「あ、やべ」
大楠の焦った声を拾ったのは水戸だった。
花道の二万本にも及ぶシュート合宿。その手伝いを桜木軍団全員で手伝っているそんなある日のこと。水戸はボール拾いの手を止め、大楠の元に向かう。
「どうした」
「テープの予備、買ってくんの忘れたみてーだ」
「マジか」
白いビニール袋を二人で漁る。大楠の言葉通り、袋の中にあったのは買い足した自分たちの宿泊グッズとおやつ代わりにと用意したショートブレッドの簡易食料のみだった。
思わず顔を見合わせる。お互いの目でお互いに「オメー、確認しなかったのかよ」と訴えた。買い物カゴを持っていたのは水戸、支払いをしたのは大楠だったからだ。でも商品を調達してきたのは高宮と野間だったな、と思い直す。よし、あいつらのせいにしよう。
とはいえ無いものは無い。袋をひっくり返したところでビデオテープは底からも落ちてこない。
水戸は細く息を吐きながら花道のシュートフォームを撮る高宮の隣へ行き、彼の手にあるビデオカメラを覗き込んだ。
テープの残量はあまり芳しくないように思える。
「これが最後のテープだよな」
「おうよ。あと1時間ちょいってところだな。そろそろ交換しねーと」
「ん、りょーかい」
どうだ? と視線を向ける大楠の元に戻りながら、首を横に振る。
途端に渋い顔を浮べるその横で水戸もガシガシと頭を掻いた。
「あそこのコンビニに売ってるっけ」
「わかんねーけど、多分売ってないだろ」
湘北高校に最も近いコンビニは、コンビニとは名ばかりの個人経営の小規模な商店だ。高校の近くにあるだけあって飲食物や日用雑貨は豊富にある。しかし、その中にビデオテープがあるとは思えない。
かといって数駅先の電化製品店に行くには時間が無い。水戸の原付バイクを飛ばしても、ギリギリ1時間で往復が間に合うかどうかといったあたり。
「とりあえずオレが買いに行ってくるわ。間に合わなかったら休憩になるだろうから、あいつらにも伝えておいてくれ」
「おう。任されたぜ。テープ頼むな」
「りょーかい」
水戸は放っておいた荷物の中から原付バイクの鍵を取り出し、小走りで体育館をあとにする。ちらりと花道のほうを見やれば、彼はシュート練習に集中しており、こちらのトラブルには気づいていないようだった。ほっと胸を撫で下ろす。こういった煩わしさを花道には隠しておきたかったからだ。
さて、練習を頑張る友人のためにも早くビデオテープを買いにいかなければ。
水戸は教師たちから隠している原付バイクの元に向かう。その途中、ふいに昇降口に視界に入った。――その横、重いカーテンで閉じられている窓も同時に。
水戸の足が止まる。数回ほど瞬きを繰り返し、彼は細く息を吐き出した。
そして彼はバイクではなく、代わりに校舎内へと入っていく。適当に外靴を脱ぎ散らし、真っ直ぐその部屋に向かって行った。
校舎はシンと静まりかえっている。休み期間中に校舎にいるのは受験を控えた三年生と部活動の生徒だけだろう。遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
目的のドアの前には「放送室」と書かれたプレートが下げられ、小窓にはレースのカーテンがかかっている。明かりが漏れているところから、人がいることが窺えた。
水戸は軽く服の皺を伸ばし、前髪を整えるようになでつける。そしてドアを数回ノック。彼女がいることを期待して。
「はい」
くぐもる聞き慣れた声に水戸の心臓が跳ねる。すぐにガチャリとドアが開き、女子生徒が現れた。彼女は水戸の姿がそこにあるのが信じられないかのように、ぱちくりと瞬きをし「驚いた」と呟く。
「てっきり先生だと思ったの。水戸くんがいてびっくりしちゃった」
「オレは安心したよ。七篠さんがいてくれて」
「サボりは匿えないよ?」
「ひでーな。オレのイメージそれ?」
「あれ? 違うの?」
「今回はそんなんじゃねーって」
苦笑する水戸に梢は首を傾げる。部活に入っていない彼が夏期休暇に来るとしたら、授業の補習を受けに来ているのだと思ったからだ。水戸が先のテストで赤点を取っているのを知っているから、余計に。
じゃあどうしたの? と尋ねれば水戸は申し訳なさそうに「あのさ……」と切り出した。
「ビデオテープってもらえたりしない?」
「テープ?」
「実は今、花道のシュート練習に付き合っていてさ」
それだけで梢は察した。水戸が――おそらく桜木軍団の全員で――花道のシュート練習のフォームを撮影しているのだと。
「本当はオレたちでテープの用意する予定だったんだけど、買い忘れちまって。あと1時間で切れちゃうんだ。買いに行くにしろ、原チャかっ飛ばしてもさ……」
「ギリギリになりそう」
「そういうこと。だからってワケじゃないんだけど」
わけてもらえると助かる、その言葉を聞く前に梢は放送室の中に戻っていった。
取り残された水戸が待っていたのは数秒程度。すぐに彼女は帰ってきて、その手には数本のビデオテープが握られている。
「規格があうといいんだけど……」
「あ、うん。それは大丈夫そうかな」
「本当? なら全部持って行って」
水戸は差し出されたビデオテープを受け取った。ビデオテープは全てフィルムがかかっていて新品そのもの。それを何本も梢は惜しげも無く渡してくれた。
「ありがとね。ちゃんとあとで買い直して、返すから」
「まだまだいっぱいあるから大丈夫! あ、うちのビデオカメラも持ってく?」
いたずらっこのように笑う梢に水戸もつられてクスリと口元がゆるむ。
「これでじゅーぶん。……あのさ、ねだったオレから言うのもおかしいけど、本当にもらっていいの?」
いくらたくさんあるといっても放送部の備品に変わりは無い。しかも梢はまだ一年生だ。三年生や部長といった決定権のある立場ではない。勝手に自分へ渡してしまっていいのだろうか。そんな不安が水戸の頭を過ぎった。
梢も彼のその不安に気づいたのだろう。「ほんとはダメなんだけどさ」と肩を竦めた。
「でもなんか、楽しいなって」
「楽しい?」
言葉の理解が一瞬、遅れる。
「うん。こっそり悪いことしちゃうの、楽しいなって」
「…………」
「あ! バレたときは水戸くんも先輩に怒られてね? 私と一緒に悪いことしているんだから」
梢の表情に、声に、水戸の心臓がやけに大きく反応していた。だから頷くのが精一杯だった。油断すればすぐさま「かわいい」と口走ってしまいそうになるほどに、水戸はぐらぐらと感情が揺さぶられていた。
ビデオテープをこっそりと私用に使う。そんな些細なことを悪いこと≠セなんて、彼女は言うのだ。結局、返すのに。このあと水戸はテープを体育館に届けたあと、その足で電化製品店に行って、同じビデオテープを買い行くつもりだった。使われたビデオテープはそのままそっくり、今日中に補充される。きっと彼女の先輩にはバレることがなく全てのことは済む。
少なくとも水戸にとって、その行為は悪いこと≠ノもカウントできないレベルだった。
でも梢は言った。悪いことを水戸と一緒にしていると。
水戸にとって梢は普通の女の子。どちらかといえば真面目な、ちゃんとした生徒。そんな女の子が些細な悪いこと≠楽しいと笑っている。次第に甘やかな欲望がそわりと首をもたげる。
「……オレのせい?」
悪いことをしちゃったのはオレのせい?
梢はその問いを受け、きらりと瞳を輝かせたかと思うと、ほんのりと頬をそめる。
「そうかも。水戸くんのせいで、私、悪い子になっちゃった!」
彼女にとってなんてことのない返答の言葉。
でも水戸にとっては違った。ぐつぐつと煮えたぎるような感情が腹の奥から広がり、全身をめぐる。口の中が異様に乾いていく。なのにごくりと喉が鳴る。くらりと熱に酔うようだった。
オレのせいで七篠さんは――梢ちゃんは悪い子になっちゃったんだ。
口の中で転がした言葉はとても甘い味がした。胸焼けするほどに。
水戸はごくりとその甘さを飲み込んで、なんとか感謝の言葉を再度口にした。声がわずかに震えていたことを幸運なことに梢は気づいていない。
体育館に戻る彼の背中に梢は声をかける。「水戸くんも頑張ってね!」と。
すっかり夕暮れになっても体育館にはボールの音が響いていた。時折「だーっ!」と悔しがる声も。
その声が花道のものだと知っている梢は息を弾ませながら、開けっぱなしの入り口を覗いた。
「おっと」
「わっ」
ちょうどそこから出ようとしていた水戸とばったりと会う。ぶつかりそうになった身体を寸で止めた水戸の手には茶色のビニール袋が握られていた。
「ごめん。ちょうど今、放送室行こうと思っていて」
「ううん。私の方が先に帰るだろうから声だけかけようかなって」
催促になったようでごめんね、と表情を落ち込ませる梢に水戸は「こっちこそごめん。遅くなって」と慌てて首を振る。二人は花道の邪魔にならないように入り口から離れた。花道自身は二人がそこで話をすることを気にしなくとも、水戸と梢が気になるのだ。
「渡しちゃって大丈夫?」
「うん、もらうね。明日も部活に来るの私だけだし」
コンクールの編集が終わらなくて、と梢はビニール袋を受け取りながら言う。
「じゃあ怒られなくてすみそう?」
梢はこくりと頷いた。
二人で共に犯した悪いこと≠ヘどうやら誰にもバレずに終わるらしい。
それがなんとなく残念に思うのは水戸だけだ。自分のせいで悪い子になった梢がいるのに。もう終わりだなんて。
なんだかそれが水戸にはすごく残念で、もったいなくて、たまらなかった。手放したくないと思うほどには、とても。
「……梢ちゃん」
「!」
初めて彼女の名前を呼んだ。梢は目を丸くし、頬に赤みが帯びる。
その変化にも水戸はもちろん気づいていて。嬉しさがこみあげる。かわいいね、と小さく呟いた声も彼女にはきちんと届いていたのだろう。わかりやすく瞳を揺らしている。
「み、水戸くん」
「ねえ、梢ちゃん」
焦った声もかわいらしい。だからわざとらしく再び名前を呼んだ。するりと距離を詰めると、梢と水戸の間に挟まったビニール袋が身体に当たり、うるさく存在を主張する。それ以上近づくな、と言わんばかりに。もちろんそんなものは無視をする。
「責任、とるね」
内緒話をするように、こそりと囁いた。赤く染まったやわらかそうな耳朶のそばで。吐息を含ませながら。
「梢ちゃんが悪い子になった責任、オレがちゃんと取るね」
だからオレとまた悪いことしちゃおっか。
肩を揺らすその様子につい喉が鳴る。だからつい続けて言ってしまったのだ。
「かわいいね、梢ちゃん」と。甘やかな声を響かせて。