事件だ、これは。
それは私が事の惨状を見て、最初に浮かんだ言葉だった。



休日の朝、まだ半分頭が寝ているところにかかってきた一本の電話。端末の画面を見れば、恋人の名前が表示されている。こんな朝にどうしたのだろう。特に今日はデートの予定もなかったはずだけれど、と考えながら画面をタップ。

「もしもし? どうしたんですかワタルさん」
「休日の朝にすまない。……助けてくれないか」
「え」

助けてくれないか? ワタルさんが、私に助けを?
すぐさま脳は覚醒し、勢いよく肯定の返事をすれば電話先の彼は苦笑気味に「なるべく動きやすい格好で来てくれ」と告げて、電話を切った。ワタルさんに頼られたという事実が私を活気づける。

動きやすい格好――というと、なにかポケモン関連だろうか。ワタルさんの手持ちはほとんどがドラゴンタイプで、大型のポケモンばかり。そのため、私はほとんどお世話することができない。たまにチルタリスの羽毛をブラッシングしてあげるぐらいだ。
そんなことはワタルさんだって承知済み。なのに、わざわざ『動きやすい格好』という指示を出したということは彼の手持ち関連ではないということで――だめだ。考えたところであの人の思考回路は読めない。そういうものだと、もう彼と過ごした月日の中でわかっている。
とりあえず、私にできることはただ一つ。クローゼットから『動きやすい格好』を引っ張りだすところから始るとしよう。



指定場所は彼の独り暮らし用の住まいだった。そこそこお高いマンションで、広い間取りの角部屋。「屋敷にばかりいると肩が凝るんだ」「おれもいい大人だから、独りで生活すべきだと思って」なんて理由をつけて用意したお部屋らしいけれど、ほぼ寝に帰るだけになっていることは知っている。勿体ないと一般庶民の私は思ってしまうけれど「一族の持ち家だから別に」と言われてしまった。

そのせいか、彼の部屋はすごく殺風景だ。ワタルさんの性格も相まっているのだろう。広いお部屋だというのに、必要最低限の家具とポケモン関連のアイテムしか置いていない。唯一、寝室にだけは生活の色がある。それを見て安心したことは、一生忘れることはできない。でも「よかった、この人もちゃんと寝るんだ」なんて恋人の寝室へ抱く感想じゃない。
そういうこともあり、彼の部屋は本当にシンプルでモデルルームのようだった。

そのモデルルームが、今、めちゃくちゃに散らかされている。いや、散らかるものがそもそも無いのだけれど、雑になっているというか、なんというか。部屋の中に漂う空気が、慌ただしく感じた。現にカーテンはよれているし、ポケモンの道具たちも雑に放られている。特に目を引くのは床に転がっているポケモンフーズの袋だ。テーブルの上に置かれた外側の大袋は引き裂かれ、倒れている。その口から小袋が、目の前でまた落ちた。一食分が小分けにされているものだから、中身が散らばっているわけではないのが救いだろうか。

「ワタルさん……? いますか?」

なにがあったのだろう。強盗? でもワタルさん相手ならば、返り討ちになるだろうし。混乱が極めている中、突如、風が吹いた。同時にふくらはぎあたりに衝撃。思わずよろけたが、なんとか耐えて足元に視線を移す。

「……イーブイ?」

名を呼ばれたと思ったその子はきらきらと輝く瞳で私を見上げる。にこにこと笑みを作るイーブイはまだ小さくて、毛並みもふわふわとしている。生まれたてなのかもしれない。

「チクマ! その子を捕まえてくれ!」
「は、はい!」

飛んできたワタルさんの鋭い声に身体が反射的に動く。イーブイを両手で掴めば、その子はばたばたと足を動かした。嫌がっているのではなく、ありあまる勢いを持て余しているように見えた。動き続けるイーブイは手の中から飛び出しかけるほどに身体を動かす。申し訳なさもありながら押さえ込むように抱きしめれば、ようやくその子は落ち着いた。――というより、

「寝てる?」
「エネルギーが切れたんだろう。朝から食事もとらず、動き回っていたから」

はあ、と息をつくワタルさんは髪のセットさえままならなかったらしく、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。しかし、すぐにはらりと落ちてくる。眉根を顰めるその姿にちょっとときめいたのは内緒だ。ルームウェアのままなのも、いつものこの人らしくなくて新鮮さがある。なんとなく、寝起きをこの子に突撃されたのかな、と察することが出来た。

「それにしてもイーブイだなんて……あっ、もしかして新しい進化が発見されたんですか!? それがドラゴンタイプなんですね!」
「なるほど、面白い着眼点だ。しかし残念。それは違う」

ワタルさんは優しい手つきですやすやと眠るイーブイの頭を撫でる。
なんでもエンジュシティの舞妓さんの元でイーブイのベビーラッシュがあったのだという。たくさん生まれたイーブイたちはそれぞれ里親を募集しているとのこと。しかし、生まれたてのポケモンはトレーナーに負担が大きい。ポケモンは人慣れしていないし、トレーナーは持て余してしまう。だからお互いにトライアル期間が必要になる。ポケモンは手練れのトレーナーの元で人慣れを、トレーナーは数回の講習を受ける。

「その手練れのトレーナーに選ばれたってことですか? ワタルさんが?」

たしかに彼は手練れのトレーナーであることに違いない。手練れどころか、セキエイチャンピオンなのだから。けれど、こういうのはそれを専門にするトレーナーだったり、今回であれば『ノーマルポケモン』のエキスパートが選ばれるのだけれど。その問いさえも彼は承知済みだったのだろう。肩を竦め、言った。

「エンジュに用事があった、そのときにね。あとアカネくんは手一杯で」

なるほど、つまり幸か不幸かタイミングがいろいろ重なったということか。
それにワタルさんも面倒見がいいから引き受けたのだろう。そうしてやってきたのが、この子。もしかしたらとりわけ元気がいいのも、彼の元へやってきた理由の一つかもしれない。

「しかし、気軽に引き受けてはいけないな」
「ふふ、ワタルさんはドラゴンタイプ専門ですもんねぇ」

昨夜は眠っていたから気づかなかったけれど本当に元気な子で、朝は腹部への突撃から始まり、食事を与えようにも部屋中を駆け回り落ち着いてくれない。小さくてすばしこい、加えて生まれたてということから、彼の手持ちで捕まえるわけにもいかない。ドラゴンタイプならお手の物だったのに、ノーマルタイプでは加減もわからない。最終的に自分ひとりではどうにもならないことに気づいて、ワタルさんは私へ助けを求めてきたのだという。話を聞いて『動きやすい格好』というのも合点がいった。この子じゃ確かに『動きやすい格好』は必須だろう。

「しかし助かったよ。おれじゃ後を追うので必死だったから」

困った表情はすやすやと眠るイーブイへ向けられる。ふわふわの毛並み、無垢な表情。ふんわりまるくて愛らしいこの子が、ワタルさんの手を焼いたというのがなんともいえない。ワタルさんを困らせた、その一点だけで私にとってこの子は尊敬に値する。

「とりあえずワタルさん、着替えてきます? この子、私が見ているので」

私の言葉を聞いて、彼ははたと自分の格好に気づいたのだろう。気まずそうに顔を背けた。初めて見る姿じゃあるまいし、何を恥ずかしがっているのだか。

「恋人の前では格好つけたいという男心をチクマはわかっていないな」
「多少、抜けた姿も好きだってことですよ」

ニヤリと笑えば、彼はホールドアップの姿勢を取る。
きみには適わないな、と着替えのため寝室に消える背中を見送った。


***


「イーブイ、ご飯だよ」

あれから数週間、私はほぼ毎日ワタルさんのマンションへお邪魔している。
イーブイは元気でいつも部屋中を駆け回っていたけれど、コツさえ掴めばその姿を捉えることは簡単だった。一方、ワタルさんはどうしてもダメだったらしく、渋い顔をしながら私の指示に従っている。なんとなくワタルさんより上手になれて嬉しかったのは内緒だ。いつも意地悪されてばかりだから。

そんな日々も今日で終わり。イーブイは充分人慣れしただろうし、トレーナーのほうも講習を終えたという。長いようで短い騒がしくて穏やか毎日が終わってしまうのは、少し寂しいだなんて。彼の家へ行って、食事を取って、たまにお泊まりして――そんな甘やかな日々の理由がなくなるのは寂しい。
いや、イーブイを言い訳にするのはよそう。「一緒に住みたい/住みませんか?」と伝えればすむだけなのだ。一歩を踏み出せない私がいけない。

イーブイは私の声を聞いて一目散にやってくる。カイリューたちともすっかり仲良くなった。ワタルさんとは違い、彼らはこの子と相性がよかったのだろう。大型ポケモンに囲まれる小型ポケモンは見ていて愛らしい。イーブイの頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めた。うん、とてもかわいい。

「きみも食事にしよう。用意したから」

かけられた声に返事をしながら、もう一度頭を撫でて立ち上がる。食卓には夕食が並んでいた。美味しそうなそれらに、頬が緩む。ワタルさんのお手製の料理の数々に目が輝いた。

「イーブイと同じ目をしているぞ」
「だって、ワタルさんのご飯好きですもん!」
「ほう、食事だけとは悲しいな」
「……わかっているくせに」
「何のことやら。さあ、冷めないうちに食べてくれ」

向かいに座り、いただきますと手を合わせ、箸を取った。澄んだお吸い物は上品な出汁の香りが広がる。次に小鉢に盛られている、ほうれん草の白和えを一口食べる。優しい甘みが美味しい。そもそも、ワタルさんの丁寧なご飯はなんでも美味しい。ぱくぱく食べていると彼は笑いを漏らしながら言う。

「……作りがいがあるよ。本当に」
「えへへ」

ふと、ワタルさんの箸が進んでいないことに気づく。「ワタルさん?」と尋ねれば、彼はやわらかい笑みを深めるだけだった。その瞳はすごく優しくて温かくて、胸の奥がとくんと響く。

「なあ、」
「はい」
「一緒に住まないか、おれたち」
「…………」
「最近、ずっと思っていたんだ。チクマと朝も夜も一緒にいたいと」

だめかな? と首を傾げるワタルさんは、私の口にする答えをもう知っているのだろう。飾りばかりの問いに、私はくちびるを尖らせる。

「……わかっているくせに」
「ああ、もちろん」

甘い色を纏った心地のいい声。大好きな人の大好きな声。誘うようなそれに、私は答えを言いかけて――

「わっ!」

イーブイが私の胸元へ飛びついてきた。にこにこ顔のその子は空っぽになったエサの器を持っている。つまりおかわりの催促。いろいろなことが一気にありすぎて、混乱する。なにからすればいいんだっけ。ワタルさんへの答え? その前にイーブイのおかわり?

ぐるぐると目を回す私の腕の中から、イーブイを引き取ったのはワタルさんだ。立ち上がりかける私を制し、「おれが用意するよ」と動き出す。

「きみは先ほどの答えを考えておいてくれ。答えがわかっているとしても、チクマの言葉で聞きたい」

……ならお望み通り、素晴らしい言葉で答えてあげましょうか。
しかし、残念ならワタルさんの言葉は予想以上に私にとって嬉しかったらしく、月並みの「一緒に住みたいです」としか返せなかった。それさえも、彼はお見通しだったらしく――余裕綽々な笑みで私の言葉を聞いたのだった。


明日の続き
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