「そうだ、アローラに行こう」
「行くな行くな」
「そもそも行かせないわよ」
「そうだ、お前の代わりに俺が行ってきてやる。あとはよろしくな」
「うるせぇ!!! 私が行くんだ!」
そんな叫び声をあげながら、キーボードを叩く手は止まらない。
セキエイリーグのバックオフィス。総務課チームのフロアは戦場と化していた。そう、年度末である。なにせセキエイリーグはカントー・ジョウトの2つの地方にまたがるポケモンリーグの総本山。処理する仕事の量は多く、毎年この時期は総務課だけではなくバックオフィスフロア全体が殺伐としている。
そこに勤めるチクマも日々積み重なる業務に辟易していた。締め切りが決まっている仕事が毎日襲い掛かってくる。ピッピ人形を投げても逃げられない。ちくしょう、泣こう。
「アローラに行って、バカンスするんだ……」
しぼんだ捻り声を出せば、上司は名案とばかりに指を鳴らす。嫌な予感しかしない。
「そんなチクマにアローラリーグの出張を入れてやろう。発足直後のリーグ視察は楽しいぞぉ」
「おい、やめろ、やめろ、やめろ! 仕事に行きたいんじゃない!!! バカンスに行きたいんだよ!!!」
「うるさいぞ、チクマ」
「そうよ、口じゃなくて手を動かしなさい」
「理不尽!!」
とはいえ、同僚の言っていることはもっともなので、パソコンへデータを打ち込んでいく。早くペーパーレスにならないかな……というのは、全員の口癖だ。
霞む視界に目薬をさして再び画面を睨む。ふと、その端に局内チャットの通知が来ていることに気がついた。
「?」
通知をクリックして差出人を確認した瞬間、飛び上がった。誰に見られているわけでもないのに周囲を確認しながら、もう一度メッセージの内容を確認する。
「わ、ワタルさんだ……」
その名を知らない人間はこのセキエイリーグにはいない。なにせこの城の主、チャンピオンなのだから。そんな彼と、なぜかチクマは仲がよかった。部署的に交流があるせいか、それともチクマ自身の性格故か、はたまた超がつくほどのトップでありながらも彼が気さくなためか――気づけば軽口を言い合う仲になっていた。これは人生の七不思議のうち1つである。
しかし、ワタルからの局内チャットなんて滅多にこない。彼から業務指示が来るとしたらまずは上司に行く。いくら仲がいいからとはいえ、こんな直接的なメッセージをやりとりするほどではない。
同時にそういうものをすっ飛ばしてでもチクマに連絡を入れるほどの火急の案件が発生したのだろうか。いや、それよりも自身が起こしたミスでワタルが迷惑をこうむっているお叱りの可能性もある。
戦々恐々としながらメッセージを細目で見るとなんてことはない『今から給湯室へ来てくれないか』と一言。
「給湯室?」
なぜ給湯室。チャンピオンの執務室でもなく、給湯室。そこで閃いた。コーヒーか何か淹れようとして失敗したのだろう、と。粉をぶちまけたか、お湯をこぼしたか――ちょうど雑巾やふきんの類は消毒乾燥しているから、そこにはない。困って自分に助けを求めてきたのだろう。他の人に知られると恥ずかしいもんな。わかる。
きっとこのメッセージも携帯用の業務用端末から送っているに違いない。
「……仕方ないから助けにいきますか」
少しでもこの業務からの逃避ができるなら、片付けだろうがなんだろうが今は嬉しい。チクマは途中、ぞうきんを調達し給湯室へ向かった。まあ帰ったらお仕事の続きはするんですけど。
「やあ、呼び出してすまない」
しかし、悲惨な状況を予想していたにも関わらず、給湯室は綺麗でワタル自身も普通にそこにいた。シンクの縁に腰を預け、長い足を持て余している。絵になるな、と思いつつ「あの……巻き散らかしたコーヒーは?」と尋ねた。
「――ああ、なるほど。勘違いしているな? あいにくだけど掃除の必要はないぞ」
「えっ」
「というか、もしそういう状況になっても1人で片付けくらいできるよ」
子供じゃないんだから、と彼は呆れるように息を吐いた。だったらなぜ自分を呼びだしたのだろう。もしかして、と身体が震える。
「何かご迷惑をおかけいたしましたでしょうか……」
「そっちも違う。だいたい、チクマのミスがおれに響くことなんてわずかだろうに」
言われてみればそうだ。冷静に考えれば、おっしゃるとおりである。仮にミスしたとしても雷が落ちるとしたら上司からだ。ではなぜ呼び出されたんだ? と首を傾げてしまう。
その疑問もワタルにはもちろんお見通しだったようで、彼の背に隠されていた紙袋を渡される。
「はい、これ」
「?」
クラフト調のそれには、白インクで有名なコーヒーショップのロゴが描かれている。中を見るように促されたので、お言葉に甘え口を開ける。
「わ、マフィンだ!」
そこにはほんのり淡いピンク色の生地にホワイトチョコチップが混ぜられているマフィンが1つ。ふわりと甘い香りが漂って、つい頬が緩んだ。そんな彼女を見て、ワタルもまた顔をほころばせる。
「さっきコーヒー買った時に目に入って。きみ、こういうの好きだろ?」
「大好きです!」
甘いものは好きだし、このテの期間限定のものはもっと好き。なによりそれを彼が覚えていてくれているのも嬉しかった。ちょっとした雑談で触れた程度だというのに。そんな些細なことをワタル≠ニいう人間が、心の片隅に置いてくれていたことが何よりの喜びなのだ。
「年度末で忙しいだろうけど、頑張ってくれ。それ、おれからの差し入れ」
「えへへ、ありがとうございます! もうめっちゃ頑張ります!」
「現金だなぁ。あ、他の人の分は無いから内緒で頼むよ」
しーとくちびるに指を当てるワタルに彼女は頷く。あとでゆっくりいただくとしよう。それこそとっておきのコーヒーでも淹れて。わくわくとした気持ちは仕事への意欲へと変換される。書類の山を片づけて、このマフィンを食べるんだ! とチクマは紙袋を抱きしめた。
その中でふと疑問が浮かび上がる。
「でも、なんでわざわざ買ってきてくれたんですか?」
わざわざ1つだけ、チクマのために。しかもこっそりと自分だけを呼び出して。己の好物を覚えていてくれたのは嬉しいが――手間を考えれば、そこでチクマのために買っていこうとなるのは、なかなか無いのではなかろうか。
そう尋ねると彼はその問いを待っていたかのように答えた。目を細め、少しの欲を滲ませた声で。
「チクマと2人きりで話をしたくなったから、って言ったらどうする?」