「出たらしいぞ」
隣の席に座る同僚がわざとらしく声を潜め、言ってくる。私はといえば、そんな同僚の様子にげんなりしながら「またその話?」と軽くあしらうように返した。
「今週何回目? もう怪談の盛りは過ぎたんだけど?」
「いや、本当に今回はマジだって! なぁ!」
話の矛先は向かいに座る後輩くんへ。彼は苦笑しつつ、申し訳なさそうに頷いた。同僚はともかく勤務態度も真面目な後輩くんが嘘をつくとも、人をからかおうとするとも思えない。なぜか得意げな表情を浮かべている同僚に対する態度からは変えて、一応聞く姿勢を取ることにした。
最近、我が職場であるセキエイリーグ運営のバックオフィスフロアを俄かに賑わせているのは、一つの怪談話だった。
それは昼夜問わず、決まってスタッフが一人の時に遭遇するという幽霊の話。自分を呼ぶ声が聞こえ、そちらを向けば薄暗くなった先で手招きをする誰かがいる――という、ありきたりなもの。怪談話の最初のページの、これまた一番目に出てくるようなチープな内容である。
しかし、いつの間にかリーグ全体にその話は広まっていた。発端が誰なのかはわからない。でもその『誰か』もとい『幽霊』に遭遇したというスタッフも多数いるのもまた事実で。そしてこの度、どうやら後輩くんもその一人に連なったらしい。
「僕は祖母を見たんです。『こっちにおいで』って手招きされました。思わずそちらに行きかけたところで、後ろから先輩が声をかけてくれて。そこでハッとなった時にはもう祖母はいませんでした」
「いやぁ、あの時のお前はなんだかぼーっとしてたからさ。ちょっと変に思ったんだよなぁ」
「本当に助かりました」
改めて頭を下げる後輩くんは「でもちょっと不思議なこともあって」と言葉を続けた。
「祖母はまだ生きているんですよね……。こういう場合のセオリーって、だいたい亡くなった相手が呼んでいるものじゃないんですかね?」
首を傾げる後輩に「お前だけじゃないらしいぜ。生きている相手が現れたのは」と同僚は言う。家族、恋人、友人……生死問わず、その『幽霊』は現れるらしい。加えて法則性もないとのこと。
そこまで聞くと、余計に怪談話って感じではないような。どちらかというとゴーストタイプのポケモンの悪戯じゃないのだろうか。職員だってポケモンを連れてくるし、なによりここはセキエイリーグ。挑戦者であるトレーナーたちの誰かがゴーストポケモンを持っていてもおかしくはない。バックオフィス部分に挑戦者は入ってこられないが、ポケモンにそのルールは通用しないだろう。壁をすり抜けられるゴーストタイプならなおさら。素直にそれを口にすれば「甘いな」とすぐさま否定が飛んでくる。
「カリンさんが見回ったらしいぜ。この話が広まりはじめたあたりに」
「え、そうだったんだ。知らなかった」
「ちなみに収穫ナシ。ゴーストタイプのポケモンの痕跡は無かったってよ」
あくタイプのエキスパートであるカリンさんがそう言うなら、そうなのかもしれない。こうかばつぐん≠フ一撃を繰り出せる彼女のポケモンたちはゴーストタイプにも鼻が効くらしいから。そのこともあって余計に『幽霊』疑惑で沸きあがっているところもあるのだろう。
それにしても幽霊か、と思わず考えてしまう。あいにく私にはそういった類を視るチカラは無い。それどころかゴーストポケモンが通ったあとの霊気? 寒気? といったものも、あんまりピンとこない質だ。敏感な人は本当に敏感らしいけれど、幸か不幸か私には全然だ。だから余計に今回の怪談話を信じきれないというのがある。そうでなくとも自分の職場に起きている怪談現象を嬉々として話すほうも、ちょっとどうかと思うけど。
「いるわよぉ、幽霊」
急に入ってきた声に私たちは全員とびあがる。それが席を外していた課長のものだったからだ。
雑談をしていたことがバレて慌てる私たちを見て、クスクスと笑う彼女は「懐かしいわね」と目を細めた。
「キクコさんがいらっしゃった時にはしょっちゅうだったわね。その手の話」
キクコさんと言えば、元四天王のお一人だ。それこそゴーストタイプのエキスパートだったはず。
「そりゃもちろん、中にはゴースたちの悪戯もあったけれど、たまに本物も混じっていたみたいね。最近はめっきりそういった話を聞かなくなったけれど、まだいたとは思わなかったわ」
課長は楽し気に話す。まるで思い出話をするかのように。
しかも今回の幽霊は以前からもよく出没したのだという爆弾発言まで飛び出す始末。
「その幽霊は前にも出てね。キクコさんが追い払ってくださったんだけど、また戻ってきたのかしら」
「戻ってきた……?」
「ええ。今回も同じだもの。『誰か』に成り代わって『向こう』へ連れていこうとする。手口がそっくり、というかそのままだわ」
『向こう』へ連れていこうとする。その一言に誰からか小さな悲鳴があがった。
でも、課長の言う通りだ。後輩くんは一歩間違えれば……。嫌な考えが頭を過る。思いの外、事は重大なのかもしれない。課長は続けて言った。
「不要におどかすつもりはないけれど、充分に気をつけなさいね。その幽霊は相手の心を覗くから」
「相手の心を覗く?」
「ええ。相手の心に奥にいる、その人が一番着いていきたくなる相手、求めている相手に成り代わるのよ」
あ、と後輩くんが呟く。心当たりがあるのかと尋ねれば「最近帰省できていなかったから、ちょうど祖母の顔を見たくなっていた」と震える声が返ってくる。課長はそれを聞いて、息を吐いた。眉間にしわがぐっと寄せ、真剣な眼差しを見せる。
「その幽霊は、求めている相手と成って呼ぶのよ。『こっちに来て』って。着いていったら……あとは言わなくてもわかるわよね?」
静かな声は降り積もる雪のように、私の心に恐怖を落としていった。
横目で隣を見れば同僚の顔色は真っ青。けれど、私もきっと同じ顔色をしているに違いない。今ほどこの怪談がゴーストポケモンの悪戯であればよいのに願うことは無いだろう。
*
そんな話をした矢先に私はなぜ一人でサーバー室へ向かっているのだろうか!
課長の話にうすら寒さを覚えながら仕事をしていたところ、パソコンの調子が悪くなった。厳密にいえばデータサーバーにアクセスできなくなってしまったのだ。先ほどの三人で顔を見合わせ、一発勝負のじゃんけんしたところ負けたのは私。
たかがサーバーの再起動に二人も三人も必要ない。仕方なしに私は一人、サーバー室へ向かっている。いつも通りにサーバーを再起動すればいいだけの話。けれど、先程の課長の話が尾を引いていた。まだ恐怖が纏わりついているような気がして、思わず腕をさすってしまう。
「なにも起きませんように……」
サーバー室は冷房が効いていて寒い。部屋の電気をつけ、エラー点滅をしている件のサーバーを手早く再起動する。しばらくして正常ランプに変わる。これでよし。さっさと帰ろう。
冷房のせいで身体が冷えたせいだろうか。ぶるりと身体が震えた。休憩室に寄り道して、フリードリンクのコーヒーでももらっていこうかな。甘くしたやつが飲みたい気分だ。ミルクもいれちゃおう。
真っ直ぐ帰ろうとした足先の行方を変え、歩き出す。しばらくすると後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返れば、そこにはこのセキエイリーグの主であるワタルさんの姿が。業務で関わりがあるから私の名を知っていてもおかしくはないのだけれど、急に呼び止められたことに少し面食らう。
「どうかしましたか?」
「急に呼び止めてすまない。少し確認してほしいものがあって」
「確認、ですか?」
「ああ、頼むよ」
手招く彼に近付こうとして、思い出す。課長の話を。同僚と後輩くんの話も同時に。
まさか、と鼓動が早くなる。目の前のワタルさんは本当にワタルさんなのだろうか?
不自然な私に気づいたのかワタルさんは「忙しいところすまないが、早めに確認してもらいたい」と申し訳なさそうに眉を下げている。
「だ、大丈夫です」
「そうか。助かる」
こちらだ、と背を向ける彼の後ろを着いていく。
ワタルさんだったらそれでいいし、仮に幽霊だったら急いで戻ろう。大丈夫、まだ意識ははっきりしている。呆けている感じはしない。
それに、幽霊がワタルさんに成り代わる理由も無いのだ。
『ワタルさん』に呼ばれれば着いていくかと言われれば、そりゃそうだ。ワタルさんは私にとって間接的な上司だから。でも課長や後輩くんの話からすると、幽霊が成り代わる相手はどちらかというともっとプライベートな……心情的な要素のほうが強いはず。でなければ『相手』の目撃証言はみんな『上司』にならなければおかしい。そういった意味からも、仮に幽霊が私の相手に選ぶのならワタルさんでは無いだろう。
向かっていたのはサーバー室だった。
……なんだか拍子抜けしてしまった。まさか先ほどまでいた場所に戻ってくるなんて。ああ、もしかしたら私が再起動かけたから、他のサーバーに影響が出たとか? そうだったら申し訳ないなぁ。
そんなことを考え、ワタルさんに尋ねる。
「確認ってサーバーのことですか?」
「ああ、そうだよ」
答えと共にサーバー室のドアが開く。先ほどと同様、冷たい空気がひやりと私を舐めていった。ワタルさんが先にサーバー室に入っていく。私もあとに続こうとして――足が止まった。
「どうしたんだい?」
「い、いえ……」
サーバー室は暗い。四六時中明かりを点ける必要がない部屋だから、当たり前のこと。
でもなぜか、先程よりもその暗闇が濃く、深くなっているような気がして。部屋への一歩が踏み出せない。ちらりとワタルさんを見る。纏うマントの色と相まって、彼が闇に溶けていくような錯覚に陥った。
「チクマ」
「…………」
「おいで」
ふらり。力が抜けていく。あれ? と疑問に思う間もなく、私の思考は靄がかかっていった。ワタルさんは「おいで、チクマ」とまた私を呼んだ。その度に私の意識は遠くなっていく。でも一つだけはっきりしていることがあった。
ワタルさんが呼んでいるのなら、いかないと。
一歩、サーバー室へ足を踏み入れた。ワタルさんが差し出す手に、自分のものを重ねようと延ばす。指先がふれる間際だった。ガクンと私の身体が傾いたのは。後ろに引っ張られ、足がもつれる。背中に当たる体温はひどく熱い。
「だめだ」
はっきりとした声が聞こえた。それを耳にした瞬間、急激に頭が冴えていく。浅い息が口からもれる。
「チクマは、渡さない」
後ろにいるのはワタルさんだ。きっと本物の。
その証拠に目の前にいたはずの『ワタルさん』は瞬きの合間に消えていってしまっていた。残されたのはサーバーが動く鈍い音と、腕に回る男の人の腕。ワタルさんと私の二人だけが、その部屋にいた。
どっと力が抜けていく。自分の身体さえ支えきれなくなった私がよろけるのを、ワタルさんは見越していたのだろう。回された腕は私を離さない。
「よかった。間に合ったな」
「あ、あの、わたし……」
「話はとりあえず、ここを出てからにしよう」
と言われても、私の足はまだおぼつかない。一歩歩くだけで転んでしまいそうだった。
ワタルさんはすぐさま私の状態に気づいたのだろう。腕を差しだし、私に掴まるように促した。
「きみが許してくれるのなら、抱きかかえてしまうが」
「だき……っ!?」
「おんぶでもいいけれど?」
「掴まらせてもらうだけで充分ですっ」
とはいえ、それだってだいぶ緊張するのだけれど。
人に見られぬよう休めるように、とチャンピオン室に向かうべく、ゆっくりと進む。執務室に着いた途端に、ほぼ強制的にソファへと座らされた。やわらかいそれに腰を落ち着ければ、先程とは違った理由で力が抜け、疲労が迫ってくる。浅く息を数回吐いた私はようやくワタルさんにお礼を言うことができた。
ワタルさんがいなければ、私は幽霊に連れていかれてしまったはずだから。
私の向かいに座った彼に改めて深々と頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました……」
「謝るのはおれのほうだ。ここまで放っておいたのはこちらのミスだよ。早々にキクコやマツバに依頼をするべきだった」
ワタルさんはちょうどカントー・ジョウトが誇るエキスパート二人に依頼の連絡をするところだったという。そのタイミングでうちの課長からも連絡をもらったらしい。そのメールを見て、なんとなく嫌な予感がよぎったらしい。
「第六感というヤツだろうな。予感のする方に向かってみたら、きみがふらふらとした様子でサーバー室に入りそうになっていたからね。さすがに驚いた」
「うう……ありがとうございます……」
いたたまれなくなり、つい項垂れてしまう。
課長に忠告されたばかりだというのに、この体たらく。おそらくワタルさんから課長に連絡がいっているに違いないところも合わせて、本当にふがいない。
――それにしても、と恐怖が拭われた頭は悩みだす。
なぜ幽霊はワタルさんに成って私の前に現れたのだろうか。やっぱり上司だからだろうか? なら課長でもよかったのでは。助かったこともあって、気持ちが落ち着くと浮かんでくる疑問。ちょっと腑に落ちない点が多い。まさか、あの幽霊は噂の幽霊とは違う個体なのだろうか。……そうなると二人も幽霊がいることになってしまう。
考え込む私を見てワタルさんはふっと口元を緩め、尋ねてきた。「そんなに幽霊の姿が気になるかい?」と。彼にとって私の考え事を見抜くことは容易いらしい。
「そうですね……ころっと騙されたわけですし……」
「ちなみに誰だったんだい?」
あれ? ワタルさんには幽霊のワタルさんが見えていなかったんだろうか。まあ、暗かったし、ワタルさんと幽霊は距離もあったから姿は見えにくかったのかも。
「ワタルさんです」
「おれ?」
「はい。ワタルさんだったんで、素直に着いていってしまって。あの時、ちょうど課長から怖い話を聞いていましたから、頼りになるワタルさんを無意識に思い描いていたのかもしれませんね」
なにせ彼はチャンピオン。このリーグに、ワタルさん以上に頼りになる人はいない。我ながら納得する理由である。うんうんと一人頷いていると、ワタルさんは「ふうん」と含みのある声を出す。
「実は、おれにも幽霊は視えていてね」
「そうだったんですか? じゃあ自分自身とご対面を?」
「いや、違うよ。おれに視えていたのはチクマだ」
「……え?」
「あそこに二人、きみがいたようにおれには視えていたんだよ」
ところで幽霊が成り代わる条件は知っているか?
まるで雑談のようにワタルさんは問うてきた。けれどそれが私の不安を拭うためのものではないらしい。なぜなら彼の瞳が私を貫いて、離さないから。
どきりと心臓が跳ねる。なんで私はこんなに緊張しているの?
「相手の心に奥にいる、その人が一番着いていきたくなる相手、求めている相手に成り代わる」
落とされた言葉は、声は、静かだった。けれど確かに秘めた熱は感じられて。
ぎしりとソファが軋む。ワタルさんが足を組んだのだ。それだけの動きだけで私は敏感に反応してしまう。
私の様子を見つめるワタルさんの瞳が細まった。その奥に揺らめく光は焔のように、私を焦がす。
「さて、きみの目の前に現れた幽霊はなぜおれ≠ノなったのかな?」
何も言えない。プレッシャーに負ける。心臓が痛いほどに鳴っている。ぐらぐらと頭が揺れていくようだった。
ワタルさんが発する次の言葉を聞きたくない。聞いたら、戻れなくなってしまいそうだから。でも、私に選択肢は残されていない。彼が、それを望むから。
「少なくとも――」
ワタルさんは口元を甘く緩ませ、告げる。
「おれはきみを求めているよ」