを見ていると、途端に不安になった。アントーニョもしているからいいと思ったのだが、悪魔にはしてはいけないという決まりでもあっただろうか。そもそも悪魔と住むこと自体が、許されることではない気もするが。
「……キスや」
「え?」
「ロヴィがキスしてくれた……」
「キスって……挨拶だろ」
「めっちゃ嬉しいーーー!ロヴィーノ!」
大声を上げて抱きついてくるスペインの勢いを殺しきれず、起き上がったのにまたベッドに逆戻りしてしまった。
「ちぎー!なにすんだ!離せー!」
「ちぎーって鳴いた!かわえええええ!」
離れるよう暴れているのに、アントーニョの腕の力が強いせいで、びくともしない。顔を赤らめて頬ずりをされたり、顔中にキスをされたりと朝から散々な目にあっている。こちらの様子を気にした様子もなく興奮しているアントーニョに、少し恐怖を覚えた。
「はあ……ロヴィーノはほんまかわええなあ。たまらんわ」
たまらないのはこっちの台詞だが、好きなようにされすぎて文句を言う元気もない。やっと解放されたころには、ぐったりとベッドに身を預けていた。けれどアントーニョはそんな俺を見て、変わらず嬉しそうに笑って頭を撫でている。
「ごめんなあ。朝ごはん出来てるから、起きてや」
ぐったりとしている俺の腕を引っ張って、アントーニョは俺を起き上がらせた。されるがままになりながら、顔を洗って服を着替える。
「そういえば、ロヴィーノは普段、裸で寝とったで」
「……俺って変態だったのか?」
身支度をしている間もアントーニョは俺のそばを離れない。着替える俺を見ながらそんなことを言われ、顔を歪める。
「別にそれほど変態って訳やないと思うけど……裸の方が落ち着くんやって」
「アントーニョも裸で寝るのか?」
着替え終わってクローゼットを閉める。そこでアントーニから返事がないことに気が付いて振り返った。アントーニョは目を細め、笑ってベッドに視線を移している。そちらを見ても、そこには誰もいない。窓から差し込む日差しが、乱れたシーツに反射して眩しいだけだった。
「……俺は、服着て寝る方やったなあ」
「ふうん……」
しばらくベッドを見つめていたアントーニョは、すぐこちらに視線を戻した。さっきまでの表情と返答に、妙な違和感を覚える。しかしそれが何なのか、よくわからない。ただ何かが引っかかるような気がする。
「試しに一回、裸で寝てみたらええんとちゃう?」
「ええ……まあ、試してみてもいいけど……」
考え込む暇もないうちにアントーニョが話しだすので、結局その違和感は遠くなっていく。最終的にまあいいかと放り投げて、部屋を後にした。リビングには二人分の食事が用意されていて、言われるまでもなく昨夜と同じ位置に腰かける。
「さあ、食べよか……って、その前に」
食事に手を付けようとすると、アントーニョが俺の名前を呼んだ。顔を上げると、アントーニョはテーブルに両肘をつき、顔の前で手を組んでいた。首を傾げると、アントーニョは困ったように眉を下げる。
「昨日は言い忘れたけど、ほんまは食べる前に祈らなあかんねん」
そう言われて、記憶の中に確かに知識として存在している。神様に感謝を捧げる祈りをしてから、食事につくのが当然の作法だ。アントーニョと同じように肘をつき、顔の前で手を組んだ。
「アントーニョも祈るのか?」
目を閉じようとして、ふとそんなことが頭を過り、顔を上げた。アントーニョは目を細め、おかしそうに笑う。
「俺は悪魔や。祈る神様なんて、おらへんよ」
「……なのに俺は祈るのか?」
「ロヴィーノは悪魔ちゃうしなあ」
今まで顔の前で組んでいた手を解き、アントーニョは行儀悪く頬杖をついた。
「祈っとき。大事なことやで」
「……わかった」
笑うアントーニョを遮るように、目を閉じる。祈りの言葉は、不思議とすぐ口から出た。口に馴染むそれは、今まで余程口にしてきたものなのだろう。記憶を失う前の俺は、敬虔な信者だったのだろうか。そのわりにロザリオは見当たらない。そういえば、昨日は教会の鐘の音がしただろうか。近くに教会はないのかもしれない。悪魔のアントーニョが教会の近くに住もうとは、思わなさそうだ。
「……アーメン」
神様に祈りを捧げながら、頭の中は悪魔のアントーニョのことでいっぱいだった。仮に俺が家族に捨てられたのだとして、その時神様は何をしていたのだろう。悪魔が俺を保護したその時、神様は……。
「ほな、食べよか」
祈りを終えて目を開くと、アントーニョが笑顔でそう言った。頷いて、食事に手を付ける。
記憶がない俺にはわからないことだらけだけれど、もし俺が窮地に陥った時、アントーニョは助けてくれる気がする。他の誰かが俺を見捨てても、アントーニョだけはきっと俺の手を離さない。
それは当然のことのように思う。神様の救いは、試練を与えることだ。神様は人に乗り越えられる試練を与えて、試される。魂の本質を。
悪魔の救いを信じている俺は、きっと悪魔に魂を捧げでもしたんだろう。そうでなければ、アントーニョの腕にあんなに安心しない。アントーニョは別の種族だというが、俺はもう普通の人間じゃないのかもしれない。与えられる救いを、喜んでいる時点で。
教会が近くになくてよかった。もう、敬虔な信者には戻れそうもない。



屋敷には中庭があった。中庭は屋敷に囲われるようにしてあり、そこには腰を下ろして寛げる噴水と、小さな畑がある。
「ここでな、トマト育ててんねん」
「トマトを?」
中庭の端っこに、小さな畑があった。確かに家庭菜園程度の野菜しか育てられなさそうな規模で、既に実っているトマトを見るとまだ少し青い。
「昔は大きな畑もあってんで?せやけど俺とロヴィーノだけやったら、そんないらんかなあ思って、小さしてん」
畑の前でしゃがみこんだアントーニョは、実っているトマトを手に取り、様子を見ている。俺もその隣にしゃがみこんで、トマトよりアントーニョの横顔を見た。
「昔は俺以外にもこの屋敷に人がいたのか?」
トマトに触れていたアントーニョの手の動きが止まった。それでも俺はじいっと、アントーニョの横顔を見続けた。
アントーニョは少し固まった後、眉を下げて目を細めた。親指があやすように、トマトの表面を撫でている。
「せやなあ……昔はいっぱい、人がおったよ。みんな……俺の大事な家族やった」
この屋敷に、俺とアントーニョ以外誰もいない。本当に静かな場所で、俺とアントーニョの声だけが屋敷にこだまする。
細められた明るい緑の瞳が、寂しさを光らせる。同じ記憶があれば、その寂しさを分かち合うことも出来ただろうに、今の俺にはかつて賑やかだった屋敷の思い出がひとつもない。
どうすることも出来なくて、しゃがんだまま移動して、アントーニョの肩に自分の肩をぶつけた。驚いた様子で、アントーニョがこちらに振り返った。
「……俺は別に、今のままでも……嫌じゃねえぞ、このやろー……」
恥ずかしくなって、どんどん尻すぼみになって言った。最後なんて聞き取れたか怪しいほど小さな声だったが、触れているアントーニョの肩が震え始めた。驚いてアントーニョを見ると、アントーニョは顔を赤くして喜びに打ち震えているようだった。泣ているのかと心配して損した。
「かっ……かんわえええええ!なんてええ子なんやロヴィーノは!お前は最高の子分やなあ!絶対離さへんからな!」
「ぎゃー!抱きつくなー!」
歓喜の声を上げて抱きしめてくるアントーニョの勢いに押され、尻もちをついた。けれどそんなこと気にした様子もなく、強く俺を抱きしめるアントーニョは、痛みを感じるほど激しく頬ずりをしてくる。あまりに鬱陶しい。
「いい加減にしろよ!痛いんだハゲ!」
「親分ハゲてへんよ!……って、なんか懐かしいなあ」
「え?」
やっと体を離したアントーニョは、嬉しそうに笑って頬を掻いた。何を言っているのかわからず首を傾げる。
「ロヴィーノは口悪くてなあ、よく俺のことハゲとか言うとってん。目覚めてからは言うてへんかったから、なんか懐かしなって……」
自然と口から出た悪態だったが、そんなことを常日頃から言っていたのか。親のような相手にそんなことを口にする俺もどうかと思うが、言われても平気な顔をしているアントーニョもどうなのだろう。仮にも悪魔だろうに、怒ったりしないのだろうか。
「……お前、怒らないのか?」
「なにが?」
「ハゲとか言われてよ……」
言ってしまった手前バツが悪く、そっと目を逸らす。するとアントーニョは「ああ」と頷いて、俺の頭を撫でた。
「そんなん、かわええもんやん。怒ってるロヴィーノってイキイキしとって、俺はええと思うで……笑ってる顔が一番やけどな!」
期待したように顔を覗き込んでくるアントーニョに、顔を歪める。笑ってほしいのだろうが、面白くもないのに笑えない。顔を逸らすと「つれんな〜」とぼやいて、アントーニョは立ち上がった。
「これから毎日、このトマトの世話しよな」
「世話って、何すりゃいいんだ」
「簡単やで。トマトの様子見て、水あげて、おいしくなるように元気になるおまじないすんねん」
「……元気になるおまじない?」
最初の二つは大体わかるが、最後のひとつがわからない。眉をひそめてアントーニョを見ると、待ってましたと言わんばかりにアントーニョがそわそわし始めた。
「おまじない、する?する?」
またしても期待の眼差しを向けられていることに、イラっとする。どうせくだらないことだろうと思うのだが、元気になるおまじないがどういうものかわからないので、少しは気になった。気になると素直に言うのは癪だが。
「……どんなのか見せてみろよ」
「よっしゃ!任せといてや!いくで〜!」
ぐっと握りこぶしを作って気合を入れたアントーニョに、こちらもごくりと生唾を飲み込む。バカにしていたが、これでも一応悪魔なのだから、もしかしたらすごい魔法や魔術が見れるのかもしれない。
「ふそそそそ〜……」
「…………」
「ふそそそそそ〜……」
別に期待した訳ではなかったが、ここまでくだらないとは流石に想像出来ないだろう。何度も腕を広げてふそそだとかよくわからないことを言うアントーニョを、冷めた目で見る。それでもめげずに同じことを繰り返すアントーニョから、噴水に視線を移した。
「……様子を見てから、水やるんだったな」
噴水の横にはじょうろがひとつ置かれている。小さな畑なので、何往復もする必要はないだろう。噴水に向かって足を進めると、すぐに腕を掴まれ引き止められた。
「元気になるおまじないもや!ロヴィーノも一緒にやろ!な?」
「うるっせ!お前ひとりでやれよ!俺は絶対やらねーからな!」
「なんでや〜!いけず言わんとってや〜!」
意地悪でしないと言ってるのではない。心の底からしたくないと思ってるから拒否してるのだ。ましてやさっきの元気になるおまじないも俺に向かってしていたが、とても不愉快な気持ちになっただけだった。全く効果がない。記憶をなくす前の俺も絶対にこれはしていないはずだ。していたら相当アントーニョに毒されていたかわいそうな俺だったに違いない。
腕に纏わりついてくるアントーニョを無視して、じょうろに水を汲んでトマトに水をやった。纏わりつきながらも水を与えるコツを教えてくれるので、なんだかんだ器用なヤツだなと思いつつ、全てのトマトに水を与え終える。
「ほんなら一緒に……」
「しねーっつってんだろ、このやろー!」



シエスタという習慣がある。俺はそれを好んでいたようで、昼食を終えるとアントーニョが寝るよう言ってきた。別にとてつもなく眠いという訳ではなかったが、やってみたらいいと言われると断る理由もないので、誘われるがままに自室に戻った。
今朝言われた通り、着ていた服を脱いで下着一枚になり、ベッドに潜り込む。アントーニョは昨夜のように、ベッドに腰かけて俺の頭を撫でていた。
「あんま眠くねえんだけど……」
「しばらくしたら眠なるよ」
「ならそれまで、ちょっと聞きたいことがあんだけど」
いいかと聞くと、アントーニョは一瞬だけ不思議そうにした後、すぐ笑って頷いた。
「ええで。何でも聞いてや」
何でもと言われると、逆に迷ってしまう。正直なところ、聞きたいことはたくさんある。中庭で見た寂しげなアントーニョの横顔を思い出して、目を逸らして天井を見た。
「……俺って何歳だったんだ?」
身体的にはかなり成長していて、大人のようにも見えるが、アントーニョと並ぶと幼さが残っているように感じる。
「年なあ……二十歳ぐらいやったんちゃうかなあ?」
「かなあって……曖昧だな」
考える素振りをとりながら答えたアントーニョに、顔を歪める。記憶がない俺にとって、一緒に暮らしていたというアントーニョだけが頼りなのに、こんな曖昧な返答をされると困る。しかしアントーニョは困ったように眉を下げ、頬を掻いた。
「俺、何百年って生きとるから……年齢とかあんまり頓着したことないねん。ごめんなあ」
「何百年……」
「というか千年以上やな……」
果てしないその年数は、現実味がなかった。記憶を失ったという時点で、俺の記憶の年数は一年すらない。そんな俺にいきなり千年以上生きていると言われても、壮大すぎてそうなのかと頷くぐらいしかできない。千年のうちの二十年ぐらいを一緒に生きていたとしても、そりゃあアントーニョからするとわざわざ数えている年数でもないだろう。
「悪魔ってすげえ長生きなんだなあ」
「そう……みたいやなあ」
他人事のように、ぼんやりと頷いているアントーニョを不審に思いながらも、中庭で話したことを思い出した。
「前はいっぱいここに人がいたって言ってたけど、みんな人間だったのか?」
「ほとんどは人間やったなあ。たまにそうじゃないやつもおったけど」
想像も出来ないことをアントーニョはあっさりと答える。人と悪魔が一緒に暮らすということは、相当変わっているのではないかと思うが、もしかしたら俺が忘れているだけでそれが普通のことだったのかもしれない。
「お前は……人間の魂を食ったりしないのか?」
今更俺の魂を食おうとしているとは、あまり思っていない。それなら食える機会は今まで、いくらでもあったし、この短い間でもアントーニョが俺を愛しているのは、伝わってくる。それでも俺の同種族が餌だったのならと思うと、やはり少しだけ怖くて、シーツをきゅっと握りしめた。しかしアントーニョは笑って首を横に振る。
「そんな怖いことせえへんよ。ロヴィーノと一緒のご飯食べとったやろ?」
「でも……悪魔は人間の魂を食べるって……」
悪魔は人間の心を惑わし、その魂を食らうということは、知識としてどうしてか記憶に残っていた。もしかすると俺は本当に、敬虔な信者だったのかもしれない。
「まあそういうやつもおるかもしれんけど……俺、あんま他の悪魔に詳しないねん。でも確かにそんなやつおったら怖いやんなあ」
まるで他人事のように言うアントーニョに、胡乱な目を向ける。怖いどころか、お前がその悪魔なんだろうがと思うが、呆れて言葉が出てこなかった。
「せやけどロヴィーノは親分が絶対守ったるからな!安心してええんやで!」
「……お前、変わった悪魔だな」
記憶がなくとも、それだけはわかった。人間の悪魔に対する認識が間違っているのではなく、きっとアントーニョが悪魔の中でも飛び抜けて変なだけなのだ。確かめる術もないが、なんとなくそう確信していた。
「ええ〜?そない言われると照れるわあ」
全く褒めていないのだが、アントーニョは嬉しそうに頬を赤く染め、頭を掻いていた。今の会話のどこに照れる要素があるのか謎だが、変り者に正論を吹っ掛けたところで、会話が成り立つとも思えない。嬉しそうにしているので、放っておくことにした。
「他にもう聞きたいことない?」
顔を覗き込んでくるアントーニョの明るい緑色の瞳を見つめた。宝石には詳しくないが、爛々とした様子のアントーニョの瞳は、まるで何かの宝石のように綺麗だと思う。食べ物ならマスカットのような瑞々しさを感じる。記憶を失う前から、俺はこの瞳が好きだったんじゃないかと思う。じいっと見つめられると、不思議と動きを封じられて、彼の言葉に応えたくなってしまうからだ。
口にするか迷って、そっとアントーニョから目を逸らした。
「……俺は家族に捨てられたのか?」
どことなく後ろめたく感じている。その感覚がどこから来ているのか、不思議だった。でも俺は何故か、この質問を口にしていいのか、迷っていた。理由はわからない。俺を家族だと愛してくれているアントーニョに、前の家族のことを聞くのが、彼の想いを裏切るように感じたのかもしれない。自分の気持ちなのに、答えが全くわからなかった。
「……家族?」
しばらく間があって、アントーニョはぽつりと零した。そのあまりに温度のない声に驚いてまたアントーニョに視線を戻すと、彼は表情が抜け落ちた顔で俺を見下ろしていた。
声も出なかった。体を震わせる余裕もない。窓から差す日の光を背に浴びているアントーニョは、逆光のせいで顔に影が差している。お陰で緑の目がいつもより明るく、揺れているように思えた。
さっきまでずっときれいだと思っていたその目に、初めて恐怖を覚える。悪魔だと言われた時ですら抱かなかった感情が、体を支配し始めた。
「俺がロヴィーノを捨てる訳ないやん」
相変わらず表情がないまま、アントーニョはそう答えた。機械的な、感情のない声だった。アントーニョのものとは思えないそれに、ごくりと生唾を飲み込む。
「……そう、じゃなくて……俺には俺の家族がいた、んじゃないのか?」
「なんでそう思うん?」
指や声が震えてないか、恐怖が表に出ていないか。相手に見えないように、出来るだけ努力した。不思議と、この男に恐怖を抱いてはいけないと、何かが訴えている。体の奥、頭の中のどこか、から。
「だって……俺とお前は、違う種族なんだろ?だから……」
アントーニョは「ああ」と頷いて、視線を明後日の方角へと向けた。何かを考えるような素振りを取った後、観念するようにため息をついて、俺に視線を戻した。いつの間にか表情は戻っていて、困ったような笑顔を浮かべている。それに少なからずほっとし、強張っていた体から力を抜いた。
「ロヴィーノはな、知り合いから預かってん」
「知り合い?」
「そや。いきなりロヴィーノのこと育てろって預けられて、最初は面倒なん押し付けられたなあ〜って思っててん」
「……えっ」
聞き間違いでなければ今この男、俺のことを面倒と言わなかっただろうか。意識が戻って二日目なので、俺としてはまだ出会って間もない相手ではあったが、異様に愛されていた。なのでそんな相手からまさか「めんどくさい」と思われていたとは、あまりに予想外で目が点になる。
「面倒、だったのか……?」
「そりゃそうやわ。ロヴィーノめっちゃおねしょするし、トイレの場所覚えへんし、皿もよお割るし、掃除も出来ひんしなあ。ついでに憎たらしいことばっか言うし、ほんま手ぇかかる子やってん」
散々な言われようだった。こいつ本当に俺のことを愛しているのか?と不思議に思うほど。もしかしたら本当はこの屋敷に俺を閉じ込めて、苦しめようと思ってるんじゃないかと疑いの目を向ける。しかしそんな俺の頭を、アントーニョが優しく撫でてきた。
「面倒な子やったはずやのに、だんだんお前がかわいくてしゃあなくなってなあ」
「ええ……?」
どうしてそんな急展開になるんだろうか。自分のことだが、俺がもしアントーニョの立場だったら、そんなクソガキ絶対に好きにならないと思う。すぐ家から放り出していただろう。
「お前が成長していって、トイレの場所も覚えて、出来ることが増えていくたび……なんや、寂しくなってん。いつか親分なんかいらんって言われるかもしれんってな」
ぐりぐりと俺の頭を撫でるアントーニョは、目を細めて俺を見つめていた。その目が、寂しそうに揺れている。
「ああ、俺お前のこと愛してたんやなあって……」
髪をぐしゃぐしゃにした手が離れていく。それでもアントーニョの目は、見守るように俺だけを見ていた。
「手放されへんくなったのは、俺の方やねん」
「……手放す?」
いまいち話している内容がわからなかった。家族のことから、アントーニョが俺と出会った時のこと、そこまではわかっていたがいつから俺とアントーニョが離れる話になったのか。もしかしてかつて、アントーニョが俺を手放さなければならない状況になったことがあったのだろうか。
「お前の元の家族が今どうしてんのか、実は俺も全然知らんねん。ごめんなあ」
「そう、か……」
元の家族の今の状態が知りたかったわけじゃない。種族の違うアントーニョと俺がどうして家族になったのかが知りたかっただけだ。預けられたというのだから、元の家族が俺をアントーニョに預けたのかもしれない。さっきのアントーニョの口ぶりからして、元の家族も生きているようだから、それでよかった。こんな大人になるまで迎えに来ないのだから、恐らくそういうことなのだろう。
「……会いたい?」
いつもの騒がしさが感じられないような、静かな声だった。
「え?」
「元の家族のとこ、戻りたい?」
尋ねているアントーニョの顔が、笑っているのにひどく寂しそうに見えた。いつも明るいはずの緑の目が、光を失くしたように暗く揺れている。その表情を見て、俺はアントーニョが笑っている顔が好きなんだなと、気が付いた。
体は勝手に動いた。何かを考えていたわけじゃない。アントーニョの問いに答えることもなく、体を起こして寂しそうな悪魔を抱きしめる。
「お前でいい」
腕の中のぬくもりが、息をつめたのがわかった。それでも気にせず、強く抱きしめる。すると頭に、固い角が当たった。
「顔も名前すら思い出せない血の繋がりより、お前がいい」
「ロヴィーノ……」
「お前がいいっつってんだよ、ハゲ」
ぐりっと頬をすり寄せる。抱きしめなければいけない気がしたし、自分がそう伝えたい気がした。でも今のこの気持ちは、意識を戻して二日目の俺が思う気持ちじゃないはずだ。きっと眠っている、消えてしまったかつての俺の記憶が、そうさせているんだろう。
ちぐはぐで、いびつなこの気持ち。嘘ではないと言えるけれど、自分が忘れてしまった何かが、まだ足りない気がする。
「……奇跡みたいな子」
震える声が耳のそばでした。泣いてるのかと思って体を離すと、緑の目が涙で濡れていることはなかった。ただ泣きそうな顔で笑っている。でもさっきと違って、目が綺麗に揺れているので、きっともう寂しくはないはずだ。
アントーニョは顔を近付けてきて、俺の頬にキスをした。そのまま優しく頭を撫でられる。
「愛しとるよ、ロヴィーノ」
「……知ってるよ」
なんだか恥ずかしくなって、ぶっきらぼうにそう答えたが、アントーニョは更に笑みを深めただけだった。
「ロヴィーノ、シエスタする時間なくなるで」
大して眠くなかったが、アントーニョが寝かしつけてくるので、大人しくまたベッドに横になった。乱れた布団を直しているアントーニョを見ながら、もうひとつだけ聞きたかった、記憶を失った理由が頭を掠める。
さっきのアントーニョを思うと、今は聞かない方がいいのかもしれない。実際、どうしても知りたいのかと言われたら、そうでもないのだ。疑問に思っているだけで、アントーニョが気にする必要はないと言えば、まあいいかと諦められるぐらいのことでしかない。
今はそんなことより、記憶を取り戻したいという気持ちが強かった。記憶がないせいで、俺はアントーニョの孤独に寄り添うことが出来ない。元の家族の話をした時、どうしてアントーニョの表情に陰りが生まれたのか、どうして寂しそうにしていたのか。その理由が知りたかった。
何かが引っかかる。違和感は、多々あった。記憶がないのに、見るからに怪しい悪魔のアントーニョをどうしてこんなに信頼しているのか。たくさんいたという人間たちが、どうして今は全くいないのか。足りないと思っている何かが、なんなのか。記憶を取り戻さないと、全ての答えにはたどり着けない気がする。
「難しい顔してやんと、はよ寝えや」
ぼんやりと考え込んでいると、布団を直し終えたアントーニョが、俺の眉間あたりにキスを落とした。すると途端に目蓋が重くなり、視界が滲んでいく。俺を見下ろしているアントーニョの顔が、ぼやけた。
「神様……この子だけは、見逃したって……」
泣いてる気がした。でももう、手を上げることも出来なかった。



毎日特に何もすることがなく、俺とアントーニョはのんびり広い屋敷の中で暮らしていた。前の生活を少しずつ取り戻すためにと料理も積極的に作ったし、トマトの世話も欠かさずこなした。だからといって記憶は何ひとつとして取り戻していないが、屋敷の暮らしには慣れてきている。
「……しかし、暇だなあ」
ベッドに寝転がって呟いた。するとベッドに腰かけていたアントーニョが、きょとんとした様子で顔を覗き込んでくる。
「シエスタするところやん」
「そうじゃなくて……毎日することねえなって言ってんだよ」
「かくれんぼでもする?」
「お前すぐ俺のこと見つけるからやらねー」
やってることと言えば料理を作ってトマトの世話をして、シエスタしているぐらいだ。何度かかくれんぼをしたこともあるが、何故かアントーニョにすぐ見つけられるのがムカついて、もうしたくない。
別に普段のそれらに文句はないのだが、毎日代わり映えのしない毎日に、辟易し始めている。記憶を取り戻す前の俺は、これで満足だったのだろうか。
「記憶なくす前の俺って、普段何してたんだ?」
「前……?」
顎に手を当てて、アントーニョは考える素振りを取った。
「言うても、前からロヴィーノは結構ぐーたらしとったからなあ……」
「ぐーたら……」
「ほんなら、掃除でもしてみる?」
提案されたそれは、あまりに普遍的なものだったが、今まですっかり忘れていたことだった。何故そんなことを忘れていたのかというと、今までこの屋敷を掃除している姿を、一度も見たことがなかったからだ。俺はもちろん掃除していないし、アントーニョも常に俺のそばにいるので、掃除なんてしていないはずだ。
「そういえば……今までこの屋敷って、誰が掃除してたんだ?」
「俺やで」
「え?嘘だろ、いつやってたんだよ」
俺にべったりだっただろと胡乱な目を向けると、アントーニョは笑って「ちゃうちゃう」と言いながら首を横に振った。
「俺っていうか、俺の魔術で掃除しててん」
「……出たな。魔術」
「え〜?ほんまやって」
別に疑っていない。むしろそれなら納得だというだけだ。ただアントーニョのいう『魔術』というものが、あまりに馴染みがないので、微妙な心持になるというだけで。
悪魔のアントーニョは魔術が使えるのだという。正直なところ、アントーニョに悪魔らしい部分があるとすれば、人間とは違って頭から生えてる立派な二本の角ぐらいだった。あとは普通の人間と変わらない、むしろ陽気で人当たりの良い青年で、悪魔と言われても半信半疑なところがあった。
初めてアントーニョの魔力を目の当たりにしたのは、料理を作る時だった。アントーニョに何が食べたいかリクエストすると、彼はその魔術を使って食材を用意したのだ。二本の角が光り、何もなかったテーブルに新鮮な食材が並んだ時は、流石に言葉を失った。
『…………魔法?』
『魔法ちゃうくて、魔術やで』
呆然としている俺に、アントーニョはよくわからない指摘をしてきた。
『……何か違うのか?』
『根本的に違うで。まあ、見てる分には似たようなもんやけどな』
説明をされたところでよくわからないので、とりあえず頷いておいた。魔法も魔術も使えない人間からすると、詳しく言われても違いなどわからない。知らなくても、生きていくことに支障はないはずだ。
食材はアントーニョが魔術で用意できてしまうので、中庭で育てているトマトも、本当は育てる必要などないらしい。なのに何故育てているのかというと、あれは趣味なのだそうだ。やっぱり変わった悪魔だと思う。
「俺の魔術で綺麗にするから別に必要はないねんけど、やることないならロヴィーノが掃除したらええんちゃう?」
「この広い屋敷を一人でか?」
「俺も手伝うやん。一日で全部終わらせる必要はないねんし」
それもそうだ。普段使わない部屋の掃除をマメにする必要もないし、日常的に使う部屋だけ気を付けていればいい。アントーニョも手伝うなら、出来ないことはないだろう。楽になる方法からわざと苦労する方を選択するというのも変な話だが、暇つぶしの為だ。
「……シエスタ終わったらやってみるか」
「せやね。夕飯作るまで軽く掃除しよか」
そう話してから眠る。シエスタはアントーニョに言われてから、毎日取り入れている。軽く眠るのが気持ちよくて、この習慣はやめられそうになかった。裸で眠るのも癖づいてしまい、今は逆に服を着ていると寝辛いとすら感じる。記憶はなくとも、体は意外と覚えているものだ。
「なら、掃除やな」
目を覚まして服を着た後、アントーニョは意気揚々と言った。物置きと化していた部屋から掃除道具を取り出してきたアントーニョは、箒を俺の手に握らせる。
「掃除は基本的に上から下や。俺が上の埃落としたら、ロヴィーノはそれを箒で掃いてゴミ集めてな」
「お、おう……」
てきぱきと指示を出してくるアントーニョに圧倒される。どうやら掃除に詳しいらしい。魔術でどうにか出来るなら、掃除なんてしたことないだろうなと思っていたが、意外に掃除が好きなのかもしれない。俺よりヤル気に満ちている背中に、なんだかなあと思う。
「じゃ、やろか!」



結果は散々なものだった。アントーニョがではなく、俺がだ。
「……バケツ、床に置いてたやんなあ」
その問いに、答えない。相手だって、答えを求めてるとは思えない。視界が真っ暗で何も見えないが、アントーニョがどんな顔をしているかはお見通しだ。
「なんで何もない廊下で、バケツが宙を飛ぶんやろなあ……」
そんなことこっちが聞きたい。ぽたぽたと滴が地面に落ちていく音が、やけに耳についた。大変耳障りだ。
「ロヴィーノも魔術使えたん?」
「ンな訳ねーだろハゲ!バカにしやがってコンチクショー!」
今まで視界を遮っていたバケツを地面に叩きつけ、予想通りにやにやしているアントーニョを睨みつける。すると途端に、アントーニョは声を上げて笑い始めた。
「あっはっはっ……濡れ鼠になってもうてるやん」
「お、お前のせいだコノヤロー!」
「親分関係ないやろ」
本当にアントーニョは関係ないのだが、笑われていることに腹が立って、アントーニョの肩を殴った。けれど大して痛みを感じていないのか「痛いわ〜」と言いながら、俺が叩くのを止めようともしない。更に腹が立つ。
部屋の掃除をしようと思ったら、掃除の最中何故か机にぶつかってペンを倒すわ、シーツを踏んづけて汚してしまうわ、最終的には本棚を倒してしまった。なんとか下敷きにはならなかったが、危険を感じてアントーニョが窓の掃除に変えようと提案してきた。部屋は悲惨な状態になっていたが、アントーニョの魔術であっという間に元通りになったので、それは良かった。
仕方ないので、言われた通り廊下の窓を拭く掃除に切り替えた。だが一枚も拭くことも出来ず、足を引っかけてバケツを頭から被ってしまう始末。どうしてそうなったのか自分でもよくわからないが、気付いたら水が入ったバケツが宙を舞っていて、そのままびしょ濡れになってしまったのだ。
そういえば、前にアントーニョが俺は掃除が出来なかったと言っていた。それは幼い頃の話で、大人になって克服したのだろうと勝手に思っていたが、違ったのかもしれない。いっそここまでくると、何かに掃除が出来なくなるような呪いをかけられている気がする。こんなに何をやってもダメなことって、あるだろうか。
「俺って……記憶なくす前からこんな感じなのか?」
殴るのを止め、恐る恐るアントーニョを伺った。アントーニョは濡れて額に張り付いた前髪が、目に入らないようにと、前髪を整えてくれている。
「せやなあ。不器用な子ではあったかなあ」
これを不器用レベルだと捉えているアントーニョの感覚も相当だが、二十年近く生きていて克服出来ない自分も相当である。がくっと肩を落として、ため息をついた。
「よくそんなやつとずっと一緒にいられたな、お前」
前にアントーニョから聞いた、記憶をなくす前の俺は、どう考えても捨てたくなる面倒なクソガキだった。全てを何とか克服出来たからこそ、アントーニョも俺をそばに置いていたのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。アントーニョは悪魔だが、天使並みの懐の広さを感じる。未だって廊下を水浸しにしたというのに、笑うだけで怒るそぶりも見せない。
「やからこそ、一緒におれたんやで」
驚いて、目を見開いた。アントーニョは相変わらず笑っているだけで、嘘をついているようには見えなかった。
「どういう意味だ?」
本当に意味がわからなくて首を傾げたが、アントーニョはそんな俺を見て、笑みを深める。濡れているのも気にせず、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。その際、髪の先から水滴が飛んでアントーニョの服を濡らしたが、気にした様子もない。
「手がかかる子ほどかわええってことや」
嬉しそうに笑うアントーニョの言葉の意味は、いまいちわからない。俺は誰かの親になったこともないし、そもそも記憶がない。どう考えても元来から世話好きでもないだろうから、誰かの世話をするのなんて間違いなく苦手の部類に入るだろう。
アントーニョの気持ちは、理解出来ない。それでも嬉しそうに笑っているから、おそらく本心からの言葉だろう。そういえば前に、俺が自分で出来ることが増えるたび、寂しくなっていたとか、そんなことを言っていた。不思議だが、手がかかる方がアントーニョは好きらしい。
「……世話好きの悪魔って、お前マジで変なヤツだな」
「ロヴィーノにだけやで?」
「なおさら変だ」
アントーニョが変なのは今に始まったことではないし、ここには俺以外誰もおらず、変なことを指摘するようなやつもいない。だからまあ、いいのだろう。変な悪魔と、そんな悪魔に愛されていても嫌だと思っていない俺だから、ちょうど釣り合いが取れている。
「ほら、夕飯の前に風呂入っといで。体冷えてまうよ」
促されるまま、シャワールームへと向かった。匂いをつけたまま眠るのが嫌だから、本当は夕食後に風呂へ入りたいが、確かにびしょびしょのままではいられない。
「今日はラベンダーがいいぞ、このやろー」
「了解やで」
頷くと、アントーニョは魔術でラベンダーを生み出した。風呂に入る時、いつも花やハーブを浮かべて入っている。俺が言い出したわけではなく、アントーニョがこうするとリラックス出来るからというので、続けていた。俺からリクエストをするようになったのは、最近のことだ。
「一緒に入ろか」
大人の男が一緒に風呂に入るなんてどうなんだろうと、未だに思う。しかし記憶をなくしてからこれも習慣化していて、きっと前からもそうだったんだろう。恥ずかしいとは思うが、困ったことにあまり嫌ではない。
「……仕方ねえな」
こうやって、お前が言うから仕方なくというポーズを取ることは大事だ。少なくとも、俺にとっては。



「俺には掃除の才能がない」
朝食のパンを口にしながら言うと、アントーニョはきょとんと目を丸めて何も言わなかった。お世辞でも否定されない辺り、この男の本音が垣間見える。
「だからもう掃除はしねえ」
「諦めんの早いなあ」
「この世には適材適所って言葉があるだろ」
最後の一口を頬張ってアントーニョを眺める。俺が掃除を諦めたことに怒りも、呆れもしておらず、そんなこともあるよなあといった様子で流されていた。始めからこうなることがわかっていたようにも見える。
こういうところを見ると、やはりアントーニョとは長い付き合いなのだろうと感じる。この男はおそらく、俺の性格や思考を熟知していて、俺が言おうとしていることもある程度は予測できているのだろう。どうせ掃除だって提案したが、すぐ俺がやらないと言い出すことも、最

小ネタ 西ロマ
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