※ワタルさんに特殊設定有り
フスベには古い家屋が多い。その中でもとりわけ、歴史を感じさせる大きなお屋敷がある。その屋敷の長い廊下を、わたしは歩いていた。白髪を結い上げて背筋をまっすぐ伸ばした和装の女中頭さんに案内され、進む。ここには門下生含め、多くの人が出入りしているはずなのに、なかなか人と会わない。しかし、すぐさま思いなおす。先ほどくぐった扉からこちら側は本家と分家の人間しか入れない区画なのだ。人が少ないのも当たり前。外の人間で入れるのはごくわずか。――だから、ここの空気は何度来ても慣れない。張り詰めた緊張感の漂う空気。肌を刺すそれに、痛みさえ錯覚するほど。もうすでに表の空気が恋しい。
「こちらでございます」
そう言って女中頭さんはようやく歩みを止めた。自然な動作で廊下へ正座し、視線を投げてくる。その意図に気づき、慌ててわたしも同様の動きをした。足に廊下の冷たさが伝わる。つい顔をしかめるわたしとは正反対に表情を変えず、女中頭さんは障子の向こう側へ「チクマさまをお連れしました」と声をかけた。すぐさま「入りなさい」との返事。
「承知いたしました。――チクマさま、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
音が一切立たぬまま障子が開かれ、中へ入るように促される。頭の中で、和室に入るときのマナーを思い出しながら「失礼いたします」と頭を下げ、足を踏み入れる。とりあえず彼≠フ隣へ座っておけばいいだろうと考えて、その隣へ正座した。障子がまた、音なく閉じられる。
残されたのは三人。わたしと、フスベの長老さまたるご当主のお爺さま、そして――ワタルだ。
わたしとワタルに相対するように座るお爺さまは静かに口を開いた。荘厳な声に伸びた背がさらに真っ直ぐにさせられる。
「今日で終いだが、滞りはないか?」
「ありません。チクマの腕は確かですので」
ワタルは間髪入れずに答えた。わたしには何も言わせないつもりなのだろう。そちらのほうがありがたい。正直、お爺さまはちょっと怖い。なんだかこちらの心の奥さえ見抜かれるようで。表にいるときは厳しくもあるが好々爺たる人なのだけれど、こうして当主の顔をするときは違う。とても怖い。だから、ワタルの優しさに甘えつつも、全てを委ねようと決める。
『この後』のことをいくつか話して、ようやくお爺さまから下がっていいと許可がおりた。ワタルと二人で頭を下げ、和室を出る。ぱたん、と障子がしまったことを確認した途端、詰めていた息が自然ともれた。そのことに目ざとく気づいたワタルは苦笑気味で「おつかれさま」と小声で労いをいれてくる。
「こちらこそ、ありがと。全部任せてごめんね」
「巻き込んでいるのはおれたちのほうだからな。これぐらいはさせてくれ。――さて、行くか」
ここにいる理由も無いしな、と肩をすくめ、歩き出すワタルの後ろをついていく。先ほどよりもリラックスした空気に凝り固まった肩がほぐれるようだった。場所が場所なせいもあって、会話は小声。それでもワタルに会うのは久しぶりだから、話していて楽しいのは隠せない。ポケモンのこと、バトルのこと。この前見つけたケーキ屋さんの話。他愛のない会話を繰り返すと、いつの間にか目的地である部屋へ着いていた。
古びた木の扉を開ければ、凛としたお香のかおりと――床の間に飾られている一族の家紋がわたしたちを出迎えた。一礼して、部屋に入る。上質な畳のやわからさを感じながら、備え付けられた桐箪笥の引き出しから、道具箱を取り出した。一切の曇りもなく、しっかりと手入れされている。さすがこの一族さまだ。抜かりない。
「布団はいらないよな」
視線はそのまま道具たちへ。振り向くことなく、言葉だけを返した。
「いらないよ。寝転ぶわけじゃないし、上だけ脱いで待っていて」
「わかった」
必要なものを一式揃え、引き出しを閉める。すべての道具の状態を確認し、問題ないと判断した。
ワタルのほうはどうだろうか? ようやく彼の方向に目を向ければ、彼は鍛えた半身を惜しげもなく晒して、待っている。ワタルもまた問題ないようだ。
彼の身体にあるのは筋肉とポケモンたちによる傷だけではない。おそらく大半の人間はそれを見て、悲鳴を上げてしまうモノがある。それに恐怖ではなく、歴史≠垣間見てしまうから。
ワタルの全身には一族の歴史が、誇りが、血が、文字通り刻まれている。――漆黒の刺青として。
わたしの視線に気づき、彼は遊ぶように言った。
「見惚れた?」
「わたしの作品だからね」
「なんだ残念。おれに、じゃないのか」
「ワタルの裸になんて見慣れたよ。いまさらじゃない」
彼の刺青を彫ったのは、他でもないわたしだ。
彫り師、と大々的に名乗るのは烏滸がましい。それで食べているわけではないから。両親だって祖父母だって、もちろんわたしもごくごく普通の人間だ。しかし、なぜか我が家系はフスベの一族様の専属彫り師としての顔を持っている。先祖を遡ればその理由もわかるのだろうけれど、そんな面倒臭いことはするつもりもないし、興味もない。ただ、わたしはワタルの身体へ一族の刺青を彫ることだけを考えていればいい。そういう技術を、受け継いでいる。
一族の本家長子、または一族当主と決められた人間はその身体へ脈々と受け継がれる歴史と血、そしてドラゴン使いとしての誇りを刻む。過去から継いできたそこへ自分の紋を足し、次世代へまた継いでいくのだ。家系図として紙に残すのと同時に、そう簡単に途絶えることのない方法で。本家長子であり、そして次期当主としてすでに定められているワタルももちろん、一族の歴史へその身を捧げていた。
本来であれば手練れている祖父が彼の彫りを担当することになるのだが――なぜか彼はわたしを指名した。同年代だから、というのもあるのだろうが、いまだにその理由は不明確。まあ、おかげでワタルとはよい友人としても交流が生まれているから、悪いことばかりではないのだけれど。
そんな彼は今日の彫りで、全ての刺青を入れ終わる。最後に残されたのはワタル自身の紋だ。すでにデザインはできているから、それをうなじへ彫る予定となっている。一族の紋は鎖骨から胸板へ始まり、背中と腹、腕に脚と、すべてに肌へ隙間なく彫られている。しかし、うなじだけは別。ここには自身の紋を入れるというしきたりがある。
そこは、聖なる竜へ頭を垂れたときに見える場所だから。一族以外には見せてはいけないとされる刺青を唯一見ることが許されるのは、かの生き物だけ。頭を垂れ、そして従えることができる、ドラゴン使いの一族らしい理由だとわたしは思う。
そんな大層な理由があるせいか、祖父からずっときつく言われていたことがある。それこそワタルへ刺青を彫り始めたころから。「うなじへ彫るときには一際注意を払いなさい」と。理由としては二つ。一つは『失敗をするな』という意味(これはどの箇所にも言えることだろうけれど)。もう一つは『一族の歴史へのまれるな』という警告。
うなじの紋を彫り終わった時、一族の歴史が完成する。これはわたしが考えるよりずっと重いことらしい。特にワタルの場合には次≠ェまだいないから、現時点での一族におけるすべての歴史が彼にあるということになる。その圧と重さに、彫り師はのまれてしまうのだという。一族へ、その人へ、全てを捧げたくなってしまう――らしい。本当かどうかは祖父もわからない。ただ、祖父も同じように曾祖母に言われ、曾祖母もまた……といった我が家に伝わる掟みたいなものだ。今日も出かけに言われたぐらいに、釘という釘を刺されまくっている。
お互いに準備が整ったのを確認して、ワタルの背後へ回った。身長差ゆえに膝たちからさらに腰を浮かせる。あらかじめ打ち合わせをしているから、今更確認は不要だ。用意していた酒の蓋を開けると、強いアルコール臭が襲ってくる。それを布にしみこませ、彼のうなじをぬぐう。乾くのを待っている間に針を火にあぶって、こちらも殺菌した。調合した黒の染料を、針の先へ染みこませる。
「……それでは最後の彫りを始めさせていただきます」
「ああ、始めてくれ」
頭に叩き込んだ紋の図を思い出しながら、針を彼の皮膚へ刺す。本当は下図を描ければよいのだが、うなじへの刺青はそれが許されていない。彫り師としても、一番腕が試される箇所というわけだ。とてつもないプレッシャーが圧し掛かる。
肌へ刻み、火で針をあぶり、染料に浸す。そしてまた肌へ。痛みと熱さはとてつもなくキツイはずだ。この痛みも含めて一族の歴史を刻んでいるとしているとされているので、昔から決められた手法を変えることはできない。さすがのワタルも耐えているのだろう。その中には痛み以外の物も含まれているようで、彼らしくなく表れていることからもわかる。額から汗が吹き出し、膝の上で握りしめている拳が震えていた。逞しい腕には血管が浮かび、時折強く奥歯を噛みしめる音も聞こえる。
しかし、瞳は閉じていないのだろう。いつだってワタルは瞼をおろさない。一族の次なる長として、彼は全てを受け入れるつもりなのだ。目を背けてしまえば楽になることもあるのだろうに。
「っ、」
ワタルの吐息が漏れる。その熱に充てられて、わたしも頭がぐらぐらとしてきた。火を扱っているからではすまされない熱気が、まとわりついてくる。ワタルの身体へ刺青を刻むことは何度も経験したはずなのに、段違いの熱量に襲われていた。
「(冷静に、冷静に。のまれてはいけない……)」
祖父の言葉を思い出す。
一族の歴史に、のまれてはいけない。わたしはわたし。誰のものでもない。ただの彫り師なのだから。
でもどこか、大きな渦へ身を委ねたくなるような気持ちもわいてくる。その中で、ふと気づいた。彼の紋は一族の家紋によく似ている。家紋をあしらうことを許される人間は少ないと聞いた。やはりワタルは特別なのだ。特別な人の、特別な紋を、自分が刻んでいる。その事実に言い知れぬ多幸感が溢れ出す。
途端にワタルの存在が大きく感じるようになった。痛みを耐え吐き出す息、汗の粒が落ちる音、筋肉の動きを過敏に拾ってしまう。意識はここにあるのに、心が遠く離れていくような錯覚に陥った時――
「チクマ」
大きく心臓が跳ねた。まるで全力疾走をしたときのように鼓動が激しく鳴り響く。努めて冷静に「どうしたの?」と尋ねた。
「いや、終わったのかと思って。手が止まっているだろう」
「あ、え、えっと」
指摘されて自身の手元を見れば、紋様の縁取りが終わっていた。朦朧とした意識の中でも、わたしはちゃんとやり遂げていたらしい。ここまでくればもうあと少し。すぐ終わる。口の中はすっかり乾いていて、水でも持ってくればよかったと後悔した。
「……縁取り終わったから、あとは色を移すだけだよ。何色にする?」
彼の身体に彫られている刺青は全て黒だ。しかし、自身の紋だけは違う。縁取りをしたその中へ、色を入れるのだ。さすがに蛍光色とかは無理だけれど、スタンダードな色は調合すればだいたいは作れる。ワタルの希望の色だってきっと大丈夫。叶えられるはずだ。
染料の一式を持って、背後から正面へ移動する。一つずつ中身を見せながら目の前へ並べた染料の器を一瞥し、彼はわたしを見据えた。
「チクマが決めてくれないか」
「え?」
「きみの選んだ色がいい」
言葉の意味が、よくわからない。
色を選ぶところまでが彼の役割だ。彫り師であるわたしは、それに従うのみ。彫り師の意見を訊いてくるなんて、今までにないことでは?
混乱するわたしへワタルは笑いかける。熱――じゃない、もっと違う何かを溶かした瞳がわたしを捕らえた。その奥の灰色の瞳孔が細くなったのを見た瞬間、呼吸の仕方がどこかへ飛んだ。すべての音が遠くなる。聞こえるのは、この人の声だけ。
「おれがきみに選んでもらいたいと望んでいるんだ」
「そ、それは……」
喉からは掠れた音しか出ない。ワタルは真っ直ぐに伸ばしていた背を傾けて、わたしの腕を掴んだ。そのまま、強い力で引き寄せてくる。彼の身体が、筋肉が、傷が、刺青が近くなった。ぶつかる間際に無意識で手を床に着いて、留まる。しかし、彼との距離はほぼゼロに近い。交わる瞳に捉えられる。細い瞳孔の奥に見える焔はわたしの心を焼いた。――もう逃げ場はない。
「これを彫ったのはチクマだ。きみだってもうおれの歴史≠フ一部といっても過言じゃない」
だから、きみの色をいれてくれ。
「……叶えてくれるな?」
重い声、言葉。耳に響いて馴染む音。身体へ、落ちていく。
気づけば頷いていた。わかった、と震えながらも言っていた。ワタルはそれを聞いて、とても嬉しそうに「よかった」と微笑む。ゆっくりと、彼は手を放す。いつも通りの優しいワタル。誰からも信頼される存在。でもなぜか、笑みの奥に獰猛な雄々しさも感じるような……。気づく前に、ぞくりと背筋に何かが駆けた気がして、必死に考えを追い払う。
頭の奥が痺れたまま、わたしは染料の器へ手を伸ばす。数個の中身を空の器へ入れて、混ぜる。
出来上がる色を見て、ワタルが呟いた。
「紅、か」
ワタルならこの色以外にふさわしくないと思ったのだ。営みを助け、闇を払う焔の色。空を焼き、生命を育む朝陽の色。――受け継がれ、絶え間なく流れ続ける血の色。
わたしは調合の終わったその色を針に乗せる。ワタルは背を向け、うなじを差し出した。
震える己の手を叱咤しながら、静かに肌へ刺していく。
目を焼くほどの紅く鮮やかな新しい歴史が、ワタル≠フ身に刻まれた。