大きなモニターを見上げ、そこに映る彼の姿へ密かに息を吐く。湧き上がる歓声の渦の中、場違いなほどに私は凪いだ感情を抱いていた。腕に抱えていたワタッコがきょとんとした表情で私を見つめるので、そのやわらかな身体を撫でた。
「……おつかれさま、ライヤーくん」
私の声は彼に届かない。いまも、そしてきっとこれからも。
生前の王妃様――つまり彼のお母さんと私の母はよい友人だった。加えて子供たちの歳も近いということから、幼いころの私はよくライヤーくんと共に遊んでいた。王妃様がいたからか、あの頃はライヤーくんたちはおおらかな空気が満ちていたような気がする。王様は気難しい感じがして苦手だったけれど、私が遊びに行くことに渋い顔はしていなかった。
それはライヤーくんも同じ。少しだけ彼はお兄さんなせいか、はたまた本来の気質なのか……私の手をひっぱっていろいろな場所を駆け回っていた。そのたびに、よく転んでは泣く私をぎゅっと抱きしめて「泣かないで」と彼は不器用に慰めてくれた。
そんなとある日。怪我をした幼いハネッコを保護したことがある。いつものように半泣きでその子を抱え込んだ私は、両親と共にポケモンセンターへ。初めて怪我をしたポケモンを見たせいか、待合のロビーでもずっと泣きべそをかいていて、見かねた父がアイスを買ってくれたっけ。
ようやく落ち着いたころに、ジョーイさんが「しおれた頭の葉っぱが元に戻るまでお世話をしてほしい」と頼んできた。使命感に燃えた私はどんなときでもハネッコを連れて歩いた。幼いポケモンは子供の私でも持ち上げることができて、なおかつハネッコが腕の中で大人しくしていてくれたこともあるのだろう。そしてその日も当たり前のようにライヤーくんと遊ぶとき、ハネッコを連れていった。
しかしライヤーくんはまだ淡い色のハネッコを見て、むすりと眉を顰める。
「ど、どうしたんだよ。そのポケモン」
「ハネッコだよ。知らないの?」
「そういうことを聞いているんじゃない! ……手持ちにしたのか?」
それもいいかも、とちょっとだけ思った。ハネッコが私に懐いてくれている自覚はあったし、もしこの子がよければ怪我が治っても一緒にいられるのなら嬉しいなと思う。私の胸中を敏感に察したライヤーくんは「まあ、チクマにはそれぐらいのポケモンがお似合いだもんな!」と鼻を鳴らした。
「なに、それ」
彼の態度にカチンときた私はわかりやすく不満を表わす。しかし、ライヤーくんの表情は変わらない。当たり前のようにさらりと言葉を続けていく。
「チクマはボクより年下だし、背だって小さいじゃないか!」
「すぐに大きくなるもの!」
「チクマがボクより大きく? そんなの無理だよ!」
「そんなことない!」
「そういうものさ。だからチクマのことはボクがまも――」
「っ、もういい!」
最後に彼が何を言っているかはわからなかった。頭に血がのぼり、目頭が熱くなる。ぐすんと鼻を啜れば、ライヤーくんは私が泣き出したことに気づいて黙ってしまった。
売り言葉に買い言葉。子供らしい喧嘩だと今なら感じるのだが、そのときの私たちにはそうでなくて。「もういい!」と叫んだ私はそのままライヤーくんを置いて、家へ帰ってしまった。ぐしゃぐしゃに泣きながらベッドに飛び込んだ私を慰めたのはハネッコだった。そのせいか「ハネッコがいてくれれば寂しくない。ライヤーくんなんて知らない!」とへそを曲げてしまったのも確か。
その日以来、ライヤーくんに会うのが気まずくなり、私たちは疎遠になってしまった。「ごめんね」の仲直りもタイミングを逃してしまい、その間に私にも優しかった王妃様が亡くなった。そうすると余計にライヤーくんに会うことは難しい。会わない日々が続き、時間だけが過ぎていく。私のパートナーになってくれたハネッコはとっくの昔にワタッコに。私も子供から大人へ。ライヤーくんはどんどんと遠い人になって、離れてしまった。
そんなライヤーくんが人工島を作り、そこでWPMを開催すると聞いたのはドリバルさんからだった。ライヤーくんを通して、ドリバルさんとチェッタさんのことももちろん知っていた。気まずくなった以降も、私たち二人の仲を気にかけていてくれたことも。
「無理にとは言わん。しかし、来てくれたらきっと若は喜ぶ」
そう言って差し出されたパシオへの招待状。受け取るときに躊躇いが生まれたのは否定できない。けれど、このタイミングでなければもう二度とライヤーくんには近づけない。そんな予感が背中を押して、おずおずと招待状を受け取っていた。どこかほっとしたようなドリバルさんの表情に胸がチクリと痛む。
「仲直り、できないかもしれないのに」
「そこまでは望まない。ただ、もう一度だけ若にチャンスがほしいだけだ」
勝手なお節介だがな、と彼は照れくさそうに頭をかいた。
***
パシオでのライヤーくんの評判は笑っちゃうぐらいに悪くて、同時にあれから彼に起きたことを否応がなしにも想像してしまう。距離を置いた私が感傷に浸るのはお門違いだとわかっていても、ライヤーくんに向けるトレーナーたちの態度を見る度に胸が痛んだ。
――だから、今、こうして歓声の中にいる彼へ想いがこみ上げる。トレーナーたちが先ほどのバトルの熱く語り合い、ライヤーくんを称えている。素直に嬉しかった。そう、ライヤーくんはすごいのだ。昔から。
画面の向こう、見知らぬポケモンがライヤーくんの周りをふよふよと漂い、楽しそうに笑っている。ドリバルさんとチェッタさんも、ライヤーくんも笑顔だ。すごく楽しそう。それだけで私はここに来て良かったと思えた。
「……おつかれさま、ライヤーくん」
もう一度同じ言葉を呟き、私は喧騒を抜け出した。
宿泊先のホテルへ戻る気もなれず、かといって準決勝の熱気に包まれた繁華街にもいる気にもなれなくて、私は夜の浜辺に向かった。静かなビーチにはまばらにしかトレーナーとポケモンはいない。手頃な岩に腰掛けると、ワタッコは夜風にのってふわふわと浮かぶ。時折強い風が吹くので、髪を押さえながらこえをかけた。
「離れすぎないようにね」
「ああ、まったくだ」
え、と振り向く前に、その人は私の隣へ断りもなく座った。誂えたように並んだ岩はちょうどいいベンチになっている。目に入る彼の横顔が彼方の記憶と重なった。
「ライヤーくん……」
名を呼んだ声は潮騒に消されることなく届いたらしい。彼は「……なんだ」とだけ答えた。ええと、何を言えばいいんだろう。
「準決勝、おつかれさま」
「……見ていたのか」
「うん、街のモニターで」
「か、会場にいなかったのか!? WPMの観戦フリーパスはドリバルが渡していただろう!?」
「え?」
もらっていたっけ? と記憶を掘り返す。もしかして招待状の封筒の中に入っていたのだろうか。気づかなかった、と素直に伝えれば「き、貴様はっ……!」と彼はわなないた。何かを叫びかけながらも、飲み込んでギリリと奥歯を噛みしめている。そのうち落ち着いたのか、いつだかのように鼻を鳴らす。
「フン。貴様が昔からどこか抜けていたものな。オレさまは寛大だ。許してやろう」
「……なに、それ」
「あ、いや、その」
先ほどの勢いはどこへやら。急に言葉を詰まらせるライヤーくんはそのまま黙ってしまった。私もその異様な雰囲気にのまれ、言葉が消えていく。波の音だけが響く時間が過ぎていった。
このままではあの日の謝罪も言うことができない。そんな空気が私たちの間に漂っている。
――いまさらなのだろうか。とっくに大人になってしまったから、子供のころの喧嘩を棘にしているのは私だけかもしれない。良くも悪くも、時間が経ちすぎた。こうして話すことができるのは時間が経っていたおかげだけれど、二の足を踏んでいるのも時間が経っているからだ。
それにライヤーくんがこうして会いに来てくれたのはドリバルさんの計らいで、本人は気乗りしていないのかもしれない。だからこうして、口を噤んでいるのかな。
そのうちワタッコが空中散歩に満足したのか、ふわふわと私の腕の中へ戻ってきた。とろんとした瞳のワタッコはもう眠り掛けている。早寝早起きのワタッコにとって、この時間まで起きているのは珍しい。ワタッコをボールへしまって、私は顔をあげる。
「ライヤーくん」
「な、なんだ!」
「私、帰るね」
「は!?」
「今日はおつかれさま。準決勝、すごかったよ。それと――」
あのときはごめんね。
そう言って立ち去ろうとした瞬間、がしりと強い力で腕が引かれた。私の足は砂でバランスを崩す。しかし倒れることはなかった。ライヤーくんが抱きとめてくれたから。急に近くなった距離に驚く。彼は私よりずっと大きな身長になっていて、また過ぎた時間を感じさせた。
ぽかんと彼を見上げていると、赤いサングラス越しにばちりと視線が合う。途端に彼は勢いよく離れた。
「今のは貴様が転びそうになったせいだからな! い、いや、そうじゃなくて……」
小さな声が、わずかに届く。
「……悪かった」
ぽつりと落とされた言葉は私に向けてのそれに違いなくて。ライヤーくんはまっすぐに私を見つめて、同じ言葉を重ねた。
「悪かった。今も、あの日も」
問いかけなくてもわかる。彼もまた、私と同じくあの日をずっと後悔していたのだ。こみあげる感情に震えるくちびるを必死に開く。そんなの、私だって同じなのに。
「私も、ごめんね」
「チクマが謝る必要はないだろう」
「それだけじゃなくて」
会いに行かなくて、謝らなくて、そばにいられなくてごめんね。友達だったのに、一番辛いときに一緒にいられなくてごめんね。
「ごめんね、ライヤーくん。ごめんね……」
涙と共にあふれる言葉をライヤーくんは静かに聞いてくれて、気づけば彼はそっと私との距離を詰めていた。
「泣くな。チクマが泣いていると、どうしていいかわからなくなる。今も、昔も」
「……あの時みたいに慰めてくれればいいじゃん」
「無理だ」
即答されたそれに心が震える。やはりあの時みたいに友達には戻れないのか、とまた涙がこぼれた。遅すぎたのだ。なにもかも。ようやくライヤーくんと仲直りできたのに。
しかし、彼が次に言った言葉は私の予想していたものとまったく異なっていた。
「いま、チクマを抱きしめたら離せなくなるからな」
「……え?」
「どのくらい離れていたと思うんだ。触れたら、抑えが効かなくなる」
その意味を理解するまでには時間が足りなくて。
ただ私たちの関係は仲直り以上に変わっていくのだろうという予感を、彼の赤く染まった頬から感じた。