「かわいいね」
唐突に。そう、本当に前触れもなく、そんなことを言われたものだから、私はひどく驚いてしまった。ぽかんと口を開けたままの私とは裏腹に、水戸くんは自習プリントが真っ白のまま隣の席からこちらを余裕そうな表情でじっとこちらを見つめている。
な、なにがかわいいんだろう? まさか私……なんてことはないはずだし。彼と仲のいい赤木さんに言うならともかくも。困って視線を彷徨わせていると、ふいに先程まで使っていた春色ピンクのマーカーペンが目に入った。となれば答えはただ一つ。水戸くんはこのピンクのペンを「かわいい」と言ったのだ。
「そ、そうなの。私もお気に入りなんだ。このペン」
少し上ずった声の返事に水戸くんは瞬きを数回した後、なぜか大きく息を吐きだし、頬を掻いた。
「……七篠さんって、その色、持ってたっけ? 初めて見る気がする」
「最近バイト先で買ったんだよね。ほら、春だし。こういう色、欲しくなっちゃって」
「ああ、なるほど。確かに春だもんなァ」
納得したように頷く水戸くんの視線は教室の後方へ。つられてそちらを見れば、桜木くんが机に突っ伏していびきをかいている。気持ち良さそうに眠る姿に「春眠、暁を覚えず」なんて言葉が自然と浮かんできた。まあ、桜木くんの場合には春とか関係無く、いつもこんな調子だけど。
「プリント、大丈夫かな?」
彼の身体の下でくしゃくしゃになったプリントが目に入り、思わず訊いてしまう。多分、あれも真っ白だろうな、と不安になった。けれど水戸くんは「平気平気」と軽い調子で笑うばかり。
「いざとなったらオレたち二人とも七篠さんに見せてもらうからさ」
「今から水戸くんがやって、それを見せてあげればいいんじゃない?」
「そりゃ困る。だってオレ、ベンキョーなんて、ちっともわかんねーもん」
そんなことないくせに。なんだかんだ水戸くんの授業出席率は高いし、居眠り率も低い。――休み時間のあとに、いつの間にかいなくなっているときはあるけれど。
そう反論しようした矢先。声を出す前に、水戸くんは自分の机を持って私のほうに距離を詰めてきた。ガコンと音を立ててくっつけられた机。整髪料の独特なにおいが近くなる。つまりそれは水戸くんとの距離が近いというわけで。
「――やっぱり近くで見るともっとかわいいな」
もうその言葉に惑わされたりもしない。ちょっと驚きはしたけれど、すぐに落ち着いた。
「よかったら使ってみる?」
そう言って私はピンクのペンを水戸くんに差し出した。「その代わり、ちゃんとプリントやってね」と釘を刺すことも忘れない。彼は私とペンを交互に見て、苦笑しつつそれを受け取った。
「七篠さんが教えてくれるならやるよ」
「私が関係しててもしなくても、ちゃんとやったほうがいいよ? でないと水戸くん、留年しちゃうかも」
例えばほら。私を「七篠先輩」と呼ぶばなきゃいけなくなるとか。――どうしよう、似合わなさすぎて面白い。二年生に進級した私と、まだ一年生のままの水戸くん。かしこまって私に敬語を使う水戸くんは想像でも全然浮かんでこなくて。耐えきれずあげた笑い声は教室に溶けくれたおかげで、怪訝な表情を浮かべたのは器用に指先でピンクのペンを回す水戸くんだけだった。
***
あ、あのペンだ。
レジに出されたのは私が持つマーカーペンの色違い。小学生ぐらいの女の子が春色イエローのペンを私はレジに打つ。これもふんわり明るいイエローでかわいいんだよね。
私のバイト先である本屋には文具コーナーも併設されていて、ノートやボールペンなどの一般的な文房具の他に、こういった雑貨寄りの文具も置いてある。新発売のこのマーカーペンの売り上げは上々のようで、すでに今日も何本かをレジに通している。そして買うのはどれも女の子ばかり。
――でも水戸くんは「かわいい」って言ってたな。
レジに並んでいたお客さんも落ち着いたせいか、ぼんやりとそんなことを思ってしまう。
正直なところ、私は男女で「かわいい」の範囲って違うイメージがあったりする。クラスの男子はバイクやスニーカーを見て「かっこいい」って盛り上がるけれど、私にはあまりピンとこないのだ。バイクを見ても「バイクだなぁ」としか思えない。スニーカーはなんとなくわからなくもないけれど、やっぱりあそこまでは盛り上がれない。
だからちょっと意外だったのだ。水戸くんがあのペンを「かわいい」と言ったことに。だって彼はどちらかというとバイクやスニーカーで盛り上がるタイプの人だと思っていたから。
……これはもしかして先入観というヤツなのかも。「男の子はペンをかわいいとは感じるわけがない」みたいな。
なんとなくそれは腑に落ちるような気がした。でもそれは彼′ツ人を見ていなかったというわけでもあって。これは反省しなければ。水戸くんのことを「男の子」という大枠でしか捉えてなかったことは、水戸くんに本当に失礼だ。
でも言い訳をさせてもらうのならば。やっぱり私個人が抱くイメージの水戸くんが感じそうな「かわいい」に近いのは、こういう雑誌の表紙を飾るような水着の女の子なんだよなぁ――ってあれ?
「水戸くんだ」
「……は? マジ?」
噂をすればなんとやら。まさか本を買いに来た水戸くんとこうしてばったり出会うなんて。
思わずレジに置かれた水着の女の子が表紙を飾る雑誌と目の前にいる彼を交互に見てしまう。すると彼は珍しく慌てたように「こ、これはアイツらが買ってこいってうるさくて! 仕方ねーモンだからさ!」と言い訳をしはじめた。
確かにクラスメイトの、しかも女子にこういった雑誌を買っているところ見られるの恥ずかしいよね。「アイツら」っていうのはいつも一緒にいる桜木軍団≠フみなさんだろうか。確かにこういう雑誌好きそうだ。
未だに青くなったり赤くなったりする水戸くんは見ていてちょっと面白い。でもずっと眺めているわけにもいかない。レジを彼一人で埋めているわけにもいかないからだ。
「誤魔化さなくてもいいよ。かわいいもんね、この子」
目がぱっちり二重で、小さいくちびる。スタイルのいい女の子は私から見てもとてもかわいい。
「200円です。あ、一応、紙袋に入れておく?」
「……いーよ。そのまんまで」
水戸くんは諦めたのか百円玉を二枚渡してきた。なのでお返しはレシートのみ。感熱紙で作られた薄い紙を差し出すが、彼はなかなか受け取らない。代わりにぼそっと呟いた。
「かわいいとは思うけど」
「?」
「好みではねーよ」
「違い、あるの?」
「あるよ」
わかんなくていーよ。まだ。七篠さんはさ。
ぶっきらぼうな口調のまま、水戸くんは私からレシートを奪った。自動ドアに向かうその背中を思わず目で追いかけるけれど、彼は振り向きもせずに出て行ってしまった。
――かわいいとは思うけれど、好みではない。そこにどんな違いがあるんだろう。プリントより難しい問題かも。
その日のバイトの終わり、たまたまバックヤードで一緒になった大学生の先輩に「どういう意味かわかりますか?」と尋ねてみた。すると彼女は「好きになる子はまた別ってことデショ。つまり好きなタイプとは違うんだって言いたいんじゃない?」と意味深ににんまり口元を緩めた。
レジ遭遇事件(なお私命名)から水戸くんとはよくバイト先でも会うようになった。でもあれから彼が買うのはバイクの雑誌とか週刊少年マンガばかり。やっぱり恥ずかしかったんだろうなぁ。知りあいの、しかもクラスメイトの女子に見られたのはだいぶダメージありそう。
その日も水戸くんはやってきた。いつもと違ってだいぶ遅い時間に。ちょうど本の整理をしていた私を見て、彼はぎょっと目を丸くし、固まる。「こんばんは、水戸くん」と私が声をかけ、ようやく彼は動き出した。眉根を寄せ、不機嫌そうな表情と共に近づいてくる。
「なんでこんな遅い時間までバイトしてんだよ」
「今日は新刊の入荷多くて、手伝ってたの」
「もう九時になるのに?」
「うん。だからもうこれであがる予定」
「なら待ってっから」
私の返事を聞く前に水戸くんは「家まで送る」とだけ告げて、早足のまま外に出て行ってしまった。
となれば彼を待たせるわけにはいかない。春になったとはいえ、日が落ちれば肌寒い。なんとなく、水戸くんに寒いところにいてほしくなくて、急いで残った整理を終わらせる。その勢いのまま店長に報告し、バックヤードに戻る。私史上、最速で。
「お待たせ!」
「そんなに待ってねーって。つーか、急がせたよな、逆に」
確かにバタバタしながらタイムカードを押したけれども。でも家まで送ってくれるって言ってくれた人を待たせてはいられない。乱れた髪を手櫛で整え、大きく息をはく。
「大丈夫!」
「はは、そっか。――帰ろーぜ」
「うん」
二人で並んで一緒に歩きはじめる。隣に水戸くんがいる。それは普段の教室と同じ状況はずなのに、なんだか違和感。ちょっと緊張するような。そんな感じがずっと背中を駆けている。
「そういえば、今日はキャップ被っているんだね」
珍しく、ブランドっぽいロゴが刺繍されたスポーツキャップを被っている。普段の彼からはピンと来ない姿だ。あ、もしかして。
「今日はリーゼントじゃないの? 髪、おろしてる?」
「……まーね。でも七篠さんに会うってわかってたら、グリース落とさなかったつーの。マジで予想外すぎたぜ」
「そうなの? キャップも似合ってるのに」
「そりゃどーも」
ふて腐れ、くちびるを尖らせる横顔が目に映る。子供っぽい表情を見ていると、ふいに生まれた感情があった。隙間から垣間見えるさらさらと流れる前髪と、涼やかな目元とのギャップ。それらを前にしたら、止める間なんて無くて。
「水戸くん、かわいいね」
「……は?」
「今の水戸くん、とってもかわいい」
唐突に。そう、本当に前触れもなく、そんなことを言ってしまったせいか、水戸くんはぽかんと口を開けたまま歩みを止めた。つられて私も立ち止まる。そんな表情もかわいくて、また同じように「かわいいね」と言ってしまう。
「……かわいいのは七篠さんだろ」
「へ?」
「つーかオレとしてはかわいい≠謔閾かっこいい≠フほうが、七篠さんからは聞きてーんだけど」
「ど、どういう意味――わっ」
急に視界が暗くなる。気づけば水戸くんの頭にあったキャップは私の頭に移動していた。
ぶかぶかなそれは視界を遮ってしまう。ツバを挙げようとした手は彼に取られ、阻止されてしまった。手を繋いだまま水戸くんは歩き出す。
てのひらから伝わる水戸くんの体温。そして私に合わせてくれる歩調。だんだん心臓がうるさくなる。なんだかそれらが全部悔しくて。
――かっこいい水戸くんが見たいからキャップ返していい? なんて訊いたら、どういう反応をするだろうか。
息を吸って、それをごくんと飲み下す。
まあ、もう少しこのままでもいいかな。いくら夜の暗がりがあったとしても、せめて顔の熱が引くまでは私もこのまま彼のキャップを預かっていたほうが良さそうだから。