1話

「若ー!…また、お逃げになって…」

じいが去っていく足音。うまく撒けたようだ。その背中がこちらの方を向くことはなく反対へと遠ざかっていく。ここでやっと一息つけた

太い幹の上を見上げると、夏の始まりを感じさせる若葉が生き生きと茂っている。しかもその中に白く細い足まで生やして

…ん?おかしいよな。木に足なんて生えるわけがない。見間違いかと思い、目を擦って再び木を見た。だがやはりある

見たところ子供ぐらいの大きさにしか見えないが弟はこのように細すぎることはないため、別人だと考えられる。しかしこの家に子供なんてわずかしかいない

「おーい。…木の上にいる君だよ。降りてきなよ」

恐る恐る小声で呼びかけてみる。ガサッと驚いたのか物音がした。が、返事はない。おそらく自分の家の小間使いの一人だろうと思っていたため、そのような態度をとられたことに驚いた

「感じ悪いなぁ。まあ俺も隠れてる身だから人のこと言えないけどね」 

あちらからの返事は無いためほぼ独り言で呟いたつもりだった。無視されることに不思議と苛立ちを感じなかったのだ。木陰でしか味わえない心地の良いそよ風にそっと目を閉じた

「ね、あれ、なに?」

「ん?…うぁぁっ!」

目を開くとそこには俺よりも小さくて木なんか上れるのかってくらいの女の子が鼻と鼻が触れ合うほど近くにいた。そりゃ悲鳴が出たってしょうがない

「あれ、なに?」

「あれって…ああ、雲のこと?」

指を指した先に見えたのは青空に浮かぶ白い雲だった。くも、雲と、何度も単語を繰り返す子供に(俺も子供だけど)異様な雰囲気を感じた。眉一つ動かさないその子に名前を尋ねようとしたとき

「若様!声が聞こえましたぞ!そこにいらっしゃいましたか…!」

さっきの大声で気づかれてしまった。じいが困り果てた様子で俺の腕を掴む。お前のせいだと睨みをきかせてやったが、当人はなんのその。ただプイッと俺の方から目をそむけやがった

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