ヒナツちゃんが持ってきた小瓶に入った染料の数々。目も覚めるかのような色彩、独特な匂いが漂うそれは爪紅の一種らしい。
「イチョウ商会の人からお試しにもらったんだ。カロスからの輸入品だって」
髪結いだけじゃなく、ヒナツちゃんはお化粧についてもとても詳しい。あいにくと私はしてもらったことはないけれど、ヒナツちゃんにお願いすれば、とびきりかわいく綺麗にしてもらえることをコンゴウ団のみんなは知っている。あのセキでさえ、特別な日には目元の化粧をヒナツちゃんに頼むほど。彼女の腕前は折り紙付きだ。
そんなヒナツちゃんが私のところに爪紅の小瓶を大量に持ってきた。目を回しているうちに、押しかけてきた彼女にずらりと並べられた色とりどりのそれら。
どうしたの? と尋ねる前にヒナツちゃんは「チクマちゃんに好きなのあげる」と一言。
「なんで?」
「え? だって好きでしょ?」
図星を刺されてしまえばなにも言えなくなってしまう。好きです。かわいいの。爪紅の小瓶を見たときから、ときめきはとまらなかった。もちろんそれは見抜かれているわけで。したり顔のヒナツちゃんは「手に取って選んでいいよ」と差し出してきた。
お言葉に甘え、一番近くにあった桃色の爪紅を選ぶ。小瓶には見たことのないポケモンの横顔が装飾されている。ふわふわとした毛並みが伝わってくる。こういったところも手を抜かず、丁寧に作られているのがカロスっぽい。
「チクマちゃんなら、こっちの色も似合いそう。空色や藤色とかはどう?」
「わ、かわいい! そうだなぁ。藤色にしようかな――」
藤色の小瓶を選びかけて動きが止まる。視界の端に映った色に惹かれてしまったからだ。深い海、淡い夜のような色。藤色の代わりに手に取った小瓶を傾けると、中の爪紅は揺れる。一色のみではなく、なにかが入っているようだ。こまやかな星屑のような煌めきが光に反射して美しい。銀色にも、草色にも見える。きらきら光るそれから、目が離せない。
「それだけ箔が入っているんだよね」
「……きれい」
「それにする?」
頷くとヒナツちゃんは頬を緩める。浮かべられた楽しげな表情から、私が抱くいろいろ≠ェ見透かされているような気もした。ヒナツちゃん、こういうことに本当に敏いんだよなぁ。散髪屋さんでたくさんお客さんを相手にしてるから? いつの間にか会話の主導権を握られてしまう。
そんな私の複雑な心情を知らぬ彼女は、残った小瓶をしまいながら「いま塗ろうか?」と尋ねてきた。頷こうとして、はたと気づく。
「お願いしたいところなんだけど、このあとコダックの水浴びの手伝いがあって」
「なら無理か……。でも必要になったら、いつでも呼んでよ!」
「うん。お願いするね」
ヒナツちゃんを見送った私はもう一度小瓶を眺める。煌めく星屑が溶けた夜空、深い海に差し込む光。それと……蒼を身に纏う彼の笑顔のような色。
――我ながら空想家のようなことを考えてしまった。誰に見られているわけでもないのに、途端に恥ずかしくなってしまった。上がった体温を下げるため、手で仰ぐ。でもなんというか、似てるから仕方ないとも思うのだ。
思慮深くもありながら大胆さを忘れない。結構笑顔がかわいい。コンゴウ団の長としての責任感は強いのに、子供のように無邪気なところもある。
深い色に箔が煌めくこの爪紅は、やっぱセキに似ている。私が好きな彼に、とても。
*
——今日こそ。今日こそ、あの爪紅を塗る!
ヒナツちゃんに小瓶をもらってから全然時間が取れないでいた私は、なかなか爪紅を塗る機会に恵まれていない。
なにしろ爪紅は塗ってから乾くまでの時間が必要だ。なので、ちゃんと時間を作らないと塗れない。加えて塗った直後に水仕事は避けたい……なんて考えていたら、あれよあれよと時は過ぎてしまっていた。
時間を大切にするコンゴウ団として、不敬極まりない行動だ。
だから、というわけじゃないけれど、今日こそ。今日こそ! 爪紅を塗る!
そんな気合いを入れ、戸棚に仕舞った爪紅を取り出したーー時だった。
「チクマ、いるか?」
「い、いるよ」
いつもだったら、セキの声に喜んでいただろう。文字通り、飛び上がるほどに。ーーうそ、です。今だってもちろん嬉しい。慌てて彼の元へ向かい、乱れた髪を軽く整える。努めて冷静なふりをして「なあに?」と扉を開けた。
「急ぎの用事?」
「なんだ? 用事がなきゃ、おめぇに会いに来ちゃいけねぇってか?」
カラカラと笑いながら「いい天気だからよ。一緒に散歩でもどうかと思ってな」と言った彼は、私の手元へ視線を向けた。
「爪紅?」
「あっ」
慌てていたせいか握りしめたままだった。
とはいえ、隠すものでもない。先日、ヒナツちゃんからもらったものだと伝えれば、セキにも思い至る記憶があったのだろう。「ああ」なんて軽い声が返ってきた。
「今から塗ろうとしてたのか?」
「そういうこと。もらってから、ちょっと都合がつかなくて。なかなか塗れないでいたから」
でもセキが来たのなら、これはまた今度だ。
ごめんね、また今度にするから。爪紅の小瓶に心の中で謝って「片してくるよ」とセキへ背を向ける。しかし、彼はがしりと私の肩を掴んで言った。
「待った。予定変更といこうぜ。塗ってやるよ。それ」
「誰が」
「オレが」
え? 散歩は? なんて尋ねる間もなく、セキは私の肩を抱き、一緒に天幕の中へ。あれよあれよという間に、彼の手に小瓶が渡る。自分の家のように「まあ座れよ」と促され、私たちは向かい合う。これは本当にセキに塗ってもらう流れだ!
「ちょ、ちょっと!」
「そんなに不安がることかよ? 安心しろって。笛は下手でも、こういうのは得意だってチクマも知ってるだろ?」
「そういう意味じゃなくて」
「ま、少しはみ出るぐらいはご愛敬ってことで、よろしく頼むぜ」
セキが小瓶の蓋を開けると、爪紅特有のツンとした香料が鼻をついた。塗るために筆は蓋と一体型になっているようだ。特注品なのかもしれない。初めて見たそれにセキも感心の声をあげた。
「ほら、手」
こうなってしまえば断れない。
恐る恐る出した私の右手を彼は素早く掴んだ。決して力が強いわけではないけれど、振り払うこともできない。ドキドキと心臓がうるさくて震える指先に「動かすなよ」と釘が刺さる。
ツゥと小瓶の縁で紅を扱いた筆が親指の爪に乗る。どことなくひんやりとした感覚が爪越しに感じた。セキは慣れた手つきで二回、三回と筆を動かす。あっという間に、私の親指は煌めく深い色に染まった。見惚れる間もなく、セキは次の指へ。人差し指、中指、薬指――反対の手へ。
伏せられた真剣な眼差しは私の手元に注がれていて。それに気づいた時から顔があげられなくなってしまった。セキに手を握られることなんて別に珍しくもないのに、すごく緊張してしまう。二人きりだから? 色に彼を連想してしまっているから? わからないけれど、胸のときめきはとまらない。
短いようで長い時間。遠くからは子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。なんて幸せな時間だろう。ずっと続けばいいのにと思いながら、反面、心臓の高鳴りが震えてとまらない。響きすぎるこの音が、目の前の想い人に伝わらないことだけを祈っていた。
気づけば、十本の指先はセキによって丁寧に飾られた。
かろうじて感謝の言葉を伝えれば「なかなか上出来だろ」と自慢げな笑みで返された。
「あとは乾くまでじっとしていないとな」
「うん。せっかく綺麗にしてもらったんだもの。ヨレたらもったいない」
完全に乾くまでどのくらいかかるだろうか。そう簡単に爪紅は乾かないから、セキは帰ってしまうだろうな。時間を大切にしている――もといせっかちな彼はこの指が乾くまでの時間なんて待ってなんかいられないだろう。
けれどセキは帰る様子を見せない。じっと私を見つめているだけだ。その視線さえ、今の私には毒。居たたまれなくなって、思わず声を出した。
「えっと、どうかしたの? あ、爪紅、セキも塗る?」
「ん? ああ、そうだな。でも、揃いにするのはまた今度な」
「揃い」という言葉にまた心臓が跳ねた。このわずかな時間で、私の心臓は悲鳴をあげすぎている。セキにとっては他意がないことが少し寂しいが、私はもういっぱいいっぱいだ。
それとなく「乾くまで時間がかかるよ」と伝えるが、それでもセキは動かない。それどころか「待つ時間だって悪かない」なんて言いだす始末。
これにはさすがに驚いた。あのセキが、なにもしないで待っている!?
「え!? どうしたの!? なにか変なものでも食べた?」
「あのなぁ……おめぇの中でのオレはそんなにせっかちなのか? 時間を大切にするってのは、なんでもかんでも、せかせかと動き回ることじゃねぇよ」
はぁ、と大きなため息を吐き出したセキは頭をガシガシとかいて、呆れたように言った。
「ならお望み通り、この時間も意味のあるものにしてやるよ。ほら、手、出せ」
「え?」
「いいから。両手、出しな」
言われた通りに手を出す。セキは爪に気を使いながら、私の手を持ち上げた。
何をするんだろう? と首を傾げていると、あろうことか彼の節ばった指が私の指の間に入り込んできた。驚いて手を引っ込めようとするが遅い。繋ぎ止められてしまった。私たちの手のひら同士がぺたりとくっつき、逃がしてくれない。
「せ、セキ!?」
「応」
「なにして……!」
「見りゃわかるだろ」
わからないから訊いているんですけど!?
身じろぎしても彼の手は私を離してくれない。ただでさえ大きさで負けているのだ。少し力をこめられるだけで、文字通り手も足も出なくなってしまう。いや、足は出るけれど。蹴飛ばしたところで多分彼はびくともしないから、結局意味が無い。一人焦る私に「動くと爪紅がヨレるぜ」と冷静なセキ。
「散歩に誘ったのも、ハナからこうして、おめぇとふれあいたいからだったんだけどよ」
「え……え!?」
「つまり、二人きりならなにしててもオレは満足ってことだ。散歩でも爪紅でもよ」
乾くために待つ時間も、オレにとっては意味のあるモンなんだよ。
さらりと言ってのけるセキだけれど、それを聞いた私の頭は大混乱だ。ええと、私を誘いに来たのは二人きりになるためで? それはなんでもよくて? ええと、えっと?
「逢い引きするに、場所は関係ねぇもんな」
「あっ、あい……!?」
「応。にしても、その反応。脈有りってことでいいんだな? ま、この色を選んだ時点で、わかっていたことだけどよ」
オレの色だもんな? と言わんばかりに、ニヤリと不敵な笑みを浮かべるセキ。その挑発的な瞳に覗き込まれた私はなにも考えることができなくて。
爪紅が乾くまでの途方もない時間。結局私はセキと二人きり、手を繋いだままでいることしかできなかったのだった。