*男夢主



(暇だな)

 くわりと欠伸を噛み殺す。僅かに開けた窓からは色味のない風と共に吹奏楽部の音色が入り込んできた。個人個人で練習をしているようで何の曲を演奏しているのかは音楽経験ゼロの俺にはさっぱり分からない。辛うじて楽器が判別できるくらいだ。因みに今はトランペットが鳴っている。
 すんと鼻を擽る本の匂いは嫌いではなかったが、残り三十分も黙ってカウンターに座っているのは正直面倒なところがあった。だが、本の貸し出し処理が図書委員の仕事なのだから仕方がない。もう一度欠伸を噛み殺した。
 図書室にいるのは俺のほかに男子生徒が一人と女子生徒が二人。背の高い本棚に隠れて姿は確認できないが、カウンターは出入口の近くに設置してあるから扉を開いた回数だけ利用者がいる。まだ出ていった生徒はいない。自然と利用者数は把握できるのだ。

(どうするかな)

ただ座っているだけなのは退屈だ。そう思ってポケットに閉まったスマホを取り出そうとすれば、扉が開き本を抱えた男子生徒がカウンターにやってくるのだからタイミングが悪い。掴んでいたスマホを戻して本を受け取り、表紙の下の方にあるバーコードにバーコードリーダーを当てた。ピッ、と軽快な音が正常に返却処理が終わったことを告げる。

「返却を確認しました。ありがとうございました」

形式的な挨拶を並べると男子生徒はそそくさと図書室を出ていった。更に本を借りるつもりはなかったらしい。返却されたのは最近映画化が決まったと言うサスペンス小説だった。主演が実力派の若手俳優で激しいアクションをスタントなしでこなすと芸能ニュースで見た覚えがある。機会があったら借りてみるか。背表紙を持って後ろの壁に埋め込まれた本棚に並べる。本を元の場所に戻すのは図書委員ではなく、図書部の生徒だ。彼らは月一で発行する図書だより作りに追われているらしい。奥にある司書室で女子が原稿を急かす声が聞こえた。
 ああ、暇だ。後どれくらいカウンターに座っていないといけないのだろうかと思って、腕時計を覗き込む。残り二十分。まだまだ先は長いと溜め息を吐こうとした矢先、目の前にどさっと置かれた本に瞑目した。そのまま顔を上げれば機嫌が悪いのか唇をへの字に結んだ女子生徒がひとり。俺が図書室に着くまでにすでにいたのだろう。扉を開けた女子生徒に見覚えはなかった。

(びびった)
「借りるわ」
「……あ、はい、学籍番号をお願いします」

 ブックスタンドに立てられた分厚いファイルを抜き出す。生徒にはそれぞれバーコードが設定してあり、それを読み込むことで処理を行う。昔は手書きで処理をしていたらしいが、科学が進歩した現在ではパソコンで管理した方がミスを防ぎやすい。
 彼女が言った番号を探してぱらぱらとファイルをめくる。クリアファイルに挟まれた白い紙には名前とバーコードがびっしりと並んでおり、名前を指でなぞってゆく。何枚かファイルをめくりようやく言われた番号を見つけた。バーコードリーダーを掴み、バーコードを読み込む。ピッ。パソコンに表示された貸し出しと返却の二択のボタンが表れ、マウスを使って貸し出しをクリックする。

(ひとつ下の学年か)

 高等部一年。名前ははっきりと見ていない。
 積み上がった本を手元に並べ次々とバーコードを読み込んでゆく。哲学に医療に言語。同世代が読むには随分と難しそうな本ばかりだ。こんなの読んで何が楽しいのだろう、と思いながら一冊にだけ返却期限を印字した紙の栞を挟み込み生徒に渡す。顔を上げて初めて気付いたが、ブレザー指定のはずのこの学校で女子生徒はセーラー服を着ていた。

「期限は二週間です」

 ぱっちりとした翡翠の瞳と真っ赤なカチューシャが印象的な女子生徒は無表情で軽く頷くと華奢な腕で本を抱え図書室を出ていった。横目で去っていく姿を追い、俺はパソコンと向かい合う。マウスを操作して表示させたのは貸し出し履歴。昼休みと放課後、今日一日の本の動きを確認することが出来る。図書委員のちょっとした特権だ。

(……リタ=モルディオ)

 小難しい本を借りていった女子生徒の名前。前にも何度か借りに来ているようだが、どれも面倒というか気が滅入りそうなタイトルばかりが並べられている。見ているだけでうんざりしてしまい早々にページを閉じた。カチカチとクリック音を響かせるのも忍びない。マウスから手を離してぼんやりと頬杖をつく。
 この学校は四階建てになっており、上から一年、二年、三年に教室が分けられている。特別教室があるのは別の棟だから、学校生活の中で他学年の階に向かうことは滅多にない。セーラー服なら登下校や玄関で見かけそうなものだが俺の記憶の中にはどこにも彼女の姿は見つからなかった。

(転校生か……?)

 新学期が始まって一か月は過ぎている。玄関近くに植えられた桜は若葉が芽吹き始めている。桃色の部分は本当に申し訳程度にしか残っていない。そんな時期に転校生などいるのだろうか。ましてや一年生で。

「あのー」

 誰かに呼びかけられて顔を上げると眼鏡をかけたいかにも文学少女な図書部員が俺を見下ろしていた。ぎしりと回転椅子を鳴らして身体ごと向き合う。あ……はい。気のない返事をしてしまっても特に気分を害さなかったようで彼女は眉を下げてふんわりと笑った。

「お疲れ様でした。後は部の方でカウンター処理を行いますので」
「あー……もう少し手伝いますよ」
「え?」
「図書だよりの製作終わってないんじゃないですか?」

 俺、このあと特に用事入ってないんで。
 ばたばたと司書室を駆け回る足音と忙しなく響き渡る声。目線でそこを示すと眼鏡の奥の瞳がぱちくりと瞬いた。暫くすると言葉の意味を理解してくれたようで困ったように交互に俺と司書室を見て頭を下げた。すみません助かります! 早口で述べた彼女は司書室に戻ってゆく。更に司書室は賑やかなものになった。
 やがてばらばらに聞こえていた楽器たちがひとつの曲を演奏し始める。合同練習を開始したらしい。それは今流行っているドラマの劇中歌だった。主旋律をトランペットが奏でている。知らない曲は子守唄にしかならないが、知っているなら話は別だ。退屈だった空間は途端に違う色をみせる。
 それでも今の状況が暇であることに変わりはない。新しく生徒が入ってくる様子もなく、図書室は相変わらず静寂に包まれていた。当たり前と言えば当たり前なのだが。壁に貼られた"図書館ではお静かに"という文字が嫌でも目に入る。椅子に背中を預けて細く息を吐く。

(暇だな)

 くわりと欠伸を零して今度こそ俺はポケットから携帯を引っ張り出した。


緩やかな春の終わり
(はらりほろりと舞い落ちる)

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