※名前変換無し
じゃあ日直の二人、頼むな。
そんな担任の一言であっという間に、しかも反論の余地もなくプールの掃除当番が私と水戸くんに決まってしまった。帰りのホームルーム終了直後に言われたせいもあって状況の飲み込めずぽかんとする私の肩を友人たちが次々に叩いてくる。「どんまい」「今日は来られないって部長には伝えておくから」なんて無情な一言を添えて。どちらかというと、手伝う? の一言が欲しかったんですけど!?
我に返ったころには、クラスを出て行く友人たちの背中しか無かった。
同じく当番にされてしまった水戸くんを縋るように見れば、彼は肩を竦め「ま、がんばろーぜ」と困ったように笑った。
これから始まるプール授業のため、放課後で各クラス順番に掃除をしている。よくある話。私だって小学校や中学校でも同じように掃除をしてきた。決して初めてのことじゃない。だって専門の業者を入れて清掃するなんてこと公立高校ではあり得ないから。
そんな学校側の事情はともかく、湘北高校は例に漏れず生徒たちがプール掃除をしなくてはならない。そしてついに私たちのクラスにも当番が回ってきたようだ。使命されたのは日直だった私と水戸くんの二人。改めて掃除希望者を募ったところで手を挙げる人なんてなかなかいないだろうから、わかりやすく日直が選ばれるのは理解できるけれど――
「二人だけで掃除は無理だって」
ツンと鼻につく塩素の匂い。
デッキブラシでプールの床を擦りながら、もれるため息を隠すつもりは起きない。何度目かわからない文句に水戸くんは「まあまあ」と私をなだめていた。そんな彼は蛇口を開けるためにプールサイドにあがっている。キュッと音が聞こえてしばらくすると放ってあるホースから水があふれ、跳ねた水しぶきがわずかにこちらへ飛んでくる。暑いから冷たい水が気持ちいい。それに体育着に着替えているから濡れても大丈夫。
つい掃除する手が止めて足先で水を踏んだ。ぱしゃしゃと冷たい水で遊んでいれば「代わるよ」と水戸くんにブラシを奪われる。
「プールサイドの草むしりより、こっちのがマシそうだけどね。さっき見てきたけど、すげー草生えてた」
「それはそうかも。……いや騙されない! どっちも大変!」
「あはは、そりゃそーだ!」
「……ねぇ、そういえばいつもの人たちは? 来ないの?」
きょろきょろとあたりを見回すが私たち以外に生徒の姿はなく、誰か来る様子も無い。
水戸くんは「ああ」と察したようだった。
「戦力として期待しているところ悪いけど、あいつらはパチ――じゃなくて、ちょっと用事があって。残念ながら来ねーよ」
しっかりバレてる。いつも水戸くんの周りにいる桜木くんを初めとした目立つ彼らなら、きっとこういうとき遊びに来て、なんだかんだ掃除を手伝ってくれると思っていたのに。
……でもそれって彼らに対して失礼な話だな。最初から人の厚意に期待して、甘えてしまうのはいけない。
改めて考えればなんて身勝手な考えだろう。水戸くんも友達をそんな風に扱われていい気持ちにはならないはずだ。
「ごめんなさい。正直、期待していました」
正直に謝って頭を下げれば、彼は特に気にした様子もなかった。
「いいって。それにきっと来たところでどうせ手伝わねーから、あいつら。オレをからかってオワリ」
「やっぱり面倒だから?」
「んー、それもあるけど」
水戸くんは私に視線を向けた。首を傾げていると、彼は咳払いを一つ。頬を掻かきながら笑う。
「ま、理由はいろいろかな」
プール掃除は16時まで。そもそも掃除が完了するわけがないのだ。時間になれば体育の先生が「ちゃんとやっていたかどうか」のチェックしに来て、掃除は終わりになる予定だ。
でもなかなかその先生がやってこない。そういえば今日は職員会議だったかも。とことん私たちはついていない。
夏が近いとはいえ、この時間になればさすがに冷えてきた。半袖の体操着とブルマを着ているから余計に。
塩素の匂いを運ぶように吹いた風を肌に受け、思わず身体が震える。つい腕をさすっていると水戸くんが「寒い?」と尋ねてきた。
「少しだけ」
「水も使ったし、そりゃ冷えるよな」
水戸くんは少し考える素振りを見せると「ちょっと待ってて」と言い残し、男子更衣室の中に入っていってしまった。すぐに出てきたその手には長袖の体操着がくしゃっと握られている。
「今日、たまたま持っててさ。よかったら着て」
「え、いいの?」
「もちろん。でも汗臭くても勘弁な!」
借りる立場でそんなことは言えない。
お言葉に甘え、体操着を受け取り、袖を通す。独特な整髪料のにおいがそこにはあって、少しドキリとする。なんだか水戸くんがすごく近くにいるような気がしてしまった。
水戸くんの体育着は私の想像よりずっと大きかった。袖は手のひらの半分ほど隠されてしまうし、なによりぶかぶか。丈もいつも着ている私のものよりも長いし、身幅にもたっぷり余裕がある。
——これはちゃんと男の子≠フサイズだ。
クラスではいつも桜木くんと一緒にいるせいもあって、水戸くんはどうにも小柄に見えていた。実際、私とそこまで目線の違いも無いと思う。
でも水戸くんは確かに男の子≠ネのだ。そもそもの身体つきが私とは全く違う。腕の太さも、身体の厚みも、なにもかも。
なんだか無性に恥ずかしくなってちらりと彼の様子を窺ってしまう。
「み、水戸くん?」
水戸くんはじっと私を見ていた。その瞳の奥に確かな熱を感じる、そんな眼差しが向けられていた。他でもない私に。
注がれる熱のせいか、どんどん鼓動がうるさくなって耳の奥で鳴り響く。それを振り払うように思わず声をかけてしまった。
名を呼ばれた彼はハッと目を瞬かせる。その表情になぜか胸が締めつけられた。
うまく呼吸ができない。
「……オレ、誰か呼んでくるわ。待ってて」
「う、うん」
そう言うと水戸くんはあっという間に駆けだしてしまった。
コンクリートのプールサイドを走ったら危ない、と注意する間も無く、彼の背中は遠くなる。
残されたのは私と私が着る水戸くんの体育着のみ。
途端に力が抜けていく。立っていられなくなってしゃがみこむと、膝に当たった頬がすごく熱くなっていた。そんなことにいままで気づかなかった。
――このあとどんな顔して水戸くんに会えばいいのだろう。
プール掃除の思い出が水戸くんの整髪料のにおいに上塗りされていく。
塩素の匂いはどこかに消えてしまった。