チクマが眼鏡をかけ始めたのは、11歳のころからだった。
ポケモンスクールで実施される定期検診の視力検査に引っかかったときから、残念ながら悪くなる一方。「緑色が目にいい」との言葉を信じ、ナゾノクサを延々と見つめ続けたこともあったが、あいにくと実を結ばなかった。
そうなると視力補正が必要になるのは必然である。幼い子供であったこと、管理や手入れのしやすさからも、コンタクトレンズより眼鏡が選ばれた。
それからずっと彼女は眼鏡をかけ続けている。周りの友人たちがみな、コンタクトレンズへと変えていったのにチクマはそれをしなかった。理由は簡単。怖いのだ。目に異物をいれるのが。
しかしその恐怖を乗り越える――かもしれない出来事が今、チクマの身に迫っている。
「初めてのコンタクトは眼科医の処方箋が必要……最初のレンズ入れはレクチャーしてもらえる……へぇ……」
『コンタクトレンズ はじめて』のキーワードで検索し、最初に掲載されているページを読みながらぽつりと呟きがもれた。遅まきながらコンタクトデビューを考えている彼女にとって、知らないことはたくさんある。むしろ知らないことしかない。ハードレンズとソフトレンズの違いからはじまり、使用日数の差異。手入れの仕方、コストパフォーマンス、エトセトラ……。頭から湯気が出る前に画面を落とした。
眼鏡はレンズさえ作ればあとは楽だった。かけて、調整するだけでいい。もちろん手入れは必要だけど、最低限ですむ。極端なことを言えば、レンズさえ綺麗にしていれば問題ない。あとはフレームを壊さないように気をつけるぐらいだろうか。
乾燥対策やコンタクトレンズに適した目薬、洗浄液に保存液……というか、このレンズの酸素含有量とはなんなのだろう。レンズって息、しているの? 状態だ。コンタクトレンズを用意する云々の前に心が挫けている。
「もっと簡単だと思ったのになぁ」
重いため息を吐き出し、ぼやく。
よくよく考えれば視力を補正するための医療機器なのだ。ハードルが高いのは当たり前。一歩間違えて眼球を傷つければ、取り返しがつかなくなる。しかし周りがみな、当たり前のようにつけているし、レンズ自体はディスカウントストアでも簡単に買える。もっと気軽なものだと勝手に勘違いしていたのは否めない。しかし、ここで機を逃せば、これから先もコンタクトレンズへ手が伸びることはないだろうことも自身の性格上よくわかっていた。
一念発起した今がチャンスなのだ。――たとえ不純な動機がきっかけだとしても。
「ずいぶん暗い声を出しているな?」
なにを見ているのやら、とソファの背もたれ越しに身を乗り出して端末の画面を覗きこんでくるワタルへチクマは驚きで肩を震わせた。先ほど画面を落としてしまったから内容を見られることは無い。仮に見られたとしてもなんら隠すほどのことじゃない。けれどワタルには知られたくないのも事実。
「急に覗きこまないでください!」
「恋人を放って夢中になっているんだ。気にもなる」
「そ、それは……」
「下手に隠すのは勧めないが、どうする?」
片眉をあげ、にやりと笑うワタルへ誤魔化すことはもう難しい。諦めたように白状した。
「コンタクトにしようかな、って調べていただけです」
「きみ、怖いって言ってなかったか?」
「そうですけど……」
彼からの追及にチクマは思わず言葉を詰まらせる。なにしろ理由の大半が目の前の恋人によるところなのだ。答えを言わない彼女をワタルはじっと見つめ「まあ、心境の変化は誰にでもあるものだからな」と表情を緩める。同時に宿された欲求を察したチクマは身体をずらし、ワタルへ向き直った。この人を放って置いたのは事実ではあるから、それに報いなければならない。
「ワタルさんって意外とさみしがり屋だったりします?」
「おれとしては、そんなことはないと思うが。もしそうだとしても、チクマにだけだよ」
きみの全てを欲してしまうんだ、と囁くワタルの甘い声に、チクマの頬が染まる。この人は本当にずるい。なんだか悔しい思いを抱えながらチクマは眼鏡を外し、恋人のくちびるへキスを落とす。
――これが、チクマが眼鏡をやめとうとしている理由だ。
恋人ができれば、どうしても舞い上がってしまうもの。そして今後≠フことを考えてしまうものでもある。それはチクマも同様で、紆余曲折ありながらもワタルと恋人同士になったとき、はたと気づいてしまったのだ。自身の視力を補正するこの医療機器について。つまり「キスするときって眼鏡どうしたらいいの?」と。
そこまで恋愛経験が豊富ではないチクマは焦った。キスのとき、当たり前だが顔の距離は近づく。近づけば、眼鏡のフレームが邪魔になるだろう。さらに言えば、鼻のブリッジ部分が当たってワタルが痛めてしまうのではないか。
かといって「キスするときに眼鏡って外しますか?」と確認するわけにもいかない。常に余裕のある彼なら笑って解決策を教えてくれそうだが、恥ずかしすぎる。あとなけなしのプライドがそれを許さなかった。一人悶々と考えた彼女が出した答えは「そういう雰囲気になったら自分から眼鏡を取ろう!」という単純だが最もわかりやすいものだった。これが正解はさておき、少なくともワタルに痛い思いをさせないことが需要である。
そしてこれは今のところうまくいっている。キスをするときはチクマが自身の眼鏡を外すのは、二人の中での当たり前になっていた。
しかし回数を重ねれば重ねるほど、それが煩わしくなっていくのも事実。都度、外した眼鏡の置く先を考えなければいけないこともあり、チクマは「いい加減コンタクトにしよう」と考えたのだ。
考えまではいいが、実行は難航している。やはり怖いのだ。「あっ、目の裏側にレンズがいっちゃった」という友人の何気ない一言が脳裏から離れないし、良くも悪くも眼鏡は便利だ。ちょっと雑に扱ってもなんとかなってしまう。けれどコンタクトレンズはそうもいかない。手入れも必要だし、今以上に瞳のケアも必要になってくる。――でもワタルとのキスは、もっとしたい。
「で、結局コンタクトは諦めたのか?」
踏ん切りがつかぬまま、未だにチクマは眼鏡をかけている。そんな彼女へ、とある日、ワタルはふいに尋ねた。自宅で注目されていた動画配信サービスのオリジナル映画を見終わったころ、唐突に。
彼にとっては何気ない問いだったが、チクマはわかりやすく狼狽えた。もちろん、それをワタルが追及しないはずもなく。
「いい加減、おれに隠し事はやめたらどうだ? すっかりバレているんだから」
「そ、そんなこと」
「じゃあ当ててみせようか。『キスをするときに眼鏡が邪魔になっているからやめたい』だろ?」
鋭い眼差しが自身のくちびるに向けられていることを感じ、チクマの鼓動が早くなる。図星であること、そして自分の欲がすっかり見抜かれていたことにじわじわと熱が籠もっていく。
「おれとしてはかわいいなと思っていたんだけどね。チクマが毎回、健気におれを気遣って眼鏡を外している姿が」
ワタルは手の甲で彼女の頬を撫でると、そのまま指先で眼鏡のフレームに触れた。いよいよチクマは耐えられなくなったのか、顔を真っ赤にしながら「だ、だって……」と小さな震える声を出す。
「ワタルさん、痛くなっちゃうかなって、思っていて……」
「きみらしいな。そこはありがとう、と言っておこうか。でもな、チクマ。別に眼鏡かけたままでもキスはできるんだぞ?」
「…………え」
「まさか世の中の眼鏡をかけた恋人達が逐一外していると思っていたのか?」
思いました。思っていたから外していたんです、と答えることはできなかった。ワタルがキスをしてきたからだ。もちろんチクマは眼鏡を外していない。ついばむようなキスが何度も、彼女を襲う。ようやく離れたころ、息はあがってしまっていた。その様子を見つめ、ワタルは愉しげな表情を浮かべる。
「ほら、角度を変えればいくらでも」
実践されてしまえば言い返せない。今、身をもってそれが証明されてしまったのだ。混乱するチクマがようやく絞り出しのは「絶対、コンタクトにしてやる……」の負け台詞だった。
それを聞いたワタルは肩を震わせる。「好きにすればいいさ」と恋人の身体を引き寄せた。
「でも、おれとしてはまだ眼鏡のままでいてもいいのだけれど」
「……キスに支障ないから?」
「頑なだなぁ。そうじゃないよ」
耳へそっと吐息がふれた。欲に濡れた甘い囁きが、チクマへ響く。
「きみの素顔を知る男はおれだけだという優越感があってね。なかなかに興奮していたんだ」